68: 増やせなかった選択
ノクターンの鏡湖の中央に、不機嫌な女神が浮かんでいる。
湖の端へと視線を向け、呆れたようにため息をついた。
「最初から最後まで――覗き見だなんて……」
湖の影が、わずかに揺れる。
そこから、長身の青年と、鹿ほどの大きさの狼型魔獣が、音もなく姿を現した。
「覗き見とな……見守った……と言って欲しいものだ」
シヴァルは、喉を鳴らしながら湖の端まで来ると、ゆったりと腰を下ろした。
「……レディーの会話を覗くなんて、無粋よ」
ノスタルジアは、シヴァルをギラリと睨んだ。
「あの娘は面白い!選択肢を自ら増やし、神に提案するとな」
ノスタルジアの睨みを、全く気にせず、シヴァルは愉快に笑った。
「変な声をあげたり、ちょっとした風で転んで、摘んだ実を尻で潰したり、愉快な娘よ」
ノスタルジアは、目に浮かぶルシナの姿につられ、くすりと笑った。
「……選択肢が増やせると、聞いていない」
ノアの低い声が、静かに響く。
ノスタルジアを見据えるその表情には、後悔の念が滲んでいた。
「聞かれてないもの……それに――貴方は、すぐに選んだじゃない」
ノアは奥歯を噛み締め、視線を落とす。
「なぜ、俺は苦しかったんだ……なぜ、ルシナは平然と過ごせた?」
ノスタルジアは、震えるノアの拳を見つめた。
「貴方の二つの魂は反発しあっていたのよ。互いを気に留める事なく、自らが残るべきだと……」
ノアの悲痛な叫びに、ノスタルジアは無表情で見据え続ける。
「あの子は違う。魂の質があまりにも似ていたせいで、絡み、溶け合っていた。だから融合も叶ったのよ」
「……俺の世界の……アーノルドはどうなった……」
か細く今にも消えそうな声であっても、ノスタルジアとシヴァルには、しっかりと受け止めていた。
「……死んだわね。その魂はここにあるのだから」
「……そうか」
ノアは小さく呟く。
「ノアの魂を選んだら、どうなっていた?」
「アーノルドの魂は、貴方の世界に戻る。そして、ノアは戦争で死んだわね」
「どのみち、死ぬのか……いいとこ取り…。
確かにルシナは、いいとこ取りをしたんだな」
シヴァルは、ノアの手のひらに、そっと鼻を押し付けた。
「お前は生きているだろう……」
「……暗殺、間者……裏業務に手を染めても?」
ノアは手のひらを見つめ、力を込めて拳を作る。
「力があれば!生き残れると思った!けれど……心は死んでいった……。ルシナを見つけなせれば、それも気付かずにすんだのに……」
「それでも……お前は、あの娘を助けている」
シヴァルは唸るように、ノアの行動の矛盾を指摘した。
「選択肢なんて、これから増やせばいいじゃない〜」
ノスタルジアの澄んだ声が軽やかに響く。
「魂の選択は、私が関わってるけど、それ以外は自分にあるのよ〜。力の使い方も自分次第って言ったじゃない〜」
「力を得てからの俺の選択が……間違っていたのか?」
ノアの表情に、戸惑いが広がる。
それは、この湖に初めて来た時の、少年のような表情だった。
「間違いなんてないのよ〜、救った命もあるんでしょ〜?」
「あぁ……同じくらい奪った命もある」
ノスタルジアは、駄々をこねる子どもを見るように、ため息をついた。
「こちらへいらっしゃい」
そう言って、ノアを手招きする。
ノアは手招きに導かれるように、そろそろと近づいた。
「ノア……貴方は優しすぎるのよ。妖精たちが懐いているのを見ても分かるわ」
ノアの周りには、いつも妖精たちが寄り添っていた。
「魂の選択は、貴方が決めたこと。でもね――境界線は、いつでも引き直せるわ」
そう言うと、ノスタルジアはノアの額に手を置いた。
「この世界で生きるための……出会いを」
白銀の光が、ノアの額を包み込む。
ノアの後悔も、罪悪感も、少しも消えなかった。
それでも――ほんの少しだけ、前に進める気がした。
「ジア……加護を与えたのか?」
シヴァルは低く唸った。
「あら?これくらい良いじゃない?」
何でもないことのように、ノスタルジアはおどけた表情で返す。
「ちょっとした出会いよ〜。ノアにはロマンスが必要なの!」
ノスタルジアはウインクをする。
シヴァルはげんなりした表情を浮かべ、後ろ足で耳の後ろを掻いた。
「さて!」
ノスタルジアはパチリと手を合わせて、笑みを浮かべる。
「ルシナとノアのこれからを祈願して――カラオケ大会といきましょうか!」
“わー”
“よいしょー”
“いえーい”
ノスタルジアが腕を上げると、妖精たちがぱちぱちと光を放ち、場を盛り上げる。
「……ノア、帰るぞ」
「あぁ」
背の高い青年と、大型の狼は、音もなくその場から姿を消した。
まるで最初から、そこにいなかったかのように。
「あれ?……シヴァル?……ノア?」
ノスタルジアは、きょろきょろと、二人の姿を探す。
「も〜これからが楽しいのに〜!」
ノスタルジアの叫びが、夜の湖面に響き渡った。
「寂しい……くすん……」
*****
シヴァルとノアは、静かな群生地へと場所を移していた。
「シヴァルは、あの女神と長い付き合いなのか?」
「古い馴染みではあるな。この一帯は、ジアと我の縄張りだ」
ノアは興味深そうに、その先を促す。
「人の定めはノスタルジアが……魔獣の定めは、我が担う。それが、我らの役割だ」
「そうか」
「あの娘も面白い」
シヴァルは、くくっと喉を鳴らして嗤う。
「お前が見守れと言うから見ていたが――。予想外の動きや叫びで、退屈しなかった」
「……そうか」
「なに、気まぐれで手を貸すくらいには、気に入った」
シヴァルは、尻尾をゆらりと揺らしながら、月を見上げる。
ノアは横目でシヴァルを見た。
「……それは、良かった」
小さく頷いた。
「さて、俺は業務に戻るとするか……」
「人の子は難儀よ……自由気ままに、昼寝をして過ごせばいいのに」
シヴァルは大きく欠伸をすると、全身を振るわせ毛並みを整えた。
「それは、羨ましい過ごし方だな」
ノアは月を眺めて、微笑んだ。




