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第百十一段 まだ見ぬ人

【本文】

 むかし、男、やむごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにて、いひやりける。


 いにしへはありもやしけむ今ぞ知る

   まだ見ぬ人を恋ふるものとは


返し、


 下紐のしるしとするもとけなくに

   かたるがごとは恋ひずぞあるべき


また、返し、


 恋しとはさらにもいはじ下紐の

   とけむを人はそれと知らなむ



【現代語訳】

 昔、ある男が、身分の高い女のもとに、亡くなった方を弔うような様子で、次のような歌を詠んで贈りました。


 昔の時代にはあったことでしょうが、私は今知りました。まだ見たこともない方に恋する気持ちというのは。


女からの返歌は次のようなものでした。


 人から恋をされると下袴の紐がとけるといいますが、まだとけないところをみると貴方はお言葉ほどには恋しく想われていらっしゃないのでしょう。


それに対し、男は次のように返しました。


 では、さらに言葉で恋しいとは言わないようにしましょう。下袴の紐がとけたら、そのときは私の気持ちを確かなものだと知ってくださるでしょうから。



【解釈・論考】

 話の流れを理解するのがすこし難しい段です。この段の三首の歌のうち、まず一首目は男が女の身近な人を弔うような様子で急に歌を贈ってきたという訳です。女の親戚か侍女か誰かが亡くなったことへの挨拶を口実にして、女と歌のやり取りをする機会にしようとしたということなのでしょう。


 歌をみていきましょう。一首目の歌は『新勅撰集』恋(631)に題しらず詠み人知らずとして収められています。特に難しいところはなく、意味をそのまま取っていける内容です。この段の状況を踏まえると人を弔う素振りが薄いのが気になりますが、本来は別の誰かが詠んだ歌を借用しているのでそういうことになるのでしょう。

 二首目の歌は女からの返歌です。弔いの挨拶にかこつけて見ず知らずの自分に歌を贈ってくるのは不誠実な態度であり、信用できないというメッセージを込めています。上の句で「下紐のしるし…」という言い伝えから始めているのは、男の歌の「いにしへはありもやしけむ」という部分を受けて古い言い伝えのことを持ち出した、ということにしたかったのでしょう。「下紐」については第三十七段の「下紐とくな朝顔の」でも触れましたが、『万葉集』でも男女の二人の仲が通じるということの暗喩として用いられている言葉でした。ただ、「やむごとなき女」が唐突に「下紐」という言葉を用いていることについては若干の違和感を感じてしまいます。

 三首目の歌は男からの返歌です。女に自分のアプローチの意図が伝わったのが確認できたので、これから先は気長にゆっくりと好意を伝え続けて行こう、という態度であるようにも見えます。

 二首目と三首目の歌は『後撰集』恋に収められており、実はそちらではこの二つの歌は順番が逆に載せられています。つまり三首目の男の歌が先で、それに返す形で女の歌ということになっています。


 恋しとはさらにもいはじ下紐の

   とけむを人はそれと知らなむ


 下紐のしるしとするもとけなくに

   かたるがごとは恋ひずぞあるべき


つまり、「好きだとは言葉に出しては言えないけれど、下紐がとけたなら私の想いが分かるでしょう?」「下紐はとけてもいないのにそんなことを言うのは信じられません」といった応答であるようです。この贈答歌はなるほど、逆転させたほうがやり取りとしての味わいは面白いかもしれません。なお、三首目の歌の作者は在原元方という人で、業平の孫にあたる人です。この段は題材となっている歌、そして歌の並べ方が切って貼ったような様子であることなどから、伊勢物語の中では後期に創作されたものとみられます。

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