第九十九段 右近の馬場のひをりの日
【本文】
むかし、右近の馬場のひをりの日、むかひに立てたりける車に、女の顔の、下簾よりほのかに見えければ、中将なりける男のよみてやりける。
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは
あやなく今日やながめ暮さむ
返し、
知る知らぬ何かあやなく別きていはむ
思ひのみこそしるべなりけれ
のちは誰と知りにけり。
【現代語訳】
昔、右近衛府の馬場で騎射の予行演習が行われていた日に、馬場の向こう側に立ててあった車に、女の顔が、下簾からほのかに見えたので、中将であった男が歌を詠んで贈りました。
御顔が見えないような、見えるような貴女のことを思いつめて、為すこともなく今日一日眺め過ごすことになるのでしょうか。
次の歌が返ってきました。
見えているから知っている人、見えていないから知らない人というように、どうして理由もなく無理に区別できるというのでしょうか。恋の道は思いの火だけが道しるべでありますのに。
のちには遂に女が何者であるか分かって、逢うようになったということです。
【解釈・論考】
右近の馬場は一条大宮にあったそうです。「ひをりの日」というのは五月に行われる騎射(騎乗して弓を射ること)の試し打ちの日の一つであるそうです。顕昭という鎌倉時代の僧が書いた『袖中抄』という歌学書によれば、「六日は右近の馬手結也。…(中略)…真手番の日は、紅の下の袴織物の指貫を括り上げ、裾を挟みて、褐の尻を脛より前ざまにたうさきて前にはさめり、さればこの真手番の日をひをりの日とは云也」とのことです。この動作がなぜ「ひをり」という言葉につながるのかはいまいち不明です。研究者の学説も「よくわからない」としているものがほとんどでした。ただ、この日の試射は朝早く行われるものなので、この話も朝の早い時間帯のことだろうというところまでは解釈が揃っています。
歌をみていきましょう。この段の二首の歌は『古今集』恋476、477に贈答歌として収められています。『古今集』には男の歌は業平の作であるとされていますが、女の返歌は詠み人知らずとなっています。
一首目の上の句、「見ずもあらず見もせぬ」というのは下簾からほのかに見えるだけであることから来ており、見えるような見えないようなといった曖昧さがいよいよ恋心を募らせる、といっっている訳です。「あやなく」というのは「筋道が通らない」「わけがわからない」「無駄に」といった意味の言葉です。恋しさゆえに今日一日を無駄に、わけがわからないような気持ちで眺め過ごしてしまいそうだ、と言っているのですが、これを朝早くに詠んでいるだけにいっそう真に迫るものがあります。
これに対する女の返歌は情熱的です。初句の「知る知らぬ」は、男の歌の中の「見ずもあらず見もせぬ」を受けて応じている形です。そのまま男の歌の中の「あやなし」を転用することで「知ってる人だとか、知らない人だとか、逢えるとか逢えないかとか、そんなはっきり分けられるものではないわ」といっているのです。そして定番の表現ですが「思ひ」という言葉に「気持ち」という意味と、「恋心の火」という意味を掛詞にして詠み込んでいるのです。馬場に車を立てていたのは、ひょっとしてこの人は元々業平に好意を寄せているような人だったのかもしれませんね。




