1.善悪のララバイ-4
善悪のララバイはここで終了です
「頭悪い回答だな」
けらけら笑う声が降り注ぐ。神経が逆なでされた気がした。
「ビスカは? 君ならどんな天才的なことをするのさ」
「あたしは、そうだな。真逆」
上から布団と服がこすれる音がする。僕の方を向くように横たわる彼女を想像する。例え顔が向かい合わせになっていたとしても、僕らの視線が交わることはない。
「善い悪いで言ったら、あたしは悪い側だから。最高に善いことをして終わりにしたいね」
「明日人類が滅びるのに?」
「明日人類が滅びるのに」
僕も彼女も等しく頭が悪い。結局、頭の良い人間は死にたいなんて思わないのだろう。
「何が言いたいかっていうと、いい加減終わりにしないかってことだよ。打つんだよ、ピリオド」
ぽっかりと空いた八畳間に黒々と彼女の言葉が漂う。それに集中していると他の音の煩わしさが霞む。ビスカの声は僕の意識を吸い寄せるのだ。
「このままじゃ、いつまでもずるずる引き延ばしてしまうから?」
「お前は、苦しくないのか?」
「そりゃ、苦しいけど」
死にたいという感情に種類があるなら、僕は消極的で彼女は比較的、積極的な部類にカテゴライズされるだろう。ビスカはその感情をバンド活動で発散していたらしいけど、以前解散して以来、参加できるバンドが見つからないのだそうだ。僕はといえば発散する手段をほとんど持たないけど、死期の先延ばしに躊躇することもない。いずれ死ぬという事実は、時としてあらゆる生の苦しみを防ぐ盾になる。しかし万能な盾というものもこの世にはないらしい。盾越しに伝わるどろりとした不安は心臓の鼓動で全身に送り出され、増長し、加速し、息が詰まっていく。
僕らは死にたいという感情に入り浸っていた。そうすればじわじわと死ねると思い込んでいた。
「もう、終わりにしようか。でも具体的にどうするの?」
「最低に悪いことってなんだろうな」
「最高に善いことってなんだろうね」
しばらく、互いの小さな息遣いだけを僕らは聴いていた。相手が答えを出してくれるだろうと期待していた故のことだ。疑問をぶつければ答えが返ってくるとは限らない。卵を壁に投げつけたとして、跳ね返ってくるのは惨めな後悔だけだ。
「爆弾、とか」
夕方にニュースで見た爆発事故をふと思い出した。
「それはどっちだ、最高? 最低?」
「最低だよ。爆弾が最高に善いことってどんな状況さ」
「プログレが東京中で流れたら最高の音爆弾だけどな」
ビスカのことだから、プログレはロックかなんかの音楽のジャンルの一つなんだろう。
「それは最低だね。僕が言ってるのは普通の爆発を起こす爆弾だよ」
「そりゃ悪いことだが、人を殺しちゃうんじゃあ、悪いことにしかならねぇな」
「どういうこと?」
「あたしたちの死に道連れはいらない」
ビスカの言うことは最もだが、何を爆発させればいいのだろう。
「東京中、あるいは日本中で同時に爆発が起こせれば最高なんだが」
「どうやって、何を爆発させるのさ」
「例えば、ポケットティッシュに花粉を詰め込んで配るとか? 鼻に押し当てた瞬間にスギ花粉がドバっと」
「それはまた花粉症の人には最低な爆発だね」
「とにかく色々考えてみるか」
彼女は柄にもなくワクワクとしているようだった。到底実現はできなさそうだし、死ぬための思考が生き生きとしているのは皮肉だ。
「最高に善いことは?」
ビスカの思考に水を差すことにした。悪いことの一方では僕が死ぬだけだ。
最高に善いこと、こちらの方が考えるのは難しい。法律を破ることが悪なら法律を守ることが善なのだろうか。だとすれば積極的な善いことというのは存在し得なくなる。
「善いことって優しいことだと思うんだよな」
一日一善と言う時に人々が想起するのは、確かに誰かに対して優しくする行為だろう。高齢者に座席を譲ったり、ゴミを拾ったり。
「確かに、君には大きく欠けているね」
僕の発言への返事として、うるせー、という言葉と共にロフトから何かが落ちてきた。避け切れず頭にぶつかる。床に硬く軽いものがバウンドする音が響く。
「痛い、何投げたの?」
布団に水滴が染みていた。どうやらプラスチックコップを投げたようだ。フローリングに円筒形のものが転がる音がする。
「あたしなりの優しさ」
「ちゃんと後で拾っておきなよ」
僕が片付けておこうかとも思ったけど、ほとんど空のコップだったようだし、なにより被害者の僕が片付けるのも釈然としなかったから放置した。身をよじる音がきしりと響き、バイクが不必要に排気音を轟かせて三台通り過ぎるまで、不自然な沈黙が部屋に居座った。
「優しさ落っことしちゃったから善いことが全く思い浮かばん」
ビスカは唸る。最低でも明日の朝までは善いことは思い浮かばないようだ。
「クリスマス・キャロルの続きでも読んだら? あれは善い話だよ」
僕の質問に彼女は寝返りで答えた。これ以上口を開く気はない様子だ。暗闇での談話は終息を迎え、睡魔の襲撃によって僕らの意識はその息を引き取った。