恵瓊が残した言葉
桂川を渡り亀山へと入った一行は、一路牛松山の裾づたいに北上すると、三郎ヶ岳の西の道を進んだ。
ちょうど彼らの正面に、諸木山の山頂が見えて来たところで今度は西に向け進路を変え、再び桂川を渡って吉富へと入るつもりである。
ここで一息ついた後は、いよいよ丹波山地へと分け入り、京丹波から福知山《福知山》へと向かおうというのである。
一行は蕾をつけたばかりの空木の林を、なおも北に向けて歩いていた。
「それにしても、あの織田の大将はお坊様の言葉に目を丸くしておったのう」
与六が得意そうに鼻を鳴らす。
「何と言ってもお坊様は、あの信長をあと三年で山から転げ落ちるよう不幸に見舞れるとまで言い切ったのだからのう」
珍しく吉之助も興奮気味に語尾を強めた。
僧は托鉢笠をいっそう目深に被ると、荷車の前を歩いている。
「本当に一時はどうなることかと肝を冷やしたが、お坊様の度胸と桂の機転のお陰で何とか乗り切ることができたというものじゃ」
冬馬は僧の背中に一礼すると、桂にはその肩をポンとひとつ叩く。
桂は先を行く僧にも聞こえるよう、ひとつ声を掛けた。
「何故、お坊様は我らを助けて下さったのでございまするか?」
僧はゆっくりと振り返る。
「人助けをするのに、何の理由などいりましょうか・・・」
更に眼を細めると、にこやかに微笑んだ。
「それに実を言うと、拙僧はあの羽柴秀吉という織田の大将が何とも嫌いでござりましてな」
言われて桂と冬馬は仰天した。今自分達が眼の前にしていた武将こそ、織田家筆頭の羽柴筑前守秀吉であったというのだ。それだけではない。その秀吉軍を相手に一泡吹かせてやったのである。
「あの武将が羽柴秀吉・・・」
冬馬は振り返ると、もう一度武者震いをした。
いっぽう桂も京の織田陣中に忍んでいたときに、秀吉の噂を聞いたことがあった。
いつかは一色家の運命をも変えるかも知れないという男との出会いに、やはり底知れぬものを感じた。
「桂、羽柴秀吉とは何者じゃ。あの時の武将は、確か木下籐吉郎と名乗っておったではないか」
与六と吉之助は何とも合点がいかないようである。
無理もない話であろう。一介の兵卒が織田家重臣の名前を全て聞いたことがあるはずもなく、またその武将が名乗った木下籐吉郎という男が、先程の羽柴秀吉であることなど、当然知るはずもないことであったからだ。
「与六、良いのじゃ。わしらはまずは織田に先勝したのじゃ」
桂はそう言うと、今度は与六の肩を両の手で二つ叩いた。
「それにしれも、羽柴秀吉とは何とも大層な名前を付けたもんじゃのう。見た目はどう見ても、猿のようじゃったけどな」
与六は言いながら、猿を真似て頭と尻を掻く振りをしてみせた。
これには里も声を出して笑っている。
「まあ、何と大きな猿ですこと」
初には珍しく、顔の表情を崩すほどに喜んだ。
吉富へ着いた一行は一息つくと、ここで桂と冬馬が荷車から反物を取り出した。ここから先は山道も徐々に険しくなるため、それを各々が背負って行くことにしたのである。
当然彼らが引いて来た荷車も置いていくことにし、重い酒樽はここで割ることにした。酒は桂川へと流せば良い。
「何ともったいないのお」
与六の言葉に冬馬が答える。
「では如何するのじゃ。おぬしが一人で飲むとでも言うのか」
「いかなわしでも、それは無理というものじゃ」
与六は酒樽を結ぶ縄紐に、彼自慢の槍の柄を通しながら頭を振った。
それから吉之助の方を振り向き手招きをすると、彼にその酒樽の一方を担がせた。
「桂や、わしに一時の時間をくれんか。この酒を食い物にと替えてくるわ」
言うが早いか、与六と吉之助は早速それを担いで、吉富の集落へと駆け下りはじめている。
「与六―っ、織田の物見にはくれぐれも気を付けるのじゃぞ」
冬馬の言葉が与六に届いた時には、彼らはすでに丘を駆け下り、村外れにある能瀬神社の鳥居をくぐるところであった。
「まったくもって、この様なときの逃げ足だけは天性のものが備わっているようじゃのう」
