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全員が席に着いたはずなのに、上座の席が空だった。
「本日は巫様はご欠席か?」
三聖人の一人フェルスト様が補佐官の男に皆が聞こえるような声で問いかける。
「はい。感謝祭の祭祀がございまして、欠席なさるとのことです」
補佐官が自分の席に戻ろうとすると、もう一人の三聖人で唯一の女性であるオデンス様が不機嫌そうな表情で呟いた。
「感謝祭の朝には祭祀があることは誰もが知ること。何故、そうと分かっていて朝に会議を開くのですか?」
この場にいるすべてに人間がその理由に想像がついていた。この会議に巫様は来てほしくないのだと。
この凍り付いた空気を割ったのはシュヴェリ様だった。
「巫様はなるべく多くの官職ある僧侶の出席をお望みだったのです。そして朝が一番集まれるとお伝えすると、それで構わないと仰せでした。巫様の寛大なお心に感謝いたしましょう」
巫様とは僧侶たちを統べ、神に一番近いとされている人の事をいう。年中民の為に祈りを捧げ、祭祀を執り行うことを役目としている故に、政治的な影響力は無く、関わってはならないと法で固く決められているのだ。
体裁では一番位が高く敬ってはいるが、実際にはこうして蔑ろにされることも度々ある。国の全てはこの三聖人が牛耳っているのだから。
重たい雰囲気の中、会議は進められていく。はじめはいつも通りの人事の移動や税についての徴収高や運用について。そして先日のケルウス国との交戦の報告もなされた。どれもこれもすでに決まっていることを淡々と発表するだけで、議論などは殆ど交わされない。
私は渡されていた資料と照らし合わせ、発表される話の内容と相違する部分や、誰かの些細な質問を記入していく。
そしてすべての資料の発表会が済んだころ、シュヴェリ様が再び口を開いた。
「では、今会議の本題に入りましょうか」
その一言で、銀盆の若い男性が議長に青封筒の束を持っていく。
今会議のもっとも重要な部分が始まる。私たちの仕事はここからが本番で、隣のバンデームさんも一つ息を吐いて、気合を入れているようだった。
このグッタ国首都ルクスには約二百六十年前から生き続けている女性がいる。巫という御位にあり奇跡と呼ばれる力で多くの人々を救ったとされる人物だ。名をリーベといって、彼女は敵国の襲撃の後大怪我を負い、大聖堂の神殿前で倒れたそうだ。息のあったリーベ様を救おうと棺に似た治療用の硝子箱に寝かせ、治癒し目が覚めるのを待ち続け、二百六十年が経った。そのいつ目覚めるかも分からない女性がある日、硝子箱を残して失踪したらしい。
「全員が知っていると思いますが、夏になる前に巫リーベ様が失踪なさいました。今回はリーベ様の処遇について意見を求めたいと思います」
議長はそう言って、まず初めにと青封筒の開封から始めた。封筒は地方僧の意見が書かれており、失踪中のリーベ様についての対応にそれぞれの思いが綴られていた。
ある僧はこのまま自由にさせてあげて、戻ってくるのを待ってはどうかと書いてあった。
ある僧は誘拐だといって、連れ戻すことが先決だと書いてあった。
ある僧は死亡したと国民に知らせ、大々的に葬儀を執り行うべきだと書いてあった。
ある僧は判断に難しく、答えられないと書いてあった。
「では次に……」
議長がそう言って、ある封筒で手が止まった。それは私が忍び込ませたニト様の手紙だ。
「どうしてこれには封蝋がないんだ?おい、封書管理担当、どういうことだ?青封筒を勝手に開封したのか?」
銀盆の彼は責められて、汗をダラダラ流しながらあたふたして言葉が出てこないようだった。青封筒は機密文章に使われ、無断開封は厳罰なのだから冷汗が流れるのも無理はないし、私だって今まさに汗が噴き出ている。
「議長。とりあえず、中を確認してみてはどうですか?」
オデンス様が不機嫌そうにそう促すので、議長も仕方なく頷いて、中身を取り出す。
「――初めにお伝えしたいことがございます。シャルサックの寺僧の任にありましたスペルバ様が先日病にかかり、パブロワの地ににて他界致しましたこと、報告させていただきます」
この一文に僧侶たちが少し動揺した。驚くのも無理はない。スペルバ様といえば以前はこのような高僧会議にも出席していた方で、ここにいる殆どの者が知り合いなのだから。
「恐れながら今回の信書の回答は、スペルバ様の側近を仰せつかっておりました、私ニトーシェが代わりに返答申し上げます。
