第31話:神宮寺麻里
――想定外だった。
こんなにも短期間で、新しいスキームをまとめ上げるなんて。
しかも、それを日本側のステークスホルダーに次々と説明し、事実上の了承まで取り付けたうえで、このDeepFuture AIに乗り込んでくるとは。
私は正直、甘く見ていたのかもしれない。
あの一ノ瀬直也という男の底力を。
会議室で提示された新スキームは、間違いなく現実的だった。
米国政府や投資家が抱く懸念をカバーし、なおかつ五井物産の主導権を確実に残す――その構造は、私が幾つか指摘した論点を正確に捉え、きれいに回答を用意していた。
しかも、その回答を口にしたのは直也本人ではなく、彼の隣に座る女性たちだった。
冷静に、論理的に、まるで直也を守る壁のように。
私は思わず心の中で呟いていた。
――あの女性たちも、直也の“女”なのだろうか。
考えた瞬間、自分の心をナイフで刺したような痛みが走った。
そんな想像、したくもなかった。けれど否応なく、胸の奥を締めつける。
そして、最後。
直也が深く頭を下げて言った、あの一言。
「……ありがとう」
何度も、何度も、耳の奥で反響する。
誠実に見えるその態度――私はあの頃、確かにそれを信じていた。
けれど裏切られた。あの日、私の世界は崩れ落ちた。
「直也……」
唇から零れた声は震えていた。
――なぜ。
なぜあの時、あんな女と……。
気づけば、頬を熱いものが伝っていた。
私は必死で袖口で拭った。誰にも見せたくない。誰にも悟られたくない。
私は復讐者であるはずだ。
DeepFuture AIのために、合理的で冷静な判断を下す存在であるはずだ。
それなのに、胸の奥底で疼くこの痛みはなんなのだろう。
涙は止まらなかった。
――私はまだ、彼に囚われているのか。
その問いが、答えを出せぬまま心に突き刺さった。
※※※
――翌朝。
窓越しに射し込むカリフォルニアの朝日は、眩しいほどに澄んでいた。けれど私の胸の中には、まだ昨夜の余韻が残っていた。直也の「ありがとう」という声が、何度も耳に蘇る。その度に苛立ちと痛みが入り混じり、心が波立つ。
そこへ、イーサンが軽やかに会議室に入ってきた。
「Mari、一つだけ指摘しておいた方がいい」
彼は書類を机に投げ出し、椅子に腰を下ろすと、あの独特の真剣な眼差しで言った。
「今のスキームは、理論上は素晴らしい。ステークスホルダーへの説明もよくやったと思う。だが――肝心のザ・ガイザースを、誰も実際に見たことがないんだろう?」
言葉が胸を突いた。
確かにその通りだ。直也も、彼の周囲の女性二人も、誰一人として現場を見ていない。机上でのスキームに説得力を持たせるには、視察という実体験が不可欠だ。
「日米両政府に新しい案を提示したとしても、承認が返ってくるには、ここから更に数日以上は間違いなくかかる。その間に直也自身がザ・ガイザースを視察しておくべきだ」
イーサンの声はいつになく真剣だった。
「州知事の周辺には私のパイプがある。彼らは個別には今回のプランに賛同してくれている。だが、直也自身が実際に目で見て語れなければ、説得力は半減する。これは必須だと思うよ」
――イーサンがここまで強調するのなら、間違いない。
私は携帯を手に取り、ためらわず直也の番号を押した。
数回のコールの後、あの落ち着いた声が応答する。
「……麻里か」
「一つ、伝えておきたいことがあるわ」
努めて冷静に言葉を選ぶ。
「新しいスキームを再度日米政府に提示しても、承認が返ってくるのはここから更に数日以上先になるはず。その間に――あなたはザ・ガイザースを視察しておくべきだと、イーサンも言っている。私もそう思う。説得力を持たせるためには、キーマンであるあなたが実際に見ているという事実そのものが必要なの」
短い沈黙が返ってきた。
私は続けた。
「もちろん、視察の際は私も同行するわ。あなたがどこに行こうと、DeepFuture AIのスタッフとして、私は行動を共にする。これはステークスホルダーとしての要求です」
わざと強い調子で言い切った。
――これは仕事。あくまで業務上の必然。
そう自分に言い聞かせながらも、電話口の向こうにいる直也の気配に、胸がまたざわつくのを抑えられなかった。
「準備をしておいて。日程は私から追って連絡する」
通話を切ると、指先がわずかに震えていた。
あの男と再び現場に立つ――そう想像しただけで、心臓が速くなる。
私は深く息を吸い込み、表情を引き締めた。
これは感情の問題ではない。
DeepFuture AIのため。プロとして当然の行動。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥の疼きは収まらなかった。




