④ 月の化身 -2-
新月の日。
私が、いつものように闇夜に紛れ、地球に降りていた時だった。
その様子を、一人の男性に目撃されていた。
男性は、その光景に目と心を奪われてしまったのか、担いでいた望遠鏡を思わず地面に落としてしまった。
そして頬を抓ったり、かけていた眼鏡を取って目をこすり、再び眼鏡をかけ直してはこちらを凝視し、今目の前で起きている光景が夢の出来事では無いことを確認していた。
私は静かに地面に着地し、彼の存在に気に留めずに何事も無く立ち去ろうと歩きだすと、彼から声をかけてきた。
「ちょっと待って! 君は誰? どこから来たの? 今の何? これは僕の夢でもなく、見間違いじゃなければ、今君は空から舞い降りて来たよね?」
彼は動揺しつつも、立て続きに質問を投げかけてきたが、私は素知らぬ顔でかわし、歩みを止めなかった。
すると彼は咄嗟に私の元へ駆け寄り、その流れのまま肩を掴んで私の行く手を阻んだ。
「待ってくれ! そ、その、なんて言葉にしたら良いんだろうか……初めて逢った人に、こういうのもアレなんだけど……。君に恋をしたんだ!」
自然と口にしていた言葉に、言った本人が一番慌てふためいていた。
しかし、“恋”という言葉が気になった私は、思わず彼の方を振り返り、何度も地球に降りて遠くから人間の言葉を学んだ成果を投げかけた。
「それは、どういう、こと?」
「え、あ……。どういうことと訊かれても、恋とかの気持ちを説明するのは難しいな……。その、君に興味を持ったんだ。君のことが知りたいし、君とこうして話していたいんだ」
彼が言う言葉を私なりに解釈すると、私が地球に興味を持ったのと同じような気持ちなのかと判断した。それと、今までは人間を遠目で眺めるだけだった。
心のどこかでこうして人間と語り合いたかったのかも知れない。
「そう……解かった。それで、何を、話すの?」
「えっと……何を。そう! そうだ、君は何処から来たの? 僕の見間違いじゃ無ければ、空から舞い降りて来たよね? しかもパラシュートも無く……それも、全裸で……」
突然、彼の顔は真っ赤になり、自分の両手で自分の両目を覆い隠した。この時の私は、人間が着ている服などは着てはいなかった。
裸であることが普通であった為に、それに気に留めること無く、彼の問いに答えた。
「私は、あそこから、来た……」
そう言いながら、姿を隠している月がある場所――夜空を見上げる。
「あそこって……」
「今は見えない。貴方たちが言う、月から」
「月から?」
男は一瞬呆気に取られてしまった。冗談を言ったのだと思ったのだろう。
しかし、私の顔を見つめ、
「いや……君のことを信じる。だから、君が言うことも全て信じるよ」
優しく笑みを浮かべた。
「そうだ。君の名前は? あ、僕の名前はアラン・ブラウン。アランと呼んでくれ」
地球に降り立ち、色んな事を知った。そしてこの地球上では、どんなものにも名前が在ることも。空、雲、木、花……。そして今、私の目の前にいるモノは、生物学というカテゴリーの中で人間と呼ばれているが、人間の個々に名前が付けられている。
ある場所で人間を観ていた時、人間たちが名前を呼び合っているのを見たことがあった。私から見れば、人間は誰もが同じような顔をしている。だから、名前を付けて分別できるようにしているのかと考えた。
だが、名前を呼び合う……それが少し羨ましいとも思った。
私には名前が無かったからだ。
正確的に、無いという訳では無い。
私がいた場所は“月”と名付けられていた。
しかしそれは、地球の周りを廻っている衛星に“月”と名付けられているのであって、私では無い。
「私の、名前は……」
発言に躊躇していると、
「もしかして……名前が無いの?」
アランは優しい口調で語りかけてくれた。それは、私を傷つけないように……。
このまま自分の正体を隠しても意味が無いと悟り、
「私は……」
私が知り得た言葉を使って、自分自身のことを打ち明けた。
月は私であり、私は月であると。
当然の如くアランは先ほどよりも驚きの顔を見せたが、その顔は暫く神妙な顔つきで黙考したあと、笑顔に変わった。
「そうか……うん。全て納得できた。君が空から舞い降りてきたことも、君が何処からやってきたのかも。そうか、君は月の女神様だったんだ」
「月の、女神?」
「そう。神話やおとぎ話とかには、月に女神がいると伝えられているんだ。でも、それが今証明された。こうして、僕の目の前にその女神様がいるんだからね……」
「その月の、女神は、何という名前なの?」
「えーと、確か……。セレネとかアルテミス、ディアーナとかいうのもあったな……」
「セレネ、アルテミス……」
それらの名前には、何も感じとることは無かったが、
「ああ、それと。ルナ、かな」
「ルナ?」
その名前は心に空いた隙間をピースがカチリと埋まるようで、妙にしっくりきた。
「ルナ……」
もう一度、その名を呟いてみた。
私は、まんざらでもない表情をしていたのか、それとも感じ取ったのか、アランは笑顔で語りかけた。
「……うん。君にピッタリの名前だ。ねぇ、君のことをルナって呼んでいいかな?」
「ルナ……私の名前……」
この日……私はアランと出逢い、彼は私に名前を与え、呼んでくれた。
私にとって、かけがえの無い日となった。