第7話:渡米の兆し(一ノ瀬保奈美)
玄関の鍵が回る音がして、私は立ち上がった。
「おかえりなさい、直也さん」
いつもより少し疲れた顔をしているけれど、目の奥には不思議な光が宿っていた。
夕食を終え、片付けも済ませて、リビングでくつろいでいた時だった。直也さんがふと姿勢を正して、真剣な声を出した。
「義妹ちゃん。ちょっと話がある」
胸が小さく跳ねる。何だろう――。
「当面のエコAIデータセンターの課題が整理できた段階で、この夏に一度シリコンバレーに出張しなければならないと思う」
「……シリコンバレー、ですか?」
「うん。アメリカ西海岸――まぁサンフランシスコとかその少し南のサンノゼの辺りをシリコンバレーと言っている訳なんだけれど―そこにだ。
米国側のステークホルダーや、IT事業者や投資家、更には行政組織なんかとも話す必要があるかも知れない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
「どのくらいの期間になりそうですか?」
「……少なくとも三週間程度はかかりそうかな」
「そんなに……」
三週間。
その間、直也さんの顔が見られない。
声は電話やビデオ通話で聞けるかもしれないけれど、毎日一緒にご飯を食べて、同じ家にいる当たり前の日々が途切れてしまう。
胸がきゅっと締め付けられて、言葉を失った。
そんな私を見て、直也さんは少し考えるように視線を伏せ――そしてふっと笑った。
「義妹ちゃんは、海外に行ったことはあるの?」
「……いいえ。母と生活していた頃は、そんな余裕、全然ありませんでしたから」
「そうか……」
彼の瞳に柔らかい光が戻った。
「それなら、この夏は一度アメリカに行ってみようか。義妹ちゃんも、西海岸に」
「……え?」
耳を疑った。思わずまばたきを繰り返してしまう。
「え、えっと……それって……」
「もちろんオレが費用を出すよ。
若いうちに一度くらい海外渡航を経験しておいた方がいい。
せっかくの夏休みなんだ。
義妹ちゃんにとっても、いい機会になる」
頭が真っ白になった。
「夏休みの宿題はどう?」
「はい……。もう全部、終えています」
「そうか。偉いな。
でもそれならアメリカで遊ぶ時間くらい、十分あるじゃないか」
「そ、そんな……贅沢すぎますよ……」
「大丈夫だよ。
前にも言った通り、今回の昇進で給与は随分上がった。
義妹ちゃん一人くらいの旅行代なら安いものだよ」
優しく言い切る声。
私は目を伏せ、唇を噛んだ。
行ってみたい気持ちはある。
でも、まだ自分の中に全然実感が湧かない。
「でも……本当に、いいんですか?」
「もちろん」
直也さんは真っ直ぐに言った。
「若いうちに海外を経験しておいた方がいい。
日本からだと見えないものが、いろいろ見えてくる。
たとえ短期の旅行でも、得られるものは少なくない」
その瞳が真剣で――そして優しかった。
「それに……」
直也さんが言葉を区切り、ふっと視線をそらす。
「三週間もまるまる、義妹ちゃんの顔が見れないのは……オレの方が淋しいからな」
急に動悸が激しくなる。
頬が一気に熱くなってしまった。
「な、直也さん……」
目の前の人が、自分の事を、血の繋がった存在以上に大切思ってくれている。
――そんな気がして、胸の奥がじんと熱を帯びた。
※※※
直也さんがシャワーを浴びに立ったあと、リビングに一人残された。
ソファに腰を下ろしても、胸の鼓動が落ち着かない。
――3週間も、一緒にいられないなんて。
そう考えた時は、本当に胸が潰れそうだったのに。
「一緒に行こう」って言われた瞬間、世界がひっくり返ったように感じた。
まさか私まで、アメリカなんて……。
手のひらに汗が滲む。
もし本当に西海岸に行けたら、どんな景色が待っているんだろう。
青い空、知らない街並み、英語が飛び交う場所。
そして――その隣に、直也さん。
頬がじんと熱くなった。
「三週間もまるまる、義妹ちゃんの顔が見れないのは……オレの方が淋しいからな」
――あの直也さんの言葉が、耳から離れない。
心の奥に、甘い喜びが広がっていく。
でも同時に、不安もあった。
私なんかが、本当にアメリカなんて行っていいのだろうか。
直也さんのプロジェクトは大事な局面で、出張の目的はきっと重いものなのに、私がそばにいて足を引っ張らないだろうか。
「……でも」
小さく声に出した。
――行きたいな。
直也さんが見ている未来を、私も少しでいいから一緒に見てみたい。
直也さんが大きな舞台に立とうとしている、その瞬間に。
胸に手を当て、深く息を吸い込む。
夏休みの宿題は全部終わった。準備はできている。
あとは勇気を持つだけ。
「直也さんと一緒なら、大丈夫」
そう呟いた時、頬に微笑みが浮かんでいた。
私はそっとソファに身を横たえ、閉じた瞳の奥で思い描いた。
――見知らぬ街で、直也さんと並んで歩く自分の姿を。