牧僧の位にも関わらず出過ぎた真似と承知しておりますが、緊急事態とのことでしたので、筆をとった次第でございます。寺僧の位にない者が寺の封印を使うのは恐れ多いと思い、封蝋はしていません。不躾をお許しください。
巫リーベ様の失踪について、シャルサックとしては三聖人様のご意見に賛同いたします。如何なる決断がなされようが、口をはさむことは一切なく、不満などを抱くことは決してありません。
どうか、すべての国民が納得いくご決断がなされますこと、深く信じております。
神のご加護が必ずありますよう心より祈りを捧げまして、返答とさせていただきます。
シャルサック、牧僧ニトーシェ」
手紙の内容に銀盆の彼は胸を撫でおろして、生き返ったかのような表情をしている。
「シュヴェリ様宛の手紙が同封されています」
議長が隣で座っているシュヴェリ様にニト様の手紙を手渡すと、シュヴェリ様はすぐに開いて目を通す。そして目の前の青い炎が灯る燭台に手紙を近づけ、引火させた。
「!」
誰もが息を呑んだように見えた。目の前で無表情に迷いなく手紙を燃やす聖人を見て、恐怖を感じたのかもしれない。
「これ、灰皿を」
聖人の補佐官が下っ端に灰皿を持ってこさせる。灰皿が机に乗るまでの間、会議は中断され、全員でその青い炎が紙を灰にする場面を無言で見つめていた。
そして灰皿の中で炎が消え、黒い煙が立ち上ると、シュヴェリ様が笑顔を取り戻し話し始める。
「さあ、会議を再開しましょう。議長、残りの手紙を開封してください。意見を取りまとめましょう」
手紙は完全に失われた。ある普通の僧侶の心を込めた手紙が青い炎で燃えつくされてしまった。
私は書き写したニト様の手紙をゆっくり制服の内ポケットに隠すようにしまった。なんとか平常心で仕事を続けようとするのだが、自分の手が冷汗でじっとり濡れていて、硝子ペンが滑って何度か書き損じてしまうのだった。
会議終了後、私たち議事録をとっていた公文書課官に議長が近寄って来た。
「巫様が議事録をお読みなるそうだ。今日中に祈祷署に持って行ってくれ」
「かしこまりました」
議長はせわしなく会議室を出て行き、最後まで残されたのは官吏の私と課長だけになった。
「バンデームさん、こんな字では失礼ですよね」
議事録はいつも記入漏れを無くすため、二人でとることになっている。そして読みやすい字というよりは正確さと速さを求められるので、自分だけが分かる殴り書きになってしまうもの。とうてい高貴な方にお見せできるような代物ではなかった。
「巫様に提出するなら、確実性が必要だ。書き漏れの無いように清書するしかないな」
私はため息を吐いて、のそのそと立ち上がる。姪にはもう少し待ってもらわなければならない。
「テレサ。会議中は不審な行動をとるな。誰かに目を付けられたら仕事にならないぞ」
「え?」
課長は私が内ポケットに紙を隠したことに気づいていたらしい。隣に座っていれば分かって当然かもしれない。
「私的な書付が紛れていまして。すみませんでした」
「さ、もう一仕事するぞ」
「はい」
課長は清書用の用紙を貰ってくると言って備品室へ向かったので、私一人で公文書課に戻ると、姪は部屋で誰かと楽し気に会話をしていた。
「あ!テレサさん。おかえりなさい」
朝別れた時とどこか雰囲気が違って見える。明るくて元気そうだ。あんなに不機嫌で、暗かったあの子がまるで感謝祭を楽しむ本物の姪っ子に見える。
「ただいま。元気そうだけど、何かあったの?」
「そうそう、テレサさん。聞きましたよ」
「な、何を?」
彼女の隣で一緒に笑いあっていたのは、ここで雑用をこなしているゼノの男の子だった。歳も近そうで、気が合ったのかもしれない。
「会議室の前で立っていたお兄さんたちにテレサさんの事を聞いてみたら、全員テレサさんの事を知っていましたよ」
不機嫌そうにしていると大人びて見えたが、ニコニコと楽しそうに笑って話をしている姿を見ていると、彼女が十代後半くらいの年相応に見えてくる。
「会議室前まで来ていたの?」
「だって、テレサさんが失敗しないか心配だったんです。鼠はいい案だったでしょう?」
都合よく鼠が現れたものだなと思ったら、姪の仕業だったのか。
「おかげ様で助かりました」
「私じゃあなくて、あの子の発案ですから」
指をさしたのはゼノの男の子だ。
「ありがとう。助かったわ」
