79 二人っきり
「フーン! 買い出しに行ってくるから、留守番よろしくね」
「モーラノイ、フーンとおさんぽにいってくるネ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
二人を見送り、玄関の扉を閉じると俺はよっしゃとガッツポーズを決めた。
うるさい二人とクソ犬が出ていった。ベルディーは忙しいのか、最近、あまり出しゃばってこない。この二つの好都合な要素の組み合わせは、一体何を意味するのか?
簡単なことだ。
今日はぐうたらと毛布の中に包まって、朝昼晩構わず、一日中ゆっくりと昼寝ができるということである!
よし、では早速――おっと、その前にと……。
俺は台所に入り、人参を数本頂戴してから庭へ向かった。
一度、ぐうたらモードに入ったら、明日になるまで一切何もしたくなくなってしまうので、その前に馬小屋に住んでいる相棒に餌をやらないとな。
「ドブブブル、グブグブ!」
「あれ?」
馬小屋にたどり着くと、スケトンが嬉しそうに前後の足を交互に跳ねさせながら、もごもごと何かを頬張っている口を俺に見せつけてきた。
「誰からもらったんだよ、それ? まさか、落ちてた古いゴミでも食べたんじゃないだろうな?」
「ググ? グフン、グフン」
俺が訝しげな視線を向けると、スケトンは否定するように首を左右に振った。
まあ、そうだよな。スケトンは俺に似て綺麗好きだもんな。
「フーンさん、大丈夫ですよ。私が先に餌をあげておいただけです」
バンダナキャップ、エプロン、大きなホウキ。
掃除ギアをフル装備した家政婦姿のメルリンが馬小屋の奥から出てきた。
「お、メルリンだったのか。おはよう」
「おはようございます!」
今朝は家で見かけなかったので、仕事をしにババアのとこへでも通っていたのかと思ったが、どうやら勤勉な彼女は早朝からこの家の掃除に励んでいたみたいだ。
頑張り者の朝は早いな。
怠惰の化身となりつつある俺も見習わなくてはならない(見習うとは言っていない)。
「朝からずっとこっちにいてもヨムル様は大丈夫なのか?」
「はい。りんごがオフシーズンで仕事量が少ない間は、カリア一人でも大丈夫って言っていました。なので、しばらくはこちらの仕事を優先します」
「そうか。朝早くからわざわざありがとな、メルリン」
「いえいえ、家のことは全部するとソファイリさんと約束したので、当然のことですよ」
ああ、なんて真面目な良い子なんだろう。
真面目さの欠如が取り柄な俺とは大違いだ。
もしかして、そんなギャップに惹かれて、俺はメルリンと言う名の底なし沼にハマってしまったのかもしれない。
「そうだ! 大変そうだし俺も手伝うよ。何かできることはないか?」
「え、本当ですか!? 助かります!」
今日は一日ナマケモノの如くぐうたらするつもりだったが、このプリティーエンジェル笑顔を見れるのであれば、そんな予定が潰れるのは安いものだ。
一日どころか、一年単位で潰してもまだお釣りが返ってくる。
「では、これから風呂場へ一緒に来てくれますか? そこはまだ掃除したことがなくて、かなり大規模な作業になるかもしれませんが……」
「そんなこと気にするなって。もちろん手伝うよ!」
***
「では、私は浴槽の汚れを落とすので、フーンさんは壁と床の方をお願いします」
「了解っす、メルリン隊長!」
俺はスポンジを持った手で敬礼をした。
「ふふふ、なにふざけてるんですか?」
こんなくだらないギャグなのに、メルリンは心の底から楽しそうに笑ってくれる。
確信した。きっと天使という言葉は、ありきたりな比喩をするためとかではなく、メルリンを的確に表現するために作られたのだろう。
仮にソファイリに同じセリフを言ったら、白い目で見られただけだろうし、モノホンの天使であるベルディーですら、「うわっ、つまらないですね。もっとわたしを楽しませる努力をしてください」と上から目線で腹が立つ返答をしてくるだけだ。
メルリンみたいな素晴らしい女性が身近にいる俺はなんて幸せ者なのだろう。
「そういえば、メルリン。俺がいない間、バリーで何か変わったことでもあったか?」
黙々と作業をしているだけでは退屈なので、俺は適当な何気ない話題をメルリンに振った。
「そうですね……特筆すべきようなことは、あまりありませんね。こちらでの暮らしは相変わらず平和そのものでしたから」
「そうか、それはよかった。やっぱ平和が一番だよな」
「あ、ですけど、一つ面白いことを思い出しましたよ」
そう言って、メルリンは意地悪げな笑みを浮かべた。
「なんだ? すごく気になるぞ」
「実はですね、フーンさんが王都へ向かった次の日に、カリアと一緒に買い物をしに繁華街へ行ったんですけど……」
「うんうん」
「公園を通り過ぎた時に、『パンツ勇士のお姉ちゃんだ!』って叫びながら、そこで遊んでいた子供たちがカリアの周りに集まってきたんです」
「プフッ!」
子供達の秀優なネーミングセンスに思わず吹き出してしまった。
おそらく、そのあだ名は俺と闘技大会の決勝戦で戦った際に、すっ転んでパンツを大々的に観客に晒し、あまりの恥ずかしさに会場から逃げて、八勇士になり損ねてしまったことを指す蔑称なのだろう。
「それ以来、カリアは子供を見かけるたびに、物陰に隠れるようになっちゃったんですよ。ふふふ、可愛いですよね」
可愛いかどうかは知らないが、カリアを弄れる話題が増えるのはいいことだ。
次に会った時は、そのあだ名を使って存分にからかってやろう。
「まあ、そんな感じで、毎日はとても平和だったんですけど……」
「うん」
「フーンさんがいない毎日はやっぱりちょっと味気がなくて、何か物足りなくて……って私、何を言ってるんでしょうか!? 今のは忘れてくださいね!」
メルリンは急に顔を赤らめ、浴槽をゴシゴシと洗う彼女の手の速度が数倍に増した。
ああ、メルリン可愛いよメルリン。
「そ、そういえば、私が出発する前にプレゼントした、あのマフラーは役に立ちましたか?」
話の主体を自分から俺に移そうとしているのか、メルリンはそんな質問を聞いてきた。
「ん? ああ、あれは……」
ちょっと待った。
正直に話したら好感度が大幅ダウンするやつじゃないか、これ?
