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潮待ちのレール ― 朝靄の橋 ―  作者: たむ


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2/9

第二章 渡る人の足音

 翌朝、春口にはほんとうに靄が出た。


 霧と呼ぶほど深くはない。

 海も見えれば、駅の赤い屋根も薄く分かる。

 だが、どの輪郭も少しだけ湿っていて、建物と空気のあいだに柔らかな膜が一枚あるようだった。

 朝靄というのは不思議だ。

 夜のように隠しはしない。

 けれど、見えているものの確かさをほんの少し遅らせる。

 それが第八作の主題によく似ていると、湊は思った。

 夜を越えた。

 朝になった。

 それでも、自分の気持ちがほんとうに次の時間へ渡ったのかどうかは、すぐには確かめられない。

 橋とは、そういう曖昧さの上にかかるものなのかもしれなかった。


 まだ台所の火が完全に強くなる前に、湊は宿を出た。

 汐里も一緒だった。

 篠原はあとから橋の向こうで合流するという。

 朝の町は、どこも半分ずつ起きていた。

 魚屋の前にはまだ桶だけが出ており、商店の戸は少しだけ開いている。

 港へ向かう小さな車が一台通り、坂の上では新聞配達らしい自転車が見えた。

 駅へ上がる人もいれば、港へ下りる人もいる。

 それぞれ行き先は違うのに、朝靄の中ではいったんみな同じ湿った気配の中に置かれる。

 篠原の言う「朝だけはここで一度混ざる」という意味が、橋へ着く前からもう少し分かる気がした。


「夜のあとって」

 汐里が歩きながら言う。

「はい」

「朝になれば自然に切り替わると思っていました」

「でも違う」

「ええ。こういう靄の日だと特に」

「どう感じますか」

「町のほうが先に朝になって、自分の気持ちはまだ少し遅れている感じがします」

「……」

「市場も、駅も、港も動き始めてるのに、自分だけその手前にいるような」

「それ、すごく第八作ですね」

 湊が言うと、汐里は少しだけ笑った。

「そうですね。かなり」


 橋は、ほんとうに小さかった。


 石垣のあいだを流れる、水路とも小川ともつかない細い水の上に、簡素なコンクリートの橋が一本かかっている。

 欄干は低く、渡るのに時間はほとんどかからない。

 観光で来る人なら、橋だと意識しないまま通り過ぎるかもしれない。

 だが朝靄の中で立つと、その短さがかえって強い意味を持っていた。

 こちら側には宿へ戻る道と港へ下りる道。

 あちら側には市場へ抜ける道と駅へ上がる裏道。

 橋は小さいのに、春口の朝のいくつもの流れがここで一瞬だけ交わる。

 駅へ向かう学生。

 市場へ行く年配の女。

 宿から出た客。

 港へ下りる男。

 彼らの足音が、湿った朝の光の中でいったん同じ橋の上を渡るのだ。


「思ったより」

 湊が言った。

「ちゃんと“境目”ですね」

「ええ」

 汐里も頷く。

「向こうへ行った瞬間に、景色の質が少し変わる」

「どう違いますか」

「こちら側は、まだ夜の名残がある感じがします」

「宿と港の側だから」

「たぶん」

「向こうは?」

「朝の仕事が先に始まる側」

「市場と駅」

「はい」


 たしかにそうだった。

 橋の手前には、夜の帳場や港の灯りの延長のような静けさが少し残っている。

 渡った先は、もっと生活が早い。

 荷を運ぶ台車の音、店を開ける金具、始発に向かう足の速さ。

 距離にすれば数歩なのに、時間の流れが少し違う。

 朝靄の橋とは、単に場所と場所をつなぐのではなく、夜の名残を持つ時間と、昼へ急ぐ時間をつなぐ橋なのだろう。


 湊たちは欄干の横に立ち、人の流れをしばらく見ていた。

 五十代くらいの男が、港のほうから市場のほうへ急ぎ足で渡る。

 高校生が二人、駅のほうへ上がっていく。

 小さな鞄を持った女が、宿のある側から橋を渡りかけて、一度だけ立ち止まり、それからまた歩き出す。

 その“立ち止まり方”が妙に目に残った。

 橋の上では、人はほんの一瞬、自分がどちら側へ行くのかを確かめ直すのかもしれない。


「見ましたか」

 汐里が小さく言う。

「ええ」

「今の人」

「立ち止まりましたね」

「橋って、たぶんそういうことなんでしょうね」

「どういう」

「足はもう渡っているのに、気持ちのほうがまだ追いついてない」

「……」

「霧のホームの半歩の遅れと少し似ています」

「そうですね」

「でも、ホームよりやさしい」

「どうして」

