第32話:一ノ瀬保奈美
――揺れた。
機内アナウンスが流れ、飛行機が降下を始めたのを知った。
ゆっくりと目を開ける。
眠りは深かった。直也さんに言われた通り、機内ではご飯も少なめにして、すぐに目を閉じたから。自分でも驚くほど、ぐっすり眠っていた。
(ちゃんと守れた……直也さんのアドバイス)
ほんの少し誇らしい気持ちが胸に広がる。
けれど、すぐに緊張が押し寄せた。
――これから、いよいよ直也さんに会えるのだ。
シートベルトの金具を握りしめたまま、慌てて席を立つ。
寝起きの顔では絶対に会えない。そんなの嫌。
「すみません」
小さな声で隣席の人に会釈して、通路を抜ける。
化粧室に飛び込み、冷たい水で顔を洗った。目がぱっちりする。ポーチから取り出したのは、いつもの化粧道具。けれど今日は気持ちが違う。
――“男イチコロメイク”。
真央がそう名づけていた、ナチュラルだけど絶妙に可愛く見えるメイク。派手さはない。けれど、鏡の中の自分が、ほんの少し勇気を持てるようになる。
「……うん、大丈夫」
頬を軽く叩き、深呼吸してから席へ戻った。
機体はふわりと揺れながら高度を下げていく。
窓の外には、どこまでも広がる海と、やがて現れる街の明かり。見慣れない道路の網目、オレンジ色の街灯の輝き。
「……アメリカ」
心の中で呟いた瞬間、胸が高鳴った。
やがて軽い衝撃。
車輪が滑走路に触れ、エンジンが唸る。
拍手が起こるわけでもない。けれど、機体が減速するたびに、胸の奥で「ついに来たんだ」と何度も繰り返した。
――ロサンゼルスに到着した。
ゲートを出て、長い廊下を歩く。
周りは外国人ばかり。表示はすべて英語。
どこに行けばいいのか、一瞬で迷子になりそうになる。
けれど――。
(直也さんが作ってくれた案内を思い出して)
頭の中で復唱する。
「こう進んで……ここを左……」
他の乗客の流れについて行きながら、必死で思い出す。
心細さと期待が入り混じって、足取りが早くなる。
入国審査を終え、荷物を受け取り、最後の自動ドアを抜けた。
その瞬間――。
「あ! 来たよ」
女性の声が聞こえた。
顔を上げる。
人混みの先に――直也さんがいた。
視界が一瞬でぼやけた。
亜紀さんも、玲奈さんもそこにいる。けれど、私には見えなかった。目に映ったのは直也さんだけ。
彼が笑顔で立っている。
その姿を見た瞬間、足が勝手に動いていた。
「直也さんっ!」
気づけば、スーツケースも放り出して駆け寄り、ぎゅっと抱きついていた。
胸に伝わる体温。
夢じゃない。幻でもない。
本当に、彼がここにいる。
「……ちゃんと来られたな。偉いぞ!」
直也さんの声が頭の上から降ってきた。
その瞬間――。
「チッ」
何か聞こえたかな?
よく分からないや。
今はどうでもいい。
私の全身は直也さんの腕の中にあった。
本当はずっとこうしていたいな。
※※※
「さ、行こうか」
直也さんがスーツケースを代わりに持ち、私の歩幅に合わせてくれる。
周囲の喧騒も、空港独特の雑然とした匂いも、もう気にならない。
ただ隣を歩く彼がいるだけで、胸の奥が温かくて仕方がなかった。
直也さんがここにいてくれる。
それだけで、私は幸せになれる。
空港で直也さんと会って、そのままみんなで車に乗って……と思ったら、待っていたのは無人タクシーだった。
「……え、え、これ、人が乗ってないんですか?」
思わず声が裏返った。
「そうよ、最近はもう普通よね」
玲奈さんが当たり前のように答える。
「心配しなくても大丈夫。安全性のテストは何百万回も繰り返されてるから」
直也さんが笑って言う。その笑顔に、少し安心する。
でも――車が勝手に動くなんて。
目の前のハンドルが、誰も握っていないのにくるりと回る。信号に従って止まったり進んだり。
「……すごい……」
窓の外を眺めながら、私はひたすら感嘆の息を漏らしていた。
まずはホテルへ。
直也さんが前日の夜に取ってくれていた部屋に案内され、私のスーツケースを置く。
「軽くシャワー浴びてきたら?」
そう言ってくれたから、素直に甘えた。
熱いお湯が頭から流れ落ちると、緊張で強張っていた身体がふわっとほどけていった。
(あぁ、本当に……ここまで来たんだ)
シャワーを浴びながら、何度も心の中で繰り返した。
それから再びみんなと合流して、朝のLAを走り出す。
最初の目的地はハリウッド。
有名な通りを抜け、映画の看板を横目にしながら、無人タクシーはスムーズに進んでいく。
「義妹ちゃん、ここからが本番よ」
亜紀さんが嬉しそうに言う。
「亜紀さんと玲奈さんも来てくださったんですね」
「そうよ。義妹ちゃんの楽しい休日プランを一緒に考えたの」
玲奈さんがすかさず補足する。
(……わたしのために?)
胸の奥がじんと熱くなった。
そして朝食。
カフェのテラス席で、大きなパンケーキにメープルシロップをたっぷり。
スクランブルエッグにベーコン、オレンジジュース。
外国の朝ごはんは、なんて大胆なんだろう。
でも、不思議とお腹にすっと入っていった。
「この後はまず、ハリウッドのセレブ御用達のカリスマ美容師のお店に行くわよ」
亜紀さんが楽しそうに宣言する。
「……美容室?」
思わず声が裏返った。
やってきたのは、ガラス張りのゴージャスなビルの一角にある美容室。
その名は「エドワード・トリウミ」。
扉を開けた瞬間、ふわっといい香りが漂った。
そして――。
「Oh my god! ようこそ〜! いらっしゃいませ〜!」
目の前に現れたのは、明るい笑顔を振りまく男性。
肩までの髪を派手にまとめ、ピンクのシャツに細身のパンツ。
ちょっとオネエっぽい雰囲気のその人が、流暢な日本語で私たちを迎えてくれた。
「エドワード・トリウミよ〜。日系二世だから日本語ペラペラ。安心してね〜!」
「……え、あの……よろしくお願いします」
あまりの勢いに押されて、思わずぺこりと頭を下げた。
「さぁ、今日はあなたをスーパーゴージャスにしちゃうわよ! 男なんてイチコロよ!」
「い、イチコロ……」
頬が熱くなる。
直也さんの視線を感じて、余計に恥ずかしくなる。
でも、鏡に映る自分を見つめて、少しだけ期待もしていた。
(わたし……本当に変われるのかな?)
亜紀さんと玲奈さんが、後ろから微笑んで見守っている。
彼女たちの視線が、私の背中をそっと押してくれた。
――素敵になれるといいな。




