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第3話:一ノ瀬保奈美

 玄関のドアが開く音がして、私は慌てて立ち上がった。

 「おかえりなさい、直也さん」

 顔を上げたその人は、今日も一日くたくたになって帰ってきた。スーツの襟元に残る汗の跡が、この夏の厳しさと彼の忙しさを物語っていた。


 ここ数日、直也さんの食欲が落ちているのを、私はずっと気にしていた。食卓に並んだ料理を「ありがとう」と笑顔で口にしてくれるけれど、箸の進みは明らかに鈍い。あの大きな背中が少し小さく見える気がして、不安になってしまう。

 だから今夜こそ、美味しいご飯で元気を取り戻してもらいたかった。


 私は昼間から魔法のレシピ帳をめくり続け、ぴったりの一品を見つけていた。

 ——「冷やし田舎そうめん」。


 京風の薄味を基本にしたつけ汁には、鴨肉と香ばしく焼いたネギ、夏野菜を少し。だしの香りがすっきりと漂い、直也さん好みの優しい味付けになるよう工夫した。麺は茹でたてを氷水でしっかり冷やし、ひと口ごとに束ねて平皿に並べた。冷気をまとった白い麺が、まるで夏の夜の涼風のように見える。


 私はいつも直也さんが帰ってくるまで、自分は食事をしない。食事は家族で一緒にするもの。それが私の絶対のルールだった。

 「先に食べていていいんだよ」

 そう言ってくれるけれど、私は必ず首を横に振う。

 「絶対待っています」

 直也さんは少し苦笑するけれど、最後には「義妹ちゃんは頑固だな」とやさしく頭を撫でてくれる。どんなに直也さんが遅くなっても起きて待っている。そして一緒に食事をする。それは絶対に譲れないこだわりだった。


 世の中には、旦那さんが帰宅する頃には、先に寝てしまっている家庭もあると聞いている。でも私は絶対にそんな事は出来ない。この世界にたった一人の私の家族、それが直也さんなのだ。直也さんが外食する予定の際は仕方がない。でもそういう時は、必ず直也さんは事前に連絡してくれる。連絡がない時は、必ず帰ってから食事をしてくれる。


 そんな時に直也さん一人で食事なんて、私は絶対させられない。

 だから私はいつも食事の用意をして、直也さんが遅くなる時にはリビングのテーブルで勉強をして待っている。


 夏休みの学校の宿題は早々と片付けている。

 今は自分の目標――水道橋女子大の生活科学部――を目指して、自分の学力を高める為に勉強を進めている。勉強をしながら直也さんが帰ってくるのを待つのが私の日課だ。


 帰宅した直也さんがスーツの上着を脱ぎ、ソファに腰を下ろすのを見計らって、私は台所からそうめんを運んだ。氷の浮いたつけ汁と、涼しげな平皿に盛ったそうめん。夏の食卓に清涼感を呼び込む、私なりの魔法だ。


 「いただきます」

 直也さんが箸を取り、一口目をつけ汁に潜らせて口に運んだ。


 「……懐かしいなぁ」

 その声は驚くほど柔らかかった。

 「これ、夏バテする頃に昔よく食べていたんだよ」


 頬を緩めて次々と箸を動かす姿に、私は胸がいっぱいになった。久しぶりに「おかわり」と言ってくれた。その一言がどれほど嬉しかったか。


 「義妹ちゃん、これ……本当に美味しいよ」

 「ほんとですか? よかった……」

 私は思わず笑ってしまう。湯気も油の香りもない、地味な料理かもしれない。でも直也さんが嬉しそうに食べてくれるなら、それだけで特別なごちそうになる。


 何度も何度もおかわりする直也さん。その姿を見ているだけで、私はもうお腹がいっぱいだった。

 ――直也さんが元気を取り戻してくれるなら、それが私にとっての一番のごちそうだから。


 「義妹ちゃん、先に食べてもいいんだぞ? オレが帰ってくるまで待ってると、お腹すくだろ」

 「いいえ。絶対に待ちます。家族なんですから」

 私がきっぱり答えると、直也さんは一瞬驚いたように目を見開き、それからゆるやかに微笑んだ。

 「……そうか。ありがとうな」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。小さな私のこだわりが、直也さんの心に届いた気がして、誇らしかった。


