1.善悪のララバイ-2
ぱちゃりと靴の底が水たまりに沈む、足の先にはいつもなら気にも留めず通り過ぎる池があった。この公園の池は横長に大きく、橋の数が少ないから一直線に行きたいのに遠回りをしなくてはいけない、公園が通り道の人間にとってはある種とおせんぼうのようになっている。そのとおせんぼうのへそ、池の中央に白い睡蓮の花が無数に浮いていた。まるで茫洋と黒い夜道に光る街灯のように、不自然に、けれども燦然と睡蓮は咲いている。花に見惚れるのは初めての経験だった。この時僕は、今日はいい日になりそうだと思ってしまったのだった。
公園での景色を頭の片隅で反芻して、少ない客を対応する平日の昼下がり。オーダーをカウンターでとる際、支払いの前に必ず本を購入していないか確認する。隣の本屋のレシートか、購入した本を提示されれば百円引きをするサービスを行っているのだ。制服の女子高生が只管打座に関する本を見せてきたり、糊のきいたスーツ姿の初老の男性が初心者ライブDJ向けの参考書を差し出してきたりするから、人は見かけによらないのだと感心する。そういう意味では彼女も例外ではなく、決して特殊な人間ではないのだと言えるのかもしれない。
仕事終わりや学校帰りの人々が立ち寄る時間帯になり、にわかにカフェも混雑の様相。忙しいと客一人一人への対応が疎かになりがちだ。したがって本やレシートを見せられてもあまり記憶に残らないことが多いのだが、今でもビスカが提示した本のタイトルとその時の彼女の出で立ちを克明に覚えている。
色褪せた青い作業つなぎに真っ白な髪の毛、左手をポケットに隠して右手にはディケンズのクリスマス・キャロルの文庫本を本の形が歪むくらいに、強く握りしめていた。ただ、彼女が人々をくぎ付けにしたのは歪な見た目や振る舞いではなく、声だった。
「ホットコーヒー、一番小さいサイズ」
ハスキーなのに明瞭に空気を震わせるその声には、確実に怒りや苛立ちの感情を含有していた。けれど、どこかヨーロッパの小さな街に響き渡る教会の鐘が時刻を美しく告げるのと同じように、彼女の初音が届く範囲にいた人々はみなデミタスに注がれた深煎りのコーヒーとその香りを感じたに違いない。
「早く!」
彼女の催促で我に返った僕は、失礼いたしました、ホットコーヒーのレギュラーですね、と注文を確認した。
「それでは席までお持ちしますので、お好きな席におかけになってお待ち下さい」
僕が代金と引き換えに番号札を渡すと、ビスカは軽く会釈をしてドスドスと足音を鳴らしてレジカウンターから一番近い席に座った。
ここまでならまだ横柄で風変わりな客だという印象で終わっていた。おっかないな、と思いながらコーヒーを抽出しつつ彼女の座席を横目に伺っていると、ビスカはおっかないという言葉に付そうとしていた僕を嘲笑うような行動に出た。
まず着ていたつなぎを鬱陶しいと言いながら右手だけで器用に脱いだ。黒いTシャツが露になった。その後、またも右手だけで文庫本を無理やり開いた。それからは一つページを繰る度に、貧乏ゆすりをする度に、痛ぇな、だとか畜生だとか呻きだしたのだ。読みにくいと独り言つこともあった。なにが問題なのかというと、彼女の声に備わった魔力だ。彼女が痛いという度に、周囲の人も顔をしかめる。人の傷口を見てしまった時に、患部を思わずさすってしまうようなあの感触によく似ている。僕は彼女の席にコーヒーを押っ取り刀で持っていった。
「お客様、大変失礼ですが、他のお客様のご迷惑となりますので、どうかお静かにお願いします」
膝を折ってコーヒーを差し出す僕に、悲壮な瞳が揺れる。
「じゃあ、くっつけてくれよ」
ビスカはずっとポケットに入れたままだった左手を机の上に乗せた。
真っ赤だ。
どす黒い赤色が彼女の左手を蝕んでいる。そして開いた掌の中央に、今朝食べたウインナーと同じくらいの塊が鎮座していた。
察するのに時間がかかった。
その塊が彼女の左手の人差し指だと気付く前に、
彼女の左手に四本しか指がないと理解する前に、
他の客が大きな悲鳴を短く上げた。初めてアルバイト中に皿を割ってしまった時のことを思い出した。
「凄い出血、大丈夫、ではなさそうですね。えっと、医務室があるのでご案内します」
テーブルにはじっとりと血が伸びている。
「お前は、喚いたりしないんだな」
ビスカの言葉に射竦められそうになり、慌てて目を逸らす。
「勤務中、ですから。救急車をお呼びした方が、いいですか?」
それには及ばないよ、ご迷惑をおかけしました、とビスカは吐き捨てて、退店していった。どよめく店内で、僕はテーブルを拭いた。かなり動揺していた。だからこそ冷静に振舞おうとしてしまうのだ。
