沈黙の仏間
廊下の奥、障子一枚隔てた先に、あの部屋があった。
仏間。祖父の遺影が、あの日のまま置かれているという。
由衣は、胸の奥がかすかにざわつくのを感じながら、足を止めた。
「……入ってみる?」
背後で、おばあちゃんの声がした。
穏やかだけど、どこか探るような声音。
由衣はうなずいた。
「うん……でも、なんか、怖い」
「怖いものなんかおらんよ。……ただ、昔のことを覚えとるだけじゃ」
おばあちゃんはそう言って、静かに襖を開けた。
ふわり、と線香の香りが流れ出す。
仏壇の奥、蝋燭の灯がゆらゆらと揺れて、遺影の中の祖父が微笑んでいた。
――あの笑顔。
けれど、その笑みが、どこか遠く感じた。
「久しぶりね、おじいちゃん」
由衣は膝をつき、手を合わせた。
手のひらの熱がじんわりと伝わる。
そのときだった。
耳の奥で、何かがかすかに鳴った。
チリン。
……風鈴?
いや、閉め切られた部屋に風など入らない。
由衣が顔を上げると、仏壇の横に古びた掛け軸がかかっていた。
その隣、木製の小さな鈴が吊るされている。
おばあちゃんがそっと目を伏せた。
「それ、何?」
「……あれはね、あの日から鳴りやまんのよ」
「え?」
おばあちゃんは、仏壇の前に静かに座り、しばらく黙っていた。
蝋燭の火が、影を大きく伸ばしてゆく。
「おじいちゃんが亡くなった夜、誰もいない仏間で……鈴が鳴ったんよ」
「……え」
「最初は、風かと思った。でも、あれから何年経っても、時々鳴るんじゃ」
由衣は息をのんだ。
目の前の小さな鈴が、微かに揺れている。
まるで、何かがそこにいるように。
「誰かが、まだこの家におる気がしてならんのよ」
おばあちゃんの声は震えていた。
「……それは、幽霊ってこと?」
「さぁね。けど、あの人の“想い”は、まだここにおるんじゃろ」
由衣は仏壇を見つめた。
写真の奥の瞳が、まるで何かを訴えるように見えた。
――なにを、伝えようとしているの?
「おばあちゃん……その夜、何かあったの?」
「……」
おばあちゃんは、唇をきゅっと結んだ。
沈黙が、部屋を満たす。
蝋燭の炎がひときわ強く揺れ、影が壁一面に広がった。
由衣は、その揺らめく影の中に、一瞬、見覚えのある“人影”を見た。
男の姿。
スーツ姿で、どこか焦点の合わない目。
「っ……!」
瞬きをすると、もうそこには何もなかった。
「どうしたん?」
「い、今……誰か、いたような……」
「……そうかい」
おばあちゃんは、それ以上何も言わなかった。
その代わり、仏壇の引き出しから古いノートを取り出した。
「これ、見ておきなさい」
表紙には「昭和五十三年」と書かれていた。
中を開くと、日記のような文字。
それは、祖父の筆跡だった。
“六月十二日 夜、裏山であの子を見かけた。
あれは……夢だったのか。
誰にも言ってはいけない気がする。”
「……“あの子”って?」
「それが、わからんのよ」
おばあちゃんの声が細くなる。
「でもな、この日を境に……あの人は変わってしもうた」
由衣はページをめくった。
どの行も震えた字で、断片的に恐れと後悔が綴られている。
“見てはいけなかった”
“消えない声がする”
“償わなければ”
やがて、最後のページに辿り着く。
そこには、滲んだ文字でこう記されていた。
“真実は、沈黙の中にある”
「……おじいちゃん……」
由衣の声が震える。
その瞬間、チリン……とまた鈴が鳴った。
静まり返った空気の中で、音が不気味なほど鮮明に響く。
由衣は思わず立ち上がった。
「おばあちゃん、今の――」
だが、おばあちゃんの顔色が変わっていた。
視線は仏壇の奥。
そこに、蝋燭の火が映し出したような“もうひとつの影”があった。
ゆらゆらと揺れながら、まるで何かを探すように、由衣たちの方へと近づいてくる。
「……おばあちゃん?」
「動いちゃいけん」
おばあちゃんの声が低く響いた。
「この家は、まだ“過去”を手放しとらんのじゃ」
影が仏壇の前で止まる。
鈴の音が、ひときわ大きく鳴った。
――沈黙の仏間。
その静けさの奥で、確かに“何か”が、目を覚ました。




