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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
五章 黒猫の願い事
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黒猫の願い事(6)

 ショッピングモールの最寄り駅から更に電車を利用し、梢達は彼女の父親が暮らしている隣町へと移動した。


 梢が桶布と並び、何年も過ごした土地だ。電車を降りると、思わず身震いするような強い風が吹きつける。

 特筆するべき事は何もない、何の変哲もない町だ。そこそこのビルが建ち並び、商店街もあって、そこに暮らす人々が集まる住宅地がある。


 いまの梢はまとめ上げた髪をハンチング帽に収め、伊達メガネを掛けていた。明莉で試した変装を採用した形である。


 マスターの後ろで明莉と指を絡めるように左手を繋ぎ、肩を並べて歩きながら、彼女は落ち着いた気持ちで記憶の中の景色と周りを照らし合わせていた。


 傾きかけた陽を背にして、電線には複数の烏が止まっている。古びた個人店の看板が風に揺れ、民家の垣根の向こうからは準備中の夕飯の匂いが漂う。アスファルトの道の薄汚れた側溝には、雑草に混じって名も知らぬ花が咲いていた。


 記憶は色を取り戻そうとしていた。しかし特別な感情は湧かない。

 この町はもう、梢にとっては味のなくなったガムみたいなものだった。


「もうすぐ着きます」


 マスターが顔を振り向かせる。一瞬だけ、梢の左手が畏縮するように震えるのを明莉は感じた。


 ほどなくして着いたのは、見るからに安普請な二階建ての木造アパートだった。

 家族で暮らしていたときは貸家住まいだったが、事件後はほとんど追い出されるようにして、木野内聡はこのような寂れた場所に流れ着いたらしい。


「梢君、どうしますか?」

「うん……いま、中にいるのかな?」

「定職にはついていないと、沓掛君からは聞いています。ここでしばらく待ってみても構いませんが……」


 隠れて顔を見るだけなら待つしかないだろうが、外からでは部屋に居るかどうかも分からない。こうして実際に赴いてみると、やはりマスターに同行してもらって良かったと明莉は思った。


