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第3話 鋼魔


(大気が動いている)


 そんな、一実が普段なら使わない表現が浮かんでくるほど、大それたことが起こっていた。周囲の空気がまるごと、背後の化け物の支配下に置かれつつある。大気とはこういうものかと体感できるほどの異常を、一実は本能で察した。


(逃げなきゃ……!)


 一実はその本能に急かされて、より必死になって逃げた。


「助けて……!」


「誰かぁ……!」


 倒れた人たちを尻目に、一実は一人で逃げる。


(ごめんなさい!ごめんなさい!)


 一実は心の中で何度も謝った。今の自分にはどうすることもできない。許してほしい……と。


「ぐわぁあああ!」


「きゃああっ!」


 風の音に混じって、鋼魔に取り込まれているであろう人々の叫びが聞こえる。なぜ自分だけが動けているのだろう。冷たい疑問が、一実の足を重くする。視界には多くの倒れた人々が見える。動ける者はやはりいないようだ。


「……!」


 動けている一実に、助けを求めるような視線を向けてくる者もいる。

 

(やめて。しょうがないの。一人ならともかく、数も多すぎる)


 全てを捨て置いて逃げる一実の心に、罪悪感が降り積もる。なぜ、こんな思いをしなければいけないのか。誰が見ても、しょうがない状況じゃないか。なのに、なんでこんな気持ちになるのか。一実は自問する。


“ギュッ……”


 答えは腕の中にある。一実はヒーローに憧れる者として、取り柄がなくても、無能だろうと、せめて一欠片の優しさだけは持っていようと意識してきた。自分はそうあれると信じていた。

 

「…………!」


 しかし、現実はどうだ。いざ命の危険にぶち当たった時、一実は我が身可愛さでただただ走っている。何もできない無能だけが生き残ったとして、何になるのか。

 恐怖と一緒に、ひどい虚無感に襲われる。疲労で視界も暗くなっていく。遅かれ早かれ、追いつかれる結末は変わらないのかもしれない……。


「助けて……」


 ただ逃げるだけのモノになろうとしていた一実に、助けを求める声がかかる。


「たすけて……」


 一実が顔を上げると、進行方向の道路に、幼稚園児ぐらいに見える男の子が倒れていた。近くに親がいる様子はない。このままでは奴に食われてしまう……。

 あの子ぐらいなら、抱っこして走れるかもしれない。

 そんなビジョンが、一実の脳裏に浮かんだ。浮かんでしまった。


「……っ!?」


 一実が恐る恐る振り向くと、竜巻は獲物を味わうのに夢中なのか、思ったよりも距離が開いていた。


「ごめんなさい!シンセリー!……掴まって!」


 一実は謝りながら御神体の箱を脇に投げ、男の子に手を伸ばす。


「くぅ………!」


 抱き上げた男の子は脱力していて、想像より重かった。早くも後悔が一実の中に浮かびかける。だが、幼い柔らかさを持った腕が、弱々しくも確かに一実の首元に巻きついた。


「……!大丈夫だよ。お姉さんが助けるから!」


 そう言った一実には、男の子の顔を見る余裕もない。もはや何を言っているのか自分でも理解できていないような状態だったが、それでも彼女の足にはしっかりと力が入っていた。

 どこからそんな力が出てきたのか、一実はそれまで以上の速さで走り出した。自分よりもずっと弱い命が、必死に生きようとしがみついている。柔らかくて今にも壊れてしまいそうだけれど、確かに温かい。

 この子に傷ついてほしくない。消えてほしくない。それは、同種の生命体としての本能だろうか。それとも、一実という人間にもあった優しさというものだろうか。彼女は自分の中に湧く衝動の正体がよく分からなかった。

 しかし、その火事場の馬鹿力もほんのひと時のものだった。普通以下である一実が、いかに自分の中のリミッターを外したところで、すぐに限界が来る。

 体力の限界が本格的に近づいてきて、腕と足が痛くなってくる。脳への酸素の供給も間に合わない。みるみる速度が落ち、逃れるべき脅威が後ろに迫ってきているのが分かる。このままでは間違いなく追いつかれてしまうだろうと、彼女には分かった。


(私、何してるんだろう?)