「橋は、発車しないから」

 その一言に、湊は深く頷いた。

 ホームでは列車が来る。

 決断は待ってくれない。

 橋は違う。

 渡るか渡らないか、自分の速度で少しだけ迷える。

 だからこそ、朝の移行を引き受ける場所として機能するのだろう。

 第八作は、第五作の霧のホームの鋭さに対する、もう少し生活に近い応答でもあるのかもしれなかった。


 やがて篠原が、橋の向こう側から現れた。

 朝靄の中では、こちらへ近づくまで輪郭がはっきりしない。

 その歩き方まで、橋にふさわしく思えた。

 渡ってくる人は、いつも少し遅れて現れる。

 見える前に気配が来る。

 春口では、橋もまたそういう場所なのだろう。


「おはようございます」

 篠原が言う。

「おはようございます」

 湊と汐里が返す。

「どうですか」

「かなり思っていた以上でした」

 湊が答える。

「小さいのに」

「ええ。時間の差がはっきりある」

「そうでしょう」

 篠原は橋の中央に立ち、両側を見渡した。

「昔の記録を読むと、この橋は“近道”として扱われています」

「近道」

「ええ。でも、朝だけは少し違う」

「どう違うんですか」

「近いからこそ、人は気持ちの切り替えを置き去りにしやすい」

「……」

「宿や港の夜を引きずったまま、もう市場や駅の朝へ入ってしまう」

「それで」

 汐里が言う。

「“渡ったかどうかが一番曖昧になる”」

「そうです」


 その説明で、澄江のメモがようやく立体になった。

 朝は、渡ったかどうかが一番曖昧になる。

 つまり、橋そのものが曖昧なのではない。

 橋が短すぎるから、人の気持ちの側が渡るのに遅れるのだ。

 夜を抱えたまま数歩で朝の側へ入れてしまう。

 だから、足では渡ったのに、気持ちはまだ橋のこちら側に残っている。

 そういうことが、この橋では起こるのだろう。


 篠原は古い写真の写しを一枚見せた。

 いまより少し前の時代の橋で、欄干の形がわずかに違う。

 朝靄の中、何人かの人が写っている。

 荷を持つ女、学生服の少年、帽子をかぶった男。

 どの人も歩いているだけなのに、不思議と“どこか途中の人”に見える。


「この写真」

 湊が言う。

「すごくいいですね」

「ええ」

 篠原も頷く。

「橋の上では、人は目的地の人になりきっていないんです」

「市場の人でも、駅の人でもなく」

「そうです」

「まだ橋の人」

「……」

「春口には、そういう“一瞬だけ名前のつかない時間”が多い」

「宿や港や岬とも似ていますね」

 汐里が言う。

「はい。ただし橋は、もっと短い」

「だから余計に曖昧になる」

「そういうことです」


 その短さが、第八作の魅力なのだろう。

 宿の一夜ほど長くない。

 夜航の便ほど深くもない。

 岬ほど遠くもない。

 だが、その短い橋の上で人は、夜の名残と朝の生活のあいだに一瞬だけ置かれる。

 その“一瞬の橋の人”を描くことで、シリーズはさらに生活の内部へ入っていくのかもしれなかった。


 橋の下の水は、靄のせいか流れが見えにくい。

 それでもときどき小さな光を返す。

 夜の海の灯りとは違い、ここでは朝の薄い光が水面に細かく砕けている。

 見えにくいのに、完全には隠れない。

 その半端さもまた、第八作らしかった。


「相沢さん」

 汐里が言う。

「はい」

「父も、この橋を渡ったことがあるんでしょうか」

「十分ありそうですね」

「夜の港のあとに」

「あるいは宿へ戻る朝に」

「……」

「母も」

「はい。かなり」

「そう考えると」

 彼女は橋の中央を見つめた。

「ここって、父や母が“夜を持ったまま朝へ入った場所”なのかもしれませんね」

「そうですね」

「すごく普通の橋なのに」

「春口って、そういう町ですから」

 湊が言うと、汐里は小さく笑った。

「本当に」


 橋の上に立っていると、人の気配が次々に通り過ぎる。

 だが誰も長くは留まらない。

 宿の帳場や港の岸壁と違い、橋は本来、留まる場所ではないのだろう。

 だからこそ逆に、ほんの数秒の躊躇いや遅れが目立つ。

 一歩。

 立ち止まり。

 振り返り。

 歩き直し。

 湊はそれを見ながら思った。

 第八作では、大きな出来事より、こういう微細な移行のほうが重要なのかもしれない。

 夜の灯りを知ったあと、人がどうやって朝の生活側へ足を出すのか。

 その数秒の足音の中に、シリーズの次の段階があるのだろう。

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