第百六段 龍田川
【本文】
むかし、男、親王たちの逍遥し給ふところにまうでて、龍田川のほとりにて、
ちはやぶる神代も聞かず龍田川
からくれなゐに水くくるとは
【現代語訳】
昔、ある男が、親王さま方のそぞろ歩きをなさっているところに随行して、龍田川のほとりにきたときに次のような歌を詠んだのでした。
神聖な神々の時代にも聞いたことはなかったでしょう。龍田川の水を紅にくくり染めにするというこの景色は。
【解釈・論考】
百人一首にも収められている実に有名な歌です。『古今集』秋下(294)にも収められており、詞書に「二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にてよめる」とあり、(293)素性法師の「もみぢばの流れてとまる水門には紅深き波や立つらむ」に続く形で業平の歌として載せられています。
この歌は解釈が若干難しめです。ひとつずつ言葉を確認していきましょう。「ちはやぶる」は第七十一段でもみてきたように「神」を導く枕詞でした。「はげしく」「勢いのある」といった意味を持つ言葉ですが、枕詞として用いられている場合は意味はあまり重要視されないので、現代語訳をとるときもこの言葉の意味にはあまり拘らなくていいでしょう。二句目「神代もきかず」はそのまま「神々の時代にも聞いたことはなかったでしょう」と取れるでしょう。三句目の「竜田川」は大和国(今の奈良県)にある川で、紅葉の景色が美しいということで有名でした。このように特徴的な美しい景色の名所・地名を「歌枕」と言い、歌の中に盛り込むだけで情景が想像しやすくなるという効果があります。さて、「竜田川」というキーワードがきているから紅葉の景色の歌だ、とそこまで分かったところで下の句、「からくれなゐに水くくるとは」と一気に導かれる訳です。「からくれない」というのは中国から渡ってきた鮮やかな赤色のこと。「水くくる」というので「川の水がくくり染めに染めあげられている」と言っているのです。一面に紅葉が浮かんでいる川の様子を、赤色に染め上げられているのだ、と喩えているのです。ここで結句の「とは」と意味については、研究者の間でもいくつか学説があるようですが、ここでは倒置法表現であるとする解釈を採用したいと思います。つまり、この歌の核としては「からくれなゐに」「水くくるとは」「神代もきかず」であり、水面を括り染めにしあげている主語は「竜田川」なのです。竜田川が水を染めあげているという「擬人法」、水面に浮かんだ紅葉が染模様であるという「見立て」、そして先程挙げた「倒置法」と詩的表現におけるテクニックが盛り沢山です。
また、この歌の素晴らしいところは『古今集』では一つ前に載せられている素性法師の歌を素直に受け止めて成立しているところです。素性法師の歌は「水門に紅葉が集まって波の深いところまで紅い色をしている」と叙景的・現実的に詠みあげています。これに対して業平の歌は情景を引き継いで幻想的な表現へと展開させている訳です。この二首を添えられた紅葉の絵の屏風というのは、さぞ情緒をくすぐるものになったかと想像されます。
神代のことが挙げられていたのに因んで一つ、余談をさせて頂きましょう。古代、日本の春には佐保姫、秋には竜田姫という女神さまがおり、それぞれ大和国(今の奈良県)の佐保山と、竜田山に宿るとされていました。佐保姫は染め物と機織りを得意とする女神さまで、柔らかく咲く花の色、光を浴びてたなびく春雲は佐保姫が織りなしたのだと伝えられてきました。竜田姫は同じく染め物と、そしてお裁縫を得意とする女神さまでした。色鮮やかに山や川を飾る紅葉は竜田姫が縫いつけたものだと伝えられていました。それぞれの女神さまを詠んだ歌をご紹介してこの段の解釈をおしまいにしましょう。
『兼盛集』平兼盛
佐保姫の糸染め掛くる青柳を吹きな乱しそ春の初風
『後撰集』詠み人知らず
見るごとに秋にもなるかな竜田姫もみぢ染むとや山も着るらん




