第六十八段 住吉の浜
【本文】
むかし、男、和泉の国へ行きけり。住吉の郡、住吉の里、住吉の浜をゆくに、いとおもしろければ、おりゐつつゆく。或る人、「住吉の浜とよめ」といふ。
雁鳴きて菊の花さく秋はあれど
春のうみべに住吉の浜
とよめりければ、みな人々よまずなりにけり。
【現代語訳】
昔、ある男が和泉国へ行きました。その途中、住吉郡住吉村の住吉の海岸を通って行くとたいそう風景が美しかったので、ときおり馬から下りて腰をおろして休息しつつ風景を楽しみながら進みました。一行の中のある人が、「「住吉の浜」という言葉を入れて歌を詠んでみましょう」と言いました。
雁が鳴いて菊の花の咲く秋も素晴らしいですが、どこか憂いを帯びた春の海辺の景色はこの住吉の浜こそ長閑で住み心地のよい場所だと思われます。
このように詠んだので、みんな他の人はこの歌に感動してしまい、それ以上に歌は詠めなくなってしまったのでした。
【解釈・論考】
第六十六、六十七、六十八段とそれぞれ摂津、河内、和泉国を旅する話が続いています。これは決して無意味な配置ではないでしょう。この次が伊勢を舞台とした、有名な「狩の使」の話であることを鑑みると、伊勢へと向かう道中を予感させます。
その途中の住吉の浜辺で、主人公は春の住吉の海辺の美しさを詠んだ和歌を作ります。前の段では二月に降った雪景色の美しさを詠みましたが、この段では春の海の穏やかさを表している点が対照的ですね。この歌では「住吉」の地名と「住み良し」がかかっているのがまず分かりやすいですが、「秋」と「飽き」が掛詞となっており、秋と対比する形で春を導くこと、そしてその春の「うみ」から「憂み」をかけている点、、目の前に見える春の海辺の景色だけでなく秋の景色との対比がまずあること、そして視覚的な対比にとどまらず心情的な対比までなされているという、まさしく秀歌と呼ぶに相応しい美しい歌です。