「いいえ。お役に立てて嬉しいです。それでは僕は仕事に戻りますね。テレサさん、塵があれば回収します」
「感謝祭なのにご苦労様」
「いいえ。僕たちには関係ないですから」
「ええっと、この青字の書類は可燃塵だから、きっちり燃やしてね」
私は不要の書類を分けて、ゼノに持たせる。彼は優しく微笑むと素直に返事をして、姪に手を振って去って行った。
「それで、護衛官たちは私の事を何て言っていたの?」
「長く勤めている女性官吏は少ないから有名だって言っていましたよ」
確かに女性官吏の多くは、結婚すれば退職してしまうので、四十代目前になっても官庁で働いている女性は稀有だ。
「なんか、有名って嫌だわ。目立ちたくないのよ」
「でもでも、みんなテレサさんは美人だから有名だって言っていましたよ」
「貴女、私の姪だって言ったんじゃないの?」
「そうですけど」
「だったら、お世辞に決まっているじゃない」
「そうかな?人妻って男心を刺激するらしいですよ」
「……聞かなかったことにするわ」
男の人ってそういう目線で見ることもあるのね。確かに僧侶は結婚を許されていないから、女性僧侶は全員独身者だ。既婚女性は官吏の私くらいしかいないのだから、悪目立ちしてもおかしくない。ああ、出勤するのが憂鬱になりそうだ。
「それで、護衛官たちは何て言っていたの?」
私は自分の机に座って、議事録を見直す。
「え?」
「貴女の事だから、バシーノさんの事をきいたんじゃないの?」
「そうなんです、よく分かりましたね。皆さん口を揃えてこう言っていました。剣術で誰もバシーノに勝った奴はいないって」
姪が楽しそうな理由はそれだったのかとようやく理解した。知り合いが褒められて、素直に嬉しくなったのだろう。アーザムで雇っただけの傭兵だったはずなのに、どうしてそこまで親しくなれたのだろうか。
「この仕事を片付けたら、バシーノさんを探しに行こう。だからもう少し待ってて」
「はい」
可愛らしく頷く少女越しに、課長が走って戻ってくるのが見えた。
「テレサ、急いで終わらせるぞ。今日は感謝祭だからな」
感謝祭とは神に一年の収穫を感謝する日である。年に一度、前夜祭、当日、後夜祭と三日に渡り催される。家族が一か所に集まって過ごすことが一般的で、新年を祝うよりも大盛り上がりする。
「買い物は今日中に済ませておかないと、明日からの二日間は殆どのお店がお休みになるの」
市場に出てきた私と姪はバシーノさん探しをしながら感謝祭の準備をすることに決めた。
「感謝祭って何をするんですか?」
「神様に一年の収穫を感謝して、家族でご馳走を食べて過ごすのよ」
姪は市場の活気に気圧されたようで、私の後ろに引っ付いて歩いている。前夜祭のルクスに初めて来た人は誰だって驚くだろうと思う。この市場の大通りを埋め尽くさんとする人の群れに。あらゆるところから活気の良い声が飛び交っていて、隣の人と会話にすら邪魔に思えるくらいの喧騒だ。
「アーザムの市場とは全然違います」
「そうなの?ここも人がこんなに多いのは今日くらいなものだから」
今日中に買い物を済ませようとする主婦たちと、観光でやって来た客とでごった返していて、商店にとっては今日以上の稼ぎ時はないだろう。
「お店の数が違うんです。この通りはどこまで続くんですか?」
姪は背伸びをして遠くを見渡してみるが、商店街の終わりが見えないようだ。それもそのはず、この商店街は国一番だと言われていて、店の数も多いしその距離も長い。
「この道は港まで続いてるの。商店街の始まりは港の漁師が店を開いたことによるらしいわ」
「港まで行くんですか?」
「今日はこの近辺で済ませるから安心して」
人の多さにすでに疲れ始めている姪を説得して、私は目当ての食材を買い集めていく。
財布の中を何度見返しても金額は増えない。当たり前の話だけど、昨日夫に持たせた感謝祭用の貯金を失ったことを悔やんで止まないのだ。
「ああ、あのお金さえあればこの大きなお魚を買えたのに」
魚屋の前で私は涙目になった。感謝祭と言えば秋野菜に旬の魚と甘いお菓子、果実酒が定番なのに、今年も安い干物を買わなくてはならない。
「テレサさん、お金に困っているんですか?」
「そう、昨日あのぼんくらが前金に手を付けたせいで、私の貯金を持って行ったから」
「そうだったんですね」
ため息を吐く私の隣で、姪は店主の男に声を掛ける。
「おじさん、今日のおすすめはどれですか?」
店主は定番の脂ののった青魚を指さした。
「では、一番おすすめではないのはどれですか?」
