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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
五章 黒猫の願い事
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黒猫の願い事(5)

 梢の父親。木野内聡。


 長年に渡り娘を虐待の憂き目に遭わせ、現在は別居中と聞いている。

 会いに行く。だが文字通り死ぬ思いをして、梢は家族と離れたのではなかったのか。

 話しか聞いていない明莉に、梢の放つ言葉の重みは計り知れるものではない。


 だが、生半な覚悟ではないはずだ。


 周りから聞こえていたはずの煩いくらいの音が、この一瞬、明莉の耳には届かなくなっていた。


「梢……正直に答えて。もしかして、最初からそのつもりだったの?」


 たぶん、自分は怒っている。


 そう自覚するくらい、明莉の声は硬くなっている。その気配を梢も感じ取り、下手に誤魔化すことなく首を縦に振った。


「ああ、そうだよ」

「…………マスターに連絡する」


 明莉の決断は早かった。重ねられた梢の手を振り切って、スマホを取り出す。しかし明莉が連絡先を呼び出そうとする前に、梢が彼女の手を素早く掴んだ。


「待てって。話を聞いてくれ」

「聞く必要ってある? だって、梢は嘘をついて外出の許可をもらったんだよ?」

「プレゼントを買い行くのは嘘じゃないだろ。父親のことは、言わなかっただけだ」

「屁理屈言わないで。言わなかったのは後ろめたかったからでしょ? どっちにしたって、許可してくれたマスターを裏切ったってことじゃない」

「…………ああ、それについてはマジで悪いと思ってるよ。でも、言えば許可はもらえなかった」


 静かな怒りをもって明莉に言い負かされて、梢は返す言葉もなく項垂れてしまった。


「梢……ちょっと場所を変えよう」


 梢の萎れた姿に同情したわけではなかったが、明莉は少し怒りの熱を冷ました。ここではあまりに人目があるため、梢に立つよう促してフロアの隅の物陰へ誘導する。


「みんなが梢を心配しているのは分かってるはずだよ。なのに、勝手な真似はよくないよ。それに、会いに行くって……そんなに簡単に会えるものなの?」


 そして互いに向き合う形で、明莉は梢の説得を再開した。


「言い方が悪かったな。別に直接会って話そうってわけじゃないんだ。遠くから顔を見るだけだ。この格好も、あたしだってバレないようにするためで……」

「ああ……やっぱりそれ、変装だったんだ」


 そんな裏があるなら、いっそ単なる悪戯目的であって欲しかったと、明莉は心から思った。


「なあ、明莉。頼むよ。何でもするって言ってくれただろ? 今じゃなきゃダメなんだ。今変わらないと、あたしはきっといつまでも踏み出せないままなんだ」

「梢……。わかったから……落ち着いて。何を考えているのか、ちゃんと教えて」


 マスターに隠してまで、梢が成し遂げたいことは何なのか。

 両肩を掴まれ懇願された明莉は、まずは梢の話を聞くことにした。

 梢の手を両手で包み込むように握り直す。明莉の温もりに触れた梢は僅かに声を詰まらせたあと、訥々と話し始めた。


「あたしはさ……いい加減、自由になりたいんだよ」


 その言葉に強い憧憬を抱きながら、梢は言った。


「あたしがクソみたいな家庭で育ったのは、もうどうでもいいんだ。過去は変えられないし、うだうだ悩みたくもねえと思ってる。でも、そのためには……清算しなくちゃいけないことがあるんだ」

「それが、お父さんのことなの……?」

「そうだ。自分勝手な理屈を振りかざして、いつもあたしにクソな要求をしてきやがった父親さ」


 梢の瞳に暗い憎しみが灯りかける。だが、間もなくその火は理性に消されたようだった。


「どうしようもない、理解不能な悪意の塊。それがあたしの中の父親像だ。あたしは、皆瀬の中にその影を見た気がしたんだ」


 独善的ですらなく、ただただ利己的に自分の欲を満たそうと他人を食い物にする怪物の姿。

 思い出しただけで、明莉の背筋は冷たくなる。


「皆瀬を刺そうとしたのもそのせいだ。そして世の中には、そんな悪意をもった奴らがいる……。もしまた皆瀬みたいな奴に関わることになったら、あたしはきっとまた、同じ事を繰り返しちまう……そんなあたしが、明莉と一緒にいていいわけがない」