それから僕が人生でも指折りの奇妙な体験を終えてほっと一息をついたのは、タイムカードを切ってから事務所でコーヒーを一口飲んだ時だった。店長は次からそういうことがあったらまず自分に報告してほしいと懇願してきたし、店長より長くこのカフェで働いているパートの先輩は、ぜひその現場に居合わせたかったと言っていた。僕より倍以上長く生きてきた人々でも未経験な出来事だったということになる。僕は卑屈な優越感を胸に、これが己の生涯で最も奇怪な経験なのだと決めつけていた。その奇怪な経験におまけが着いていて、僕の短い生に大きな尾を引くことになると知り始めたのは、翌日の朝のことだった。
僕は毎朝、自分の本意を遂げるのは今日だと怠惰な決意をしてから起き上がる。老い先なんてない方がいいと思いながらも、トーストを齧りながら星座占いを確認する自分の滑稽さを鼻で笑いながら、これは延長戦だ、アディショナルタイムなのだと言い聞かせて僕は部屋を出る。そうしないと日の光を浴びることさえ躊躇してしまうからだ。
その日の朝は、シャッターを下ろし忘れたから陽光が窓から染み込んでいた。不愉快さより自己嫌悪に苛まれながらテレビをつけると、やぎ座の運勢は最下位だった。チャンネルを変えると一月生まれも最下位で思わずえずく。今日はさぼってしまおうかと良からぬ思考が頭を掠めるが、一コマでもさぼるとたちまちその講義に赴くのが億劫になってしまう悪い方向で完璧主義な己の特質を鑑みて、立ち上がり重たい鞄を肩にかけた。
もし僕がトーストにハムを乗っけていたら、占いを確認せずに部屋を出ていたら、とにかく扉を開けるタイミングがほんの十秒でも前後していれば、と今でも思うことがある。もちろんそうだったとしても、ビスカとの二度目の邂逅がほんの少し遅れていただけに過ぎないのだろうけど。
扉を開けるとゴミ袋を携えた女性が僕の部屋の前を通り過ぎようとしていた。アパートなのだからゴミ出しをする他の住人とすれ違うことはさほど珍しいことではない。いつもなら気にも留めず会釈だけして大学に向かうところなのだが、この日ばかりはそうもいかなかった。女性は僕を見て、あ、と言った。僕も女性を見て、あ、と嘆息が口から出てきた。
「おはようございまーす、昨日は悪かったね」
仰々しく挨拶をするジャージ姿で白髪の女性は、格好以外はあの日の出で立ちのまま、左手をポケットに突っ込み上半身だけねじってこちらを伺う。
「おはようございます、えっと、このアパートに住んでたんですね」
部屋を恐る恐る出て扉をゆっくり閉める。自分の部屋なのに、泥棒みたいだ。
「ああ、隣だよ」
彼女はポケットから左手を取り出して、親指で指し示す。包帯の巻き付いた左手が示すその先には隣室の表札があった。
「灰咲、さん?」
「本名は灰咲睡蓮、でも職場の人やバンドメンバーはビスカって呼ぶから、そう呼んで」
昨日とは打って変わって、気怠げだけど落ち着いた、優しい声だった。
「えっと、あんたは……」
ビスカは僕の向こうにある表札を覗き込んだ。
「火箱、ヒバコ? 変な苗字」
「自分のことを棚に上げないで下さいよ。左手はもう大丈夫なんですか」
灰咲という苗字だって十分に珍しいはずだ。火箱という苗字は今まで聞いたことがあるが、灰咲という苗字は聞いたことがない。
「ああ、ほら」
ビスカは左手を開いて僕に示した。人差し指があるべき場所は不自然なうろになっていて、視線が吸い寄せられる。
「くっつかなかったんですね」
「小瓶に飾ってあるけどな、見るかい、人差し指」
「大丈夫なんですか、なくても」
彼女の問いかけを無視したことより、よくない質問をしたことを後悔した。占いでも言っていたじゃないか、要らぬ詮索は災いの元だと。
「大丈夫だよ、もうギターもベースも弾けない、ドラムだってまともに叩けるか分からない、仕事は続けられないだろうから遠からず辞める羽目になるけど。労災は、下りるから」
次第に声が小さく震えだしていた。
「駄目じゃないですか」
これは失言だ。朝日の射さない暗いアパートの共用廊下で、慰めすらかけられない僕は早くこの場から消えてしまいたかった。ネガティブな感情に沈む僕の内心を知ってか知らずか、僕のそれとほとんど同じ高さにある彼女の目元が半月型に大きく歪む。大きくしわを寄せてビスカは高らかに笑った。
「あっはっはっは、確かに駄目だな。ニートになったらよろしく頼むぜ」
彼女はゴミ袋を持って階下に消えていった。追うことも立ち竦むこともできず、僕は彼女を追い越すことがないようにゆっくり階段を降りて駐輪場へと向かった。
それから彼女が僕の部屋に住み着くようになるまで、半年の期間が設けられた。その間に僕と同じくビスカも、内に秘めた怠惰な願いだけを膨らませていたに違いない。