なるほど、冬馬がそう言うのも無理はない。
それでも半時もしないうちに、吉之助が息を切らしながら戻って来た。
手には餅と焼味噌が握られている。おまけに鍋まで背負っているではないか。彼はそれらを掲げると、大声で叫んだ。
「与六が・・・、与六が大変なことになっておる」
その言葉に、桂も冬馬も刀を掴むなり、与六の向かった吉富の村へと腰を上げた。
咄嗟に吉之助が止めに入る。
「違う、違うのじゃ。大変なこととは、与六の差し出した酒がひとつ残らず売れてしもうたのじゃ」
「ことを順序立てて話すのだ、吉之助」
いきり立っていた冬馬は、思わず吉之助の襟首を掴む。
「神社の境内に酒樽を置いた後、わしらは一軒一軒触れ回って村人らを集めに行ったのじゃ」
「何と言って触れ回ったのじゃ?」
吉之助の言葉に桂が口を挟む。
「与六が『天朝様から戴いた京は伏見の酒じゃ。飲みたい者は食い物と交換じゃ、無い者は鍋、釜、薪でもかまわん』と言って廻ったのじゃ」
「確かに伏見の酒であることには違いないが・・・」
冬馬には何やらことの先が見えてきたようである。
吉之助は続ける。
「境内に戻ると、すでに大勢の村人がおった。みな手に手に干飯や餅、野菜を携えては酒樽を囲んでおったのじゃ。与六は槍の石突きで鏡蓋を割ると、樽の中から柄杓で一杯すくって一気に飲み干した」
「やはり飲みおったか」
桂がぼそりと呟く。
「その後、与六は村人の前でその槍を縦横無尽に振り回すと、『天朝様のお志が身体に漲るようじゃ』と一声法螺を吹いたのじゃ。すると、村人の一人が酒樽を指さし、『酒樽のあの家紋は確かに帝の御紋じゃ』と発したのを境に、与六の周りには村人が一気に押し寄せて来たのじゃ」
「天罰が下るようじゃの」
冬馬も半分あきれ顔である。
「して、与六は如何したのじゃ?」
それでも桂には与六のことが気にかかる。
「わからん。わしはすぐさま酒樽から離れると、村人らが持ってきた食い物などを拾い集めて戻って来たが、その時与六はまだ境内の中におったわ」
桂は吉之助の話を聞き終えると、ふっと溜息をひとつついてから、吉富への道をまた下り始めた。
「もしや、あれは亀井様ではございませぬか?・・・」
初が眼を細めて見る先には、大きな風呂敷にこぼれんばかりの食い物を詰め込んだ荷を背中に担いで歩く与六の姿があった。
彼は槍を杖代わりに、丘へと続く道を一目散に駆け上がって来る。
「いやあ、遅うなったのう」
得意そうに包みを広げる与六に、桂が尋ねる。
「与六、織田の物見の者とは出くわさなんだか」
与六は酒樽と交換した戦利品の中から幾つかの干し芋を掴むと、それを里と初に手渡した。
この時ばかりは、彼女たちも満面の笑みで彼を迎えてくれる。
それから与六は、干飯と味噌縄、そして少しばかり酒の入った竹筒を僧にも献上した。僧は金剛鈴を鳴らしながら経を唱えると、その品のひとつひとつを頭陀袋へと納めている。
「ほんに、与六殿は槍使いだけではなく、商いの才もあるとみえる」
僧はもう一度金剛鈴を鳴らした。
「与六っ」
痺れを切らした桂は、彼の袖を掴んだ。
「そう目くじらを立てるな桂、そちらも抜かりはないわ。村の者に聞いたのじゃが、今織田の軍勢はここより四里ほど西にある八上城を囲んでおるそうじゃ」
「八上城といえば、丹波でも堅固な要塞として有名な城じゃ。たしか、城主は波多野秀治殿が治めているはずじゃが」
すかさず冬馬が答える。
「攻め手の織田方の大将は、明智光秀とか申しておったのう」
「明智光秀・・・」
冬馬と桂は、秀吉が去り際に小声で言っていたその武将の名を思い出していた。
それから彼らは二挺の鉄砲をそれぞれ花茣蓙にくるむと、一挺を桂がもう一挺を与六が担ぎ吉富を後にすることにした。
ところが、再び彼らが京丹波に向け歩き始めると、僧は錫杖を鳴らし西へと向かう道を進み始めたのである。
