第百二段 親族なる尼
【本文】
むかし、男ありけり。歌はよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり。あてなる女の尼になりて、世の中を思ひ倦んじて京にもあらず、はるかなる山里に住みけり。もと親族なりければ、よみてやりける。
そむくとて雲には乗らぬものなれど
世の憂きことぞよそになるてふ
となむいひやりける。
斎宮の宮なり。
【現代語訳】
昔、ある男がいました。歌を詠むような人ではありませんでしたが、男女の仲の機微についてはよく心得ていました。ある高貴な女性が髪を下ろして尼になって、世の中の人間関係を疎んじて、京に住まずに、遠くの山里に住んでいました。男とは元々は親戚筋にあたる人だったので、次のような歌を詠んで贈りました。
世の中に背を向けて出家したところで雲に乗ってどこかへ行けるという訳でもないのでしょうが、それでも世間のいやな人間関係とは離れることができるのでしょうね。
とこのように言い送ったのでした。
この女性は斎宮を勤められていた内親王です。
【解釈・論考】
物語文の冒頭の「歌はよまざりけれど」というのは、あえてこのように記述してあります。前の段(第百一段でも)「もとより歌のことは知らざりければ」の記述がありましたが、あのお話では行平の兄弟ということで主人公の男が業平であることが自明であり、それを歌を詠まないという風に書くのは謙遜のニュアンスもあったでしょう。もっとも多くの他の段では主人公の男は歌を詠む人として描写されており、僕はこれはそれぞれの段の作者が業平に近しい関係性にあった人物か、そうでない他人であったかの違いではなかろうかと考えます。
さて、このお話では髪を下ろして尼になった人へ歌を贈ったというお話です。出家して尼になるというのは、世俗のこと、つまり男女関係からも無縁の生活となることを意味していました。
歌をみていきましょう。二句目「雲には乗らぬ」というのは中国の『荘子』に仙人は雲に乗り龍を御して俗世間を離れて隠遁するという一節があります。「貴女は人間であり仙人ではないのだから雲に乗っていなくなってしまったという訳ではありませんが…」といった意味が二句と三句目で表されているのです。結句の「よそになるてふ」について、「てふ」という言葉を確認しておきましょう。「…てふ」は「…といふ」がつづまった言葉であり、意味はそのまま、読み方は「ちょう」となります。古典和歌では「…といふ」も「…てふ」もどちらも使われますが、三音か二音かを選ぶことができる点で便利な言葉です。現代の日常会話ではほとんど用いられることのない言葉ですが、短歌や俳句の世界では古語を使うこともありますので、うまく歌か句に取り入れることができればアクセントになったり調べを整えることができるでしょうね。関西方面などでは「…といふ」を「…ちゅう」とする言い方がありますが、これが「…てふ」と関連性のあるものなのかはよく分かりません。終止形をとったときに「…てふ」「…ちゅう」では語感や印象が若干変わってくるような気はします。このあたりは言語学や民俗学に詳しい方に意見を聞いてみたいところです。
さて、このように言葉の考察をしていけば歌の意味は取りやすいかと思われます。全体的に雲が風に流れるような調べで、結句の「よそになるちょう」の響きがさらりと消え去るような印象を受けます。物語の末尾に、この女は斎宮であったと書かれています。恋の思い出はもはや昔のこと。今は世間の噂に思い煩わされることなく穏やかに過ごしていて欲しいといった願いが込められているように思われます。




