第83話:一ノ瀬保奈美
――目の前の人物が、アメリカ合衆国大統領だということは、すぐに理解できた。
ただ……残念ながら、交わされている言葉はほとんど英語で、私には聞き取れない。
直也さんが真剣に頷き、ときどき笑みを返している姿を見て、ようやく分かる。
――これは、良いことなんだ。とても、すごいことなんだ。
やがて、大統領が立ち上がり、シークレットサービスに囲まれながら店を出ていった。
残された空気は、張り詰めていた糸が一気にほどけるように、ざわざわと揺れ動く。
「直也くん! 凄すぎ。なんてことなの……大統領へのアクセス権まで渡されるなんて」
興奮した声で亜紀さんが言う。頬が赤らみ、目を輝かせていた。
玲奈さんも、めったに見せない驚愕の表情で言葉を重ねる。
「大統領からチャレンジコインを頂いたというだけで……日本の政界は震撼しますよ。翔平選手を超えましたね、直也」
五井アメリカの支社長さんは、蒼白な顔をしたまま椅子に腰を落とし、震える声で付け加えた。
「……この事は、社長に必ずお伝えしなければならない。明日、社長がこちらに到着されたら……君も同席してくれ、一ノ瀬くん」
その場にいる誰もが、大騒ぎになっていた。
けれど、私は英語が分からないから、何がどれほどすごいことなのか、正直理解できていない。
……でも。
直也さんが、強く握りしめた拳を胸に当て、ほんの少しだけ震えていた。
その横顔を見ただけで、胸がいっぱいになった。
(よかった……直也さん。認められたんだね)
詳しいことは分からない。
でも、それでもいい。
私の大切な人が、大きな何かを成し遂げて、世界に認められたんだ。
その事実だけで、胸の奥が温かくなり、涙がにじみそうだった。
――オークランドから、サンフランシスコへ。
そしてベイエリアの夜景を横目に、サンノゼへと急ぎ南下した。
直也さんは大統領と乾杯したビールを口にしていたから、運転は亜紀さんが代わってくれた。
私は後部座席で、ただ直也さんの肩にもたれかかっていた。
その温もりを確かめるように、頬を寄せ、指先でそっと直也さんの袖を掴んで。
――こうして甘えているのが、一番直也さんの力になる。
そんな気がしてならなかった。
けれど、この一日で起きた出来事は、あまりにも多すぎた。
大統領との対面、サンタローザの丘で見た直也さんの涙……。
胸の奥はまだ整理がつかなくて、ざわめいたままだった。
※※※
夜更けに近い時間。ようやく五井のシリコンバレー支社に到着すると、支社長さんが笑いながら言ってくれた。
「米国大統領と直接会話をした大切な義妹さんなんだから、オフィスの中も無条件フリーパスでいいよ」
冗談めかした言葉だったけれど、オフィスの中は既に大騒ぎになっていた。
社員の人たちが走り回り、誰もが興奮した声を交わしている。
でも――そんな熱気よりも、私の心を占めているのは、サンタローザの丘で見た直也さんの姿だった。
自分の母親と、それから水樹透子さん。その二人から受け取った「立派になって」という言葉を胸に刻み、必死に生きてきた人。
涙をこらえ、崩れ落ちそうになりながらも、それでも立っていようとする背中。
(……私が守らなきゃ)
強く、そう思った。
誰よりも強いはずの直也さんが、本当はどこかで無理をしている。
だから、その傍にいるのは自分しかいないのだと。
※※※
会議室の窓際。
直也さんは一人、シリコンバレーの夜景を見つめていた。
煌めくビル群と高速道路の光の流れ。
けれど、その背中には、今日一日で背負ったものの重さが滲んでいるように見えた。
私はそっと近づき、迷わず彼の隣に
ただ黙って、同じ夜景を見上げながら――心の中で何度も誓った。
(直也さん。……私は、いつまでもそばにいるから、だから一人で全部抱え込まないでね。)