「……梢、そんなこと……」

「乗り越えなきゃダメなんだよ。ここで逃げたら、これから先のあたしの人生に、ずっとクソみたいな影がつきまとう。そんなの嫌だ。あたしの中に居座ってる父親の顔を……塗り替えたい。あんな奴、もう何でもないんだって……胸を張りたい」


 痛いくらいに、梢は明莉の手を握り返していた。


「明莉はあたしのために、皆瀬に立ち向かってくれた。一度は心を折られた相手に挑んで乗り越えたんだ。誰にでもできることじゃない。凄いよ、あんたは。そんなあんただから……あたしが前に進めるよう、一緒にいて欲しいんだ。明莉の勇気を、あたしにわけて欲しい」


 明莉は梢からの言葉に、何も返せずに立ち尽くしてしまう。

 それは心からの賞賛だった。だが、それを言うなら明莉こそ梢に救われたのだ。あの雨の日に梢が拾ってくれなければ、今の自分はいなかった。


 自分に勇気があるというのなら、それは梢のものでもある。


「梢、わかったよ。お父さんに会いたいっていうなら、わたしが安易に止めるべきことじゃないんだと思う」

「……そうか、ありがとう。なら――」

「でも、ちゃんとマスターに事情は話そう? やっぱり、それとこれとは話は別だよ」


 思わず前のめりになろうとする梢を制して、明莉はそこだけは譲れないと彼女の目を見据えた。


「……どうしてもか?」

「どうしてもです。マスターなら、きっとわかってくれるよ。それに、何も言わずにいられたとしても、隠し事を引き摺っちゃ意味ないと思う」

「…………あぁ、クソ。わかったよ。敵わねえよな、まったくよ」


 握られていた手を解いた梢が、言い表せない気持ちを発散させるように己の茶髪を乱暴に掻き乱す。


「最近、明莉には言いくるめられてばっかな気がするぜ」

「それはたぶん、梢が弱くなったってことじゃないかな?」

「は、言いやがる」


 梢はじとっと目を細めたが、唇は笑んでいた。険がとれた彼女の表情に、明莉も安堵の息をこぼす。


「んじゃ、早速マスターに電話するか……気が重いぜ」

「その必要はありませんよ」


 梢が自分のスマホを手にしようとした、まさにその瞬間である。

 聞き慣れたその男性の声がした方へ、二人は同時に面食らった顔を向けていた。


「ま、マスター?」

「どうしてここに……」


 象牙色のトレーナーにブラウンのジャケットと、ベージュのチノパンに革靴。見慣れた喫茶店の制服姿でこそなかったが、老紳士然としたその男性は間違いなく二人のよく知る坂本宗平その人だった。


「すみません。実はこっそりと見守らせてもらっていました」

「……ってことは、最初から勘付いてたってことかよ」

「ええ、まあ。些細な違和感でしかありませんがね。念のため……です」


 脱力して肩を落とす梢。微苦笑したマスターは、次に明莉の方へ顔を向けた。


「明莉君、梢君をよく諫めてくれました。感謝します」

「い、いえ……そんな」

「……それで? 女子高生二人をこそこそつけていたマスターは何しにきたわけ?」


 まだ驚き覚めやらぬ様子で、明莉はこくこくと頷く。そこで彼女よりも早く立ち直った梢が、皮肉を込めてマスターに質問した。


「はは、これは手厳しいですね。虚偽の外出申請をした悪い子供を連れ戻しにきた、と言えばいいですか?」

「……ぐぬ……全部聞いてたのかよ」

「全部ではありませんが、梢君の目的は理解できています。……決意は固いのですか?」

「……ああ。マスターが何と言おうと、あたしは――」

「ならば構いません」

「え……?」


 梢が呆けた声を出す。てっきり止められるものとばかり思っていたのに、容認するようなマスターの発言に意表を突かれた形だった。


「父親に会いに行くのでしょう。僕も同行しますよ」

「いや……その、いいのかよ?」

「梢君が一人で行くというのなら断固反対します。ですが、今後もこんな風に無茶をされては困りますから」


 マスターは叱責こそしなかったが、眼差しは厳しかった。

 そしてその奥には、一抹の寂しさのようなものもある。


「何でも話せとは言いません。ですが、もう少し大人を信用してみてください」

「……うん。ごめん……」

「はい。では、遅くなる前に行きましょうか」


 観念して項垂れた梢の頭を、マスターの厚い手のひらが覆う。

 その光景が本当の親子のようで、明莉は少しだけ妬ける思いだった。

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