店主は店の奥に一度戻り、そして水が入った樽を抱えて持ってきた。それは身の赤くて有名な魚で、ルクスの人はめったに食さない魚だった。
「テレサさん、このお魚だったら格安で売ってくれるそうです」
「でも、それは身が赤いから誰も食べないわ」
神に感謝する日に、神が嫌う赤の食べ物を口にするなんて、縁起が悪いように思う。
「でも、お店の人が言うにはとても美味しいそうですよ。これではダメですか?」
財布の中を再び覗く、もちろん増えたりはしていない。
「よし、背に腹はかえられない。おじさん、このお魚ください」
「まいどあり!」と威勢よく言われると、もうなんだって良くなってきた。よくよく聞けば味に癖はなく、臭みも少ないので調理しやすく、ロスなどの南の国では高級魚として食べられているという。私たちの前に出してくれたこのお魚は店主が家庭に持ち帰ろうと思っていた物の一つらしい。
そうか、赤い食べ物を食べる人がグッタにはいるのか。
「次はどのお店に行くんですか?」
「次はお菓子屋さんよ」
子どものころから祝い事があるたびに買いに通う菓子屋がある。老夫婦が営む昔ながらの古い店で、商店街の少しわき道を入った所にある。
「ごめんください」
私は閉められた扉を叩きながら、声を掛けた。しかし扉の奥からは誰の声も聞こえない。窓という窓に窓掛けが下げられていて、中の様子は見えない。いつもなら甘い香りが漂っているのに、何の匂いもしなかった。
「今日はお休みですか?」
「毎年開いているんだけど、もう売り切れて閉めちゃったのかな?」
私は横の路地に入って、店の裏手に出てみる。そして裏側に見つけた玄関扉を叩いた。
「すみません」
「はい、どちら様」
扉を開けたのは白髪の混じった女性だった。彼女こそ、ここの奥さんだ。
「裏口からすみません」
「ああ、テレサちゃん。久しぶりね」
「ご無沙汰しております。あの、今日はもうお休みですか?」
私の質問に奥さんは「そうなの」と下手な微笑みを浮かべながら頷いた。
「姪が遊びに来ているので、どうしてもここのお菓子を食べさせてあげたくて来たんです」
「そう。それはごめんなさいね。もう、店は閉めてしまったの」
「え?」
確かに夫婦二人とも高齢なので経営が大変なのは分かるが、息子が家を継ぐ予定だと聞いていただけにびっくりだった。
「うちの人が突然無くなってね、いろいろと必要だからそれでこの家を売ることにしたのよ。せっかく来てもらったのにごめんなさいね」
何かを思い立ったように奥さんは踵を返して中に戻ると、紙箱を持って急いで戻って来た。
「青林檎の焼き菓子なんだけど、良かったら持って行ってちょうだい」
「おいくらですか?」
私が財布を開こうとすると、すっと手が伸びてきて「お代はいいのよ」と私の手を触れた。こんなに顔を合わせて来たのに、初めて奥さんと触れ合ったことに気づいた。
「これが最後。二人とも、いい感謝祭を過ごしてね」
「ありがとうございます」
姪と二人で頭を下げて奥さんが扉を閉めるまで手を振った。なんだかあっけないお別れに感じた。
「テレサさん、人が亡くなって何が必要なんですか?」
奥さんが言った言葉が気になっていたらしい。
「家族が無くなると死亡税を払わなくてはならないの。それがかなり高額で、家を売る人は少なくないわ」
「そんなに高いんですか?」
「夫に先立たれて一緒に心中する妻もいるって聞くわね。私は絶対に後を追ったりしないけど、お金をあまり持っていない人にとっては辛い制度よ」
死亡税を積み立てて貯金している人も多いので、本当に困るのは葬儀の方だ。ルクスに在籍する僧侶は将来高僧になるような選ばれた人が多く、葬儀に呼ぶには高額を請求される。その上、祭壇を組んだり棺を作ったり、墓を作ったりと、お金は羽が生えたように飛んで消えて行ってしまうという。
私は紙箱から漂う甘い香りを吸い込みながら、足を止めた。
「そうなのね。これが最後なのね」
感謝祭はもちろん、誰かの誕生日や新年のお祝い、出産や結婚式、学校の卒業式にもここのお菓子を食べた。幸せの瞬間にはいつだってここのお菓子が側にあったのだ。
「幸せの味はこれで最後だと思うと、切なくなってしまって」
「テレサさん……」
「ごめんね。感傷的になっても仕方ないわ。感謝祭なんだもの、楽しく浮かれないと」
「はい。次は何を買いますか?」
「次は、野菜を買うわよ」
私たちはまたあの行列の様に集まった人の群れの中をかき分けていく。