 気持ちが先走り過ぎて、計画的な行動ではなかった。それについては梢も反省していた。現に、どうすべきか分からず次の行動が起こせずにいるのだから世話がない。


「……ふむ。では少し待っていてください。僕が訪ねてみましょう」

「マスター、平気なんですか?」

「もし在宅でも、訪ねる部屋を間違えたとでも言えば大丈夫ですよ。梢君も、構いませんね?」

「あぁ……うん……ありがとう、マスター。頼むよ」


 梢と明莉の了承を得て、マスターは単身でアパートの一階端にある部屋の前に歩いていった。

 二人は近くの民家の塀に身を隠すようにして、遠くから彼の背を見守る。しかし、しばらく経っても状況に変化なく、踵を返したマスターが二人のもとに戻ってきた。


「どうやら留守のようですね。郵便受けは空だったので、生活はしているはずです」


 こうなると探すのは容易ではない。待ちに徹するにしても終わりが見えないため、判断の難しいところだった。


 このまま粘るか、諦めるか。


 そんな風に、三人がそれぞれ頭を悩ませようとしたときだった。


「――おい、俺のとこに何か用かよ?」


 梢達が来たのとは反対の方向から、粗野な男の声がした。


 すらりと背が高く、上下スウェットにダウンジャケットと、近所をぶらりと出歩いていてでもいたのか、ずいぶんとラフな格好をした中年の男である。

 刈り上げた短髪に、鋭く吊り上がった両眼を持つ容貌は威圧的。傲慢な薄ら笑いは凍えるようで、それは見る者によっては恐怖を喚起させるものだった。


「なあ、さっき俺の部屋の前にいただろ?」

「失礼……あなたの部屋とは?」

「とぼけんじゃねえよ。さっき、そこのアパートにいただろ。こっちは見てたんだよ」


 マスターは梢と明莉を背に隠すように男と対峙する。はぐらかそうとする彼に、男は噛み付くように追及した。


「ん? お前、どっかで……」


 と、高圧的にマスターを睨み付ける男が、不意に眉をひそめる。しかし思い当たれなかったのか、苛立たしそうに舌を弾き鳴らした。


「ちっ……気のせいか。で、何だよ? ガキを連れて宗教勧誘か? 暇そうで羨ましいぜ」


 最早こじつけに近い言い草で、とにかく因縁をつけようとする男はマスターの後ろに隠れる少女達の存在に目を向けた。


 男が現れてから、梢は金縛りにあったように動いていなかった。握った彼女の手の平から伝染したように、明莉の動悸も激しくなる。


「あ……? おい、そこのガキ。ちょっと顔見せろ」

「待ちなさい。この子達に近付くことは許しません」


 顔を隠す梢を不審に思ったのか、身を乗り出そうとする男から身を挺してマスターが彼女を庇う。

 だが、マスターが男を押し戻す前に伸ばされた手が梢の帽子を掠めた。


 帽子が地面に落ち、梢の髪が流れ落ちて顔も露わになる。

 明莉が咄嗟に帽子を拾って深く被せ直したが、もう遅かった。


「は……はは! やっぱりそうか! お前、梢だろ! 目を見りゃわかる。お前は俺の分身だからなあ!」


 梢の正体を確信した男は、蛇のように目を見開いて叫んでいた。


「わざわざ俺に会いに来たのか? 嬉しいじゃねえか。俺のとこに戻る気になったのかよ? おい! 黙ってないで何とか言え!」

「……ッ」


 真っ青となった梢が歯を鳴らす音を明莉は耳にしていた。白くなるくらいに握り締められた右手は痺れている。

 梢は限界ぎりぎりのところで、踏み留まろうとしている。明莉も彼女の肩を支えようと、ぐっと身を近くに寄せた。


「木野内聡さん、下がってください。それ以上の暴言は……」

「は! やっぱり俺が誰だか知ってたんじゃねえか!」


 男――木野内聡の凶悪な気配に一歩も退かず、マスターは毅然とした振る舞いを見せる。

 聡はそこでようやく数歩後ろに下がり、全身を波打たせるように哄笑をあげた。


「そういうお前は何様なんだよ? そいつは俺の子だってことも知ってんだよな? もしかして児相の関係者か?」

「いいえ。ですが、梢さんとは浅からぬ縁を持たせてもらっています。あなたなどよりは、ずっと彼女を大切に思っていますよ」

「なんだそりゃ? 梢、どういうことか説明しろよ。お前は俺の子だろうが。親に尽くせっていつも教えてやってたのによお。まさかテメエ、俺をこんな目に遭わせといて、逃げようってんじゃねえだろうなあ!」


 ダウンジャケットの襟元を掴んだ聡が、己の首筋を晒すように乱暴に引っ張る。

 そこには一直線に刻まれた、生々しい傷痕があった。


「見ろよ! お前に刺された傷がずっと痛むんだぜ? 今は離れ離れだけどよ……いつかまた一緒に暮らせるときが来るのを俺は楽しみにしてるんだ。だからこうして、せっかく波風立てずに大人しくしててやったのによお……」


 真っ黒に濁った感情が渦巻き、悪意の荒波が押し寄せる前兆のように、聡が声を落とす。


「そんな風につら見せられたら、抑えられなくなるだろうがあッ!!」


 我が子に対するものとは思えぬ憎しみが暴発する。マスターや明莉のことなど眼中になく、剥き出しの敵意を振り乱した聡は、梢に襲いかかろうと猛進していた。


 だが――聡の奇襲は不発に終わった。


 マスターが突っ込む聡のジャケットの左腕の裾を掴んだかと思うと、素早く外側に捻り上げていた。服ごと捻られて逃れられない聡は強制的に背を向けさせられ、そのまま一気に肩を押さえつけられ地面に倒れる。


 年齢の差をものともしない、流れるような早業だった。呆気にとられたのは梢と明莉だけではなく、聡も自分が倒されたのが信じられずに動揺していた。


「……てえ! なんだあ!?」

「近付くなと言ったはずです。これは正当防衛ですよ」


 鋭い声音でマスターが掴んだ聡の腕を引き絞る。関節が軋み、堪らずといった大の男の悲鳴があがった。


「くそ! わかった! もう何もしねえよ! 離しやがれ!!」

「必ずですよ」


 念を押したマスターが聡を解放すると、慌て立ち上がった彼はマスターから距離を取る。そしてまじまじとマスターの顔を睨み見たかと思うと、合点がいったように喉を唸らせた。


「あぁ……お前、思い出したぞ。どっかで見覚えのある顔だと思ったら、あのときの警官かよ」

「……さて、何の事かは分かりませんが……どこかで会ったことがありましたか?」

「すっとぼけてんじゃねえよ。ちっ……クソったれめ。結局何が目的なんだよテメエらは。なあ、梢。落ちぶれた俺を笑いにでも来たのかよ?」


 忌々しそうに吐き捨てた聡が、懲りずに梢に呼び掛ける。


 不快な喚き声はずっと梢の心を掻き毟り、苛んでいた。 


「……マスター、どいてくれ」


 できることなら、その背中に守られていたい。

 だが、梢は動いた。

 支えとなろうとしてくれている明莉の手を解き、盾となろうとしてくれているマスターに無理矢理作った笑みを見せて、前に進む。


「大丈夫だから……見ててよ」


 梢と目を合わせたマスターが、頷いて立ち位置を譲る。しかしいつでも動けるように、常に目は光らせていた。


「クソ親父。あんたを父親だなんて呼びたくねえが、今は呼んでやる」


 向き合えば男の顔から受け継いだ、自分と似ている部分パーツが嫌でも目に付く。

 自分には、人を人とも思わぬ男の血が流れている。絶望に凍え、眠れぬ夜を過ごしたことは何度もあった。


「あたしは……ずっとずっと、あんたから逃げたかった。あんたの子でいるのが嫌だ。あんたの血が流れるあたしが嫌いだ。あんたの細胞からあたしが生まれたんだと思うと自分自身に反吐がでる。あんたの全てが、あたしは嫌いだよ」

