第12話:一ノ瀬直也
総合商社は朝が早い。
というよりもどの時間帯でも眠らない、そういう事業体だ。
24時間稼働し続けているのが、総合商社という機能の通常体という訳だ。
だがそれでも時間帯によって違いはある。
まだ社内が慌ただしく動き出す前、オレはプロジェクトルームに入った。
まずは直属のライン――PMO事務局長と次長に報告する。
「一ノ瀬室長。電話で概要は聞いているが、改めて説明して欲しい」
事務局長の声は穏やかだが、眼差しは鋭い。
オレはホワイトボードに三本の矢印を走らせた。
【日米投資の約束 → 日米ともに停滞 → 双方ダメージ】
【突破口:ザ・ガイザース × EGS × エコAIデータセンター】
【国内停滞 → 米国先行シナリオ → 国内圧力 → 双方を一気に進める】
説明を終えると、室内にはまだ「内輪の議論」の余裕が残っていた。
二人は顔を見合わせる。
「国内が遅れるなら海外を先行させ、逆に日本国内に圧力をかける……か」
「突飛に見えるが、外部状況を逆手に取るのは一ノ瀬らしい」
事務局長が腕を組む。
「よし。我々としては了承だ。ただし、この規模感はすでにPMOの範疇を超えている。本プロジェクトを管轄するITセクターの統括取締役に一緒に説明しよう。ラインを通して上げていく。いいな?」
「……承知しました」
※※※
午前中。
短い時間を使って、亜紀さんと玲奈とで再度今後の対応をすり合わせていた――はずだったのだが。
「……で? 直也くん?」
亜紀さんの声が、低いのにやたら迫力を帯びている。
「昨日の夜。どうして玲奈と“二人きり” で、“ホテル”併設のビストロに行ったのかな? ねぇ、ねぇ、ねぇ?」
「ちょっ……!」
オレは慌てて両手を振った。
「誤解ですよ! そもそも、お店は玲奈が『ここで食事したい』と言うので、その通りにしただけすし、その後、加賀谷さんからの急な呼び出しで、たまたま玲奈と一緒だったからですし――」
「“たまたま”ねぇ〜?」
亜紀さんの目がギラリと光る。
「私だって、こないだ直也くんとランチしたけど? それは“たまたま”じゃなくて“必然”だったのに!」
横で玲奈が、わざとらしくタブレットを閉じて勝ち誇った笑みを浮かべる。
「事実は事実です。直也と私が“二人きり”で過ごしたことに変わりはないですけどね」
「っ……!」
亜紀さんの頬が真っ赤に染まり、なんか感情的になってしまった。
「やっぱり許せない! 玲奈ばっかりずるい! ねぇ直也くん、私も夜のディナー連れてってよ! 今すぐ! 今日! ねぇ!」
「いや、そんな時間もう取れませんよ。今日はこれから統括取締役と本部長に説明なんですから、ディナーしている場合じゃないですよ!」
オレは必死になだめる。
だが、亜紀さんは腕を組んでそっぽを向いたまま。
「ふん。……どうせ直也くんは玲奈の方が“数字”で役に立つからって、甘い顔してるんでしょ」
「……まあ、そこは否定しないですけどね」
玲奈がさらりと刺すように言ってきて、さらに火に油を注いだ。
「玲奈っ!」
「事実を言ったまでです」
「お、おいおい……」
オレは頭をかきむしりながら、二人の間に割って入った。
「わかった、わかりました!どこかで帳尻合わせますから。どっちがどうとかじゃなくて、今は“チーム”で戦っているんだから、ここは一旦落ち着いてください。ね?」
亜紀さんはむすっとしたまま椅子に沈み込み、玲奈は「勝者の余裕」とでも言いたげにわざと肩をすくめた。
――なんで、たかだか一回の会食で揉めるんだ。
※※※
昼前。
統括取締役と本部長が揃った会議室に入ると、空気の重みが一段階増しているのを肌で感じた。
これはもう「部門横断」ではなく「社運を左右する案件」としての空気だ。
再び三本の矢印を示す。
「なるほど……」
統括取締役が低く唸った。
「確かに奇策だ。しかし資源とITを同時に巻き込むとなれば、これは五井物産の屋台骨を左右する」
本部長が頷く。
「加賀谷氏からも連絡は受けている。理解はできる、が……我々の判断だけでは限界だ。社長に上げるしかあるまい」
事務局長が補う。
「午後、統括取締役と一緒に社長室に行く。君が直接説明するんだ」
背筋が自然と伸びた。
――いよいよ「全社の意思決定」の領域だ。
※※※
午後。
社長室の扉をノックすると、指先に汗がにじんだ。
机の上には既に資料が並び、統括取締役から概要が伝わっているのが分かる。
「……一ノ瀬くん」
低い声。促されるまま頭を下げ、オレは説明を始めた。
三本の矢印。ザ・ガイザースのEGS。エコAIデータセンター。米国先行シナリオを逆手に取り、日本国内の停滞を動かす構図――。
説明が終わると、長い沈黙が落ちた。社長は眼鏡を外し、ゆっくりと口を開いた。
「……奇策だ。しかし、可能性はある。もし日米政権双方の支援を取り付けられれば、五井にとって未曾有の権益を生む。次の十年、いや三十年以上のビジネスになるだろう」
――三十年。
その未来を、自分は見届けられるのだろうか。
ほんの一瞬だけ、オレ個人の命題が胸をかすめた。だが、すぐに打ち消す。今は「五井物産」としての勝負なのだ。
鋭い眼光が突き刺さる。
「一ノ瀬くん。君がそこまで言うなら、やってみろ。構わない。私が責任を取る。ただし――絶対に独りで走るな。必ず適宜報告を入れ、経営陣がフォローできる体制を維持するんだ」
「……はい」
胸の奥が熱くなる。
さらに社長は続けた。
「ステークスホルダーにも説明を怠るな。グリゴラは問題ないだろうが、日本GBCの街丘氏には必ず筋を通せ。米国側ステークスホルダーにも緊急状況を報告するんだ」
そして統括取締役に目を向ける。
「五井アメリカ支社長にも本件の概要を伝えろ。ロビイスト経由でホワイトハウスにも探りを入れる。情報は随時、一ノ瀬くんにも共有する。これは総力戦だ」
社長室を出ると同時に、統括取締役が歩きながら声をかけてきた。
「よし、一ノ瀬。すぐに動くぞ。アメリカ支社長への連絡は私が入れる。君は日本GBCの街丘氏にアポを取れ。タイミングを逃すな」
「承知しました」
廊下を並んで歩きながら、次々とスケジュールを擦り合わせる。
アメリカ支社――ロビイスト――日本GBC――そしてアメリカのステークスホルダー。
決定の瞬間からすでに、戦いは始まっている。