自分とルームシェアしていた全裸の女性に渡したなんて、どうマイルドに伝えようが、事情を詳しく説明しようが、絶対に誤解されるし、間違いなく嫌われる。
プレゼントを誰かに横流しすること自体がそもそもありえないのに、俺はそれをメルリンが心を込めて手編みしたマフラーでやってしまったのだ。
今更だけど、ものすごい罪悪感が心を貪り始めてるぞ。
「う、うん、良い感じだったぞ。寒い間はかなりお世話になった」
正確には俺ではなくミンがお世話になっていたのだが、細かいことは気にしない。
少しぐらい言葉を濁しても大丈夫だろう。
「本当ですか? それはよかったです!」
ああ、更なる罪悪感!
あの天使の笑顔から放たれる光線が、俺を山のような罪悪感で悶えさせる!
これ以上、彼女の顔を直視していたらまともに話せる気がしなかったので、俺はくるりと振り返った。
「あ、あっちの方の掃除はまだだよな――って、おっと」
――ドでん!
慌てて動いたせいで、うっかり濡れた床に足を取られて滑って転んでしまった。
いつものパッシブスキルのおかげで痛みは無いが――
「フーンさん、大丈夫です――きゃっ!」
――ドガでん!
心配して寄ってきたメルリンもつるつる床にしてやられてしまい、彼女は尻餅をついている俺を押し倒すように転んだ。
「あいたたたっ……」
「大丈夫か、メルリン?」
「ふ、フーンさんこそ大丈夫で……」
目を開くと、メルリンはピタリと言葉を止めた。
近い。
メルリンの顔が半端なく近い。
彼女の乱れつつある柔らかい吐息が、俺の鼻や頬をこちょこちょとくすぐる。
メルリンの吐息の暖かさなのか、自分の体温が上がっているのかはわからないが、俺の顔はカーッと熱くなってきた。
俺と彼女はそんな密着した状態のまま、微動だもせずに、言葉一つ発せずに、お互いの紅潮した顔を見つめ合っていた。
そして、メルリンが再び目を閉じた。
「………………!?」
おい、ちょっと待った。
なんかメルリンの顔が近づいてくるんですけど!?
隕石みたいに落ちてくるんですけど!?
このままだと、あの花びらのように薄い唇が、こちらのマウスに着弾して、俺の理性が絶滅しかねないんですけど!?
ど、どないすればええんじゃですかだえもももに……お、落ち着け、俺。
これしきのこと、男らしくどーんとかっこよく受け止めれば良かろう。
た、た、た、た、たかが、キ、キ、キ、キ、キ、キ――
『浮雲さん、ビッグニュースです!』
『うおっ!』
――ドガどん!
「きゃっ!」
いきなり脳内へ届いたベルディーの声に驚いて思わず飛び起きてしまい、メルリンの顔を跳ね飛ばしてしまった。
「あいたた……」
「わ、悪い。大丈夫か、メルリン?」
『なんと、なんと! 社長からなんでもお願い事を一つ叶える券をもらってきちゃいました! 何にしますか? 何にしますか? なんでもオッケーですよ! 最強の武器でも、最強の魔法でも、なんでも手に入れ放題ですよ!』
ああ、うるせぇ。
あの空気が読めないバカディーは、何をわけがわからないことを喚き散らしているんだ?
いきなり脳内に怒鳴り込んできて、生涯童貞を覚悟していた俺が大人の階段を登る大チャンスをふいにしやがって……今度こそ許さんぞ!
『ベルディー! こっちへ来て、正座しろ! 俺が直々に説教してやる!』
『ふぇ?』
なんてな。
天使であるベルディーが、こちらの世界へ来れるわけが――
「ぎゃー!」
――ドガどんでんだん!
……お、重い。
理由はわからないが、俺の体は現在、堅忍不抜もどきでは抑えきれないほどの苦痛を感じている。
なぜかベルディーの叫び声がすぐ近くから聞こえたような気がして、なぜか大きな音が鳴って、なぜかまたメルリンが俺の上に倒れてきて、なぜか俺は押し潰されそうになっている。
め、メルリンってこんなに重かった……のか?
そんな失礼なことを考えながら、俺は気を失った。




