第64話:新堂亜紀
月曜日の朝
――ロビーの空気が、一瞬で張り詰めた。
「勝手に視察スケジュールを決定しないでください」
低い声でそう告げたのは麻里だった。
相変わらず無表情のようでいて、その瞳の奥には苛立ちが隠しきれない。
(……ああ、来たか)
私と玲奈は、少し後ろから様子を見ていた。
直也くんのこういう局面は、もはや日常。
でも、相手が麻里だと、さすがに緊張感が増す。
直也くんは一切動じない。
背筋を伸ばし、いつもの落ち着いた声で言葉を返した。
「イーサンが要求しているのは、オレが迅速にザ・ガイザースの視察を行うこと。それが“いつ”“どういう形”であるかを制約するものではないと理解しています。だから最速のスケジュールで調整したまでです」
丁寧だけど、はっきりと突き放す口調だった。
麻里の眉がわずかに動く。
悔しそうな表情――普段ほとんど表情を崩さない彼女が、珍しく感情をにじませている。
「……それなら、私もその視察に同行します」
(おっと……)
玲奈が隣で小さく息を呑んだ。
私も心の中で同じことを思う。
麻里が“同行”を選ぶなんて、ある意味で敗北宣言だ。
けれどそれ以上に――直也くんのやり方を認めざるを得なかった証拠でもある。
正直、すごい。
本社も、支社も、週末時点でイーサンからの要求を踏まえて調整を依頼し、視察日程を確定させた。
しかもDeepFuture AI側がアレンジする前に、五井として動き、完全に主導権をこちらに取り戻した。
私も玲奈も、こういう俊敏さを間近で見てきたから分かる。
これが直也くんの“余人には代えがたい凄さ”の一つなんだ。
――凡人は追いつけない。
そして、だからこそ惹かれてしまう。
※※※
今日は保奈美ちゃんをAACに送り届ける。
大田夫妻の厚意で、アメリカ滞在中の間、彼女を“賓客”として短期のホームステイさせていただけることになった。
直也くんにとっても、これは必要な判断だった。
AACの大田さんには大きな借りをつくる事にはなるけれど、
保奈美ちゃんを連れたままビジネスの最前線を飛び回るわけにはいかない。
私たちは麻里とともにホテルを出発し、車に乗り込んだ。
保奈美ちゃんは後部座席で窓の外を見つめながら、小さく息を吐いている。
「……私、ちゃんとできるかな」
そんな声が聞こえてきた。
思わず微笑む。
「大丈夫よ。保奈美ちゃんは天使みたいな存在なんだから。大田夫妻だって、すぐに夢中になっちゃうわ」
玲奈も笑って、「それは保証済み」と軽口を添える。
保奈美ちゃんは頬を染めて「そんなことないですよ」と慌てていた。
でも、彼女がいるだけで、緊張感に包まれた車内の空気がふっと和らぐ。
※※※
――AAC社のロビーに足を踏み入れた瞬間、どこか温かみのある空気に包まれている。
ガラス張りの吹き抜けから差し込む光、木目調の家具、柔らかな香り。企業というより、まるで家族の家に招かれたような居心地の良さがある。
「ようこそ」
すぐに現れたのは大田秀介さん。にこやかに迎えてくれた。由佳さんもいる。
「はじめまして。DeepFuture AIの麻里と申します。本日は五井物産のプロジェクトメンバーの皆さんに同行させていただきました」
麻里が一歩前に出て挨拶した。声も所作も落ち着いていて、さすがイーサンの側近という雰囲気を漂わせている。
由佳さんが軽くうなずき、「なるほど、DeepFuture AIの方なのね」と応じた。
大田さんも「これからよろしくお願いします」と手を差し伸べる。
その直後、美沙さんが保奈美ちゃんに目を留め、声を上げた。
「まあ……カワイイ!! なんて可愛いのかしら!」
いきなりの賞賛に、保奈美ちゃんは顔を真っ赤にして小さくかぶりを振る。
「そ、そんなことありません……。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
きちんと両手をそろえて頭を下げる姿に、私は内心でまた「天使……」と呟いてしまった。
美沙さんはそんな保奈美ちゃんを抱きしめそうな勢いで笑う。
「こんな可愛い義妹さんなんて……お義兄さんもそりゃ過保護になっちゃいますよね」
その言葉に、直也くんがわずかに眉を動かした。否定も肯定もせず、ただ静かに微笑んだだけだった。
ラウンジに移動し、直也くんから今回の報告が始まった。
イーサンから新スキームについては了解を得たこと。そして今後日米両政府や州政府との交渉をする上で、直也くん自身が「ザ・ガイザース視察」をしている必要性について、イーサンから指摘されたことについて。
直也くんは淡々と、しかし一切の隙なく説明していく。
「視察は今週水曜日に行う予定です」
そう告げた直也くんに、大田さんが「もし可能ならオレも一緒に行きたいな」と即座に反応した。
その横で、美沙さんが手を挙げる。
「それなら、私と一緒に保奈美ちゃんも連れていけませんか?」
思わぬ提案に、場の空気が一瞬止まった。
すぐに麻里が口を開く。
「ですが……これは仕事です。視察に……一ノ瀬氏のご家族まで同行させるのは如何なものでしょうか?あとあと、公私混同だという批判にもなりかねませんが」
立場上、もっともな指摘だ。DeepFuture AI側の代表として、今回のビジネススキームに無関係な者を、「家族だから」という理由で同行を許すのはおかしいというのだろう。
けれど美沙さんは、少しもひるまず笑顔を浮かべて答えた。
「AACは従業員もその家族も、みんな大切な“仲間”と考えるのがポリシーです。そして今この時から保奈美ちゃんは、私たちAACの大切な賓客です。AACも今回のビジネスではステークスホルダーでしょ?――だったら、ステークスホルダーとして是非お願いしたいのですが」
優しいけれど、揺るがない声だった。
麻里は言葉を詰まらせ、口を閉ざす。
その横で直也くんはすぐにスマホを取り出し、五井アメリカ支社長に連絡を入れた。
結果は――チャーターされているヘリはAW139。定員10名。
「10人まで大丈夫だそうです」
直也くんがそう告げると、自然と場が和やかになった。
由佳さんは「残念ながら私は、今回は同行できません」という事だった。
GBC本体での米国版JVスキームについて基本的に了解を得られているものの、由佳さん自ら経営陣への説明を求められているという事で、時間が取れそうもないというのだ。
「だから保奈美ちゃん。私の代わりに視察してきて。そして後でどんなところだったか、是非報告してね」
由佳さんが保奈美ちゃんに視察依頼?
「は、はい。――頑張って勉強してきます」
「ええ。……そういう意味では日本GBCの街丘の代理として保奈美ちゃんに視察して頂くという位置づけにもなります。ウチも一応ステークスホルダーでしょ?」
こうなってしまっては、麻里ももう何も言えないだろう。
こうして視察の参加メンバーは、直也くん、私、玲奈、麻里、そしてAACから秀介さんと美沙さん、さらに保奈美ちゃん。
合計7人のメンバーが確定した。