 片付けをしながら、ふと彼の横顔を盗み見る。疲れているはずなのに、満足げな表情を浮かべている直也さん。その姿があまりにも頼もしくて、そして優しくて、私は心の中で強く願った。


 ――これからもずっと、直也さんの食卓を守りたい。どんなに忙しくても、疲れていても、帰ってきたら必ず安心できる居場所を用意してあげたい。


 私の魔法のレシピ帳が、彼の心を少しでも温められるなら。私はどんな工夫だって惜しまない。


 そうめんの最後の一束を平皿に盛り付けながら、私は小さな声で呟いた。

 「……直也さん、明日も元気でいてくださいね」


※※※


 食事が終わると、私はすぐに立ち上がった。けれど直也さんも同じように椅子を引いて、自然に食器を持ち上げる。

 「義妹ちゃん、これも持っていくよ」

 「え、でも……」

 「食べさせてもらったんだから、オレも片付けくらい手伝う」

 そう言われると、私はもう何も言えなくなる。


 二人で食器を流しに運び、食べ残しを片付けて、食器洗浄機に並べる。これも全部直也さんが買ってくれたものだ。


 思い返せば、あの日。家電量販店で直也さんが真剣な顔で店員さんと話し込んでいるのを、私は横で見ていた。

 「食洗機なんて、贅沢じゃないですか。お金もかかるし……私、ちゃんと手で洗えますから」

 そう言って止めようとした私に、直也さんは少しだけ苦笑し、きっぱりと言った。

 「義妹ちゃんはまだ学生だろ。勉強もあるし、無理に家事で時間を削らせるわけにはいかない」

 「でも……」

 「それに、オレだって夜遅く帰ってくるんだ。二人で使えるものを整えておいた方がいい。これは“贅沢”じゃなくて、“必要経費”なんだよ」


 その言葉に押し切られて、結局うなずくしかなかった。だけど今では、その判断がどれほどありがたいものだったか、痛感している。


 「じゃあ、スイッチ押すよ」

 カチリ、とボタンを押すと、低い音とともに食器洗浄機が動き出す。流しの片隅で積み上がった皿を手で洗っていた頃を思えば、信じられないほど楽だ。これなら片付けはほんの数分で終わる。


 「ほら、さっさと終わったろ」

 直也さんがタオルで手を拭きながら言う。

 「うん……直也さんのおかげです」

 「違う違う。二人でやってるからだよ」

 その言葉がうれしくて、私は小さく笑った。


 片付けを終えたあとは、リビングへ。テーブルの上には直也さんのノートPCと分厚い資料、そして私の参考書とノート。

 「義妹ちゃん、今日も勉強か?」

 「はい。復習しないと忘れちゃいますから」

 私が答えると、直也さんは「偉いな」と言って軽く頷き、自分のPCを開いた。


 カタカタと打ち込むキーの音と、私がノートにシャーペンを走らせる音。二人の音だけが静かなリビングに重なっていく。窓の外からはまだ夏の夜風が熱を含んで流れ込んでくるけれど、冷房の風と共に漂う出汁の残り香が、妙に心地よかった。


 横目で見る直也さんは、真剣そのもの。疲れているはずなのに、画面を見つめる瞳はまだ力強く輝いていた。

 「……直也さん、頑張ってくださいね」

 小さな声で呟いて、私はペンを握り直す。


 こうして二人で同じ空間にいること。ご飯を一緒に食べて、片付けて、それぞれのやるべきことに向かうこと。

 それが、今、私にとって何よりの幸せなのだ。


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