「くく……酷い言われようだな。だからって、どうしようもないだろ。お前に俺の血が流れているのは覆せないんだからな。恨むなら、俺みたいな奴のとこにお前を寄越した神様でも恨んどけよ」

「そんなことは分かってんだよ。どうしようもない事くらい分かってる。だから……そんなどうしようもない事に悩むのは、もうやめる」


 邪悪に笑い飛ばそうとする父親を見据えるために、梢はあらん限りに練り上げた胆力を両眼に込める。


 帽子を脱ぎ、メガネも外す。

 ありのままの素顔を晒した梢は、精一杯に吠えたのだった。


「あたしは……あんたみたいにならない! 負けないから! 絶対に、あたしは幸せになるんだ!!」


 熱い雫が頬を流れ、外気に触れて冷たくなる。

 梢の記憶の上では、親に泣き顔を見せるのはこれが初めだった。


「なんだぁ? それだけ言いに来たってのかよ。くだらねえ」

 

 しかし、肩で息をする娘の姿に何も感じ入ることなく、返された父親の言葉はその程度のものだった。


「は……だがまあ、クソ生意気なお前の泣きっ面を拝めたのだけは面白かったぜ。二度とその面見せに来るんじゃねえぞ」


 これ以上は付き合ってられるかと悪態をつき、聡は最後に梢を一瞥して背を向けた。

 アパートのドアが乱暴に閉められ、梢の視界から父親の背中が消える。


 言い争っていたのが嘘のように、夕暮れが静寂を運んできていた。


「梢……」

「大丈夫だよ」


 明莉がその背に何と声をかければ良いのか分からずにいると、先に梢が振り返り、涙の跡に笑みを被せた。


「会ってみれば、あんな奴どうってことなかったよ。すっきりしたさ。二度と負けるもんか。あたしは……っ」


 緊張が途切れて、梢が声を詰まらせる。そこから先は、もう言葉にならなかった。


「よく頑張りましたね。さあ、帰りましょう」


 マスターが梢にまとわりつく最後の幻影を払うように、彼女の背を抱いて胸を貸す。


 これまで流せなかった分、梢が嗚咽を堪えることはなかった。



《黒猫》への帰路に就く頃には、もう空には星が瞬いていた。


 とんとんと、静かに歩くリズムに合わせてマスターに背負われた梢も揺れている。

 憑き物が落ちたその寝顔は、まさに夢見心地のようである。揺りかごで眠る赤子のように、安らいだものだった。


「マスター、大丈夫ですか?」

「なんの。まだまだ体力には自信がありますよ」


 心配そうに訊ねる明莉に、マスターが明るく笑い返す。


 帰りの電車で、疲れ切った少女達は寄り添うように眠っていた。駅に着いて明莉は目を覚ましたのだが、何故か梢は目覚めず、こうしてマスターに運ばれていたのだった。


「泣くのにも体力が必要ですからね。ゆっくりと休ませてあげましょう」


 そう言われては無理矢理起こすのも可哀想になり、明莉はマスターに従った次第である。何より彼女も、今日の梢の頑張りを讃えたかった。


「……ねえ、マスター。訊いてもいいですか?」

「何でしょうか?」

「もしかしてマスターって、お巡りさんだったんですか?」

「……ええ、まあ。とっくに引退はしていますがね」


 木野内聡との会話の中で、そのことに明莉は奇妙な引っかかりを覚えていた。

 隠すことの程でもないのか、マスターは割とあっさり答えてくれた。


「昔、迷子を預けられたこともありましたよ。十年越し……ですね。あの時は救えませんでしたが、胸のつかえが取れた気分です」

「…………ねえ、マスター。梢は、そのことを……」

「さあ、明莉君。見えてきましたよ。もう一踏ん張りです」


 マスターが梢を背負い直し、歩幅を少し広くする。視線を送った道の先は、《黒猫》の淡いともしびで照らされている。


「親が受けた恩を、子が返そうとしてくれたのでしょうかね」


 かつて少女が届けてくれた迷子は、立派に成長して親となった。

 そしてその子が、彼女達を導いてくれたのは運命だろうか。


 喫茶店の入口の前ではマスター達の帰りを待ちわびたように、漏れ出る光に影を浮かび上がらせた黒猫が鎮座していた。

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