 走っている体の感覚が薄れてきて、もはや自分が何をしているのか分からなくなってきた一実は、また自問する。

 自分はなぜ、当たり前のことも満足にできていないのに、いっちょ前に人助けなんかしようとしているのだろう。こんな重いものを持たなければ、生き残れる可能性が上がったというのに。そんなに自分は、善い存在という肩書きが欲しいのか。自分勝手な奴と言われたくないのか。……ああ、今からでも投げ捨ててしまおうか。人間とは結局、自分が一番かわいいものだ。それの何が悪いのか。

 そんな残酷な選択肢が、一実の頭の中に浮かんでくる。その時、もはやトランス状態になっていた一実の中に、一つの気づきが浮かんだ。


(あれ?似たようなことを考えたことなかったっけ?)


 重くて温かい命を抱えながら、必死になって怪物から逃げている。そして、出来心で他の命を守ってみようなどと思い上がったことを後悔し始める。……いつも見る夢と同じじゃないか。

 そう気づいたとき、この現実も夢ではないかという甘い予想が浮かんでくる。いつものように怪物に追いつかれて、目が覚める。そんな優しい結末が来てくれるのではないか、と。


「……!」


 そんな現実逃避の妄想が頭の中をいっぱいにしても、一実の足が止まることはなかった。なぜか。彼女は知っているからだ。救いがあるとしたら、走り抜いた先にしかないのだと。夢では見ないあの日の続き。心の奥底に沈んだ、一実という人間の原点である大切な思い出。

 怪物の魔手がこちらの背中に届くその瞬間、声が聞こえるのだ。


『あなたを見ていた』


「君を見ていた」


 ……と。


“……バッシュッ‼”


「きゃぁああ‼」


 蜘蛛の巣のようにこちらを絡めとる、奴の向かい風。その風とはまた違う、背中を押してくる風圧が来て、一実は体のバランスを崩してしまう。アスファルトの道路でスライディングする形になるが、腕の中の命が傷つかないよう、背中で庇う。


「……くっ!?……うぅ……」


 転んだ拍子に、一実の服の背中の部分が破れて、肌が少し擦れてしまう。彼女は火が付いたと思うほどの痛みに苛まれ、すぐには体勢を立て直せない。

 何が起こったのか。早く立たなければいけない。どんな怪我をしてしまったのか怖い。様々な感情で一実の思考はぐちゃぐちゃになり、動けなくなってしまう。


「もう、大丈夫。私が君たちを助けます」


 混乱する一実だったが、前の方からかかった声で我に返る。……“もう、大丈夫”。その言葉は、彼女が夢の続き……あの日の出来事の中でも聞いた言葉だった。


「だ、誰?」


 顔を上げた一実の視界に映ったのは、先ほどの衝撃で発生したと思われる土煙だった。

 そしてその中に、うっすらと人影のようなものが見える。

 目の前に、鋼魔獣ではない何かがいる。そのことは一実にもすぐに分かったが、その存在が何なのか、どう捉えるべきかは分からなかった。ただ、その向こうにいる鋼魔獣が動きを止めていることだけは、気配で分かった。


「組織に内緒で勝手に出てきてよかったのか迷っていました……しかし、君の“勇気ある行動”を見て、間違いではないと確信できました」


 煙が晴れるとともに、声の主の姿があらわになる。


「…………っ!」


 美しい人。それが、その姿を見た一実の第一印象だった。

 その人は、全身黒ずくめのスーツ姿で、二振りの刀を携え、一実の方に向かって立っていた。高校生ぐらいの男の子だろうか。すらっとした長い立ち姿に、輝く長い黒髪と、それに包まれた鋭く精悍極まりない顔。そして、四角い眼鏡の下から、感情の読み取れない光を放つ眼が、一実を見つめていた。


“ドクンッ!”


 運命と出会った一実が感じたのは、胸の高鳴りか。それとも、首にかけた石の脈動だっただろうか。


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