「お坊様、そちらは播州へと続く道でございます。我らが向かうはこちらでございます」
桂は歩を進める僧に言葉を投げかけたが、その実、彼には薄々こうなるであろうと言う気がしていたのであった。
僧は振り返ると、出会ったときのような笑顔をみせた。
「色々と世話になったのう。この先どのようなことが起こっても、己の進むべき道をしかと見定めるのじゃ」
桂はその言葉に、両手に握った花茣蓙の中の銃をきつく握りしめた。
「お坊様、最後にあなた様のお名前をお教え下さいませ?」
冬馬は込み上げる気持ちを抑えながら、静かに尋ねる。
「拙僧の名は恵瓊じゃ。縁があればまた会えるやもしれん」
恵瓊はこちらに向かって一二歩歩み寄ると、托鉢笠を押し上げ少しの真顔を作って見せた。
「お里殿、皆の為にもそなたは末永く息災でな」
里は桂の横で深々と頭を下げる。
「初殿、これから先は頼みましたぞ」
そう言うと、恵瓊はひとつ大きく錫杖を鳴らし、西へと続く道を歩き始めた。
やがてすぐにその姿は皆の前から消え去り、辺りには錫杖の微かな音だけが残っていた。
「それにしても、お初さんに後を頼むとは、本当に恵瓊と言う坊様も変わった人じゃったのう」
与六は初を振り返りながら、不思議そうに呟いた。言われた初もキョトンとした顔をしている。
「ところで冬馬、京丹波へ入るにはこのまま山陰道を進むか、それとも桂川を遡り胡麻より迂回する道を取るのか、如何いたすつもりじゃ?」
桂はそう問うと、絵地図を彼の前に開いて見せた。まずは福知山までの道筋を検討に入れるためである。
当然西の山陰道を進む方が平坦な所も多く、また途中に宿を取る旅籠もある。女子連れの一行にとってはまず視野に入れるべき道筋であろう。
しかし、その分織田方の警戒も十分に予想されるのだ。増してや相手は知恵者の明智光秀である。迂闊に街道筋を行くのは自殺行為というものであろう。
いっぽう、桂川を遡る道は途中山居の谷道を行かなければならないものの、ここまでは織田の手も届かないであろう。
当然その分、女子の足では時間を費やしてしまうということもまた事実であった。
桂と冬馬が額を付け合わせていると、与六が不意に横槍を入れて来た。
「どうであろう、あの恵瓊殿が言われたように、ここはひとつお初さんに決めてもらっては」
「与六、馬鹿なことを言うではないわ」
冬馬は真っ先に反対する。
しかし桂は初を振り返ると、言い聞かせるように質問をした。
「お初さん、わしらは絶対にそなたと里を丹後へと連れて帰るつもりじゃ。そのためには、どちらの道を選べばよいかお初さんの気持ちを教えてはもらえまいか?」
桂にしてみれば、慣れない山道を里と初の二人が歩けるものかどうかを確かめたかったからでもある。
ところが意に反して、初はこの桂の質問にきっぱりと答えた。
「私やお里さんの足では迂回路はきつうございます。京丹波までは是非山陰道をお進み下さいませ。それに、織田方の兵も・・・」
言いかけて初は言葉を濁した。
普段あまり自分の気持ちを言葉にしようとはしない初の言葉に、皆も一様に驚きの色を浮かべている。
「よーし、これで決まりじゃ」
そう言うと、与六は重い鉄砲を左の肩に担いで、すたすたと山陰道を歩き始めた。
冬馬は胡麻へと抜ける道に、後ろ髪を引かれる思いを持ちつつも、与六の後へと続く。
「里、荷をひとつ持とう」
桂が里の荷に手を掛けると、彼女はその手を振りほどいた。
「桂様には重い鉄砲があるではございませぬか。私にも荷を背負わせて下さいませ」
その顔は、ちょうど一年前に丹後より京へと向かった時のものとは、まったく別人のように桂には感じられた。
そんな二人のやり取りを見ていた吉之助は、懐の短刀を衣の上から握ると、短槍を片手に二人の横を通り過ぎて行く。
こうしてまた六人に戻った一行は、山陰道を一路園部より観音峠へと向かう道を歩き始めた。
その後、美女山を望む谷間を抜けると、間もなく眼の前に広がる鼓山の麓へと到着したのであった。




