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潮待ちのレール ― 朝靄の橋 ―  作者: たむ


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第一章 橋のある朝

 春口には、大きな橋はない。


 海峡をまたぐ長い橋も、観光案内に載るような意匠を持った橋もない。

 この町にあるのは、川とも水路ともつかない細い流れの上にかかる、小さな橋ばかりだ。

 港へ行く途中で一度だけ渡る橋。

 駅へ上がる裏道にある橋。

 宿の裏手から市場のほうへ抜けるとき、気づけば足の下にある橋。

 春口では、道や坂ばかりが人を運んでいるように見える。

 だが実際には、そのあいだにある小さな橋が、町の分かれた時間を黙ってつないでいるのだろう。

 第八作で湊が春口へ戻った朝、最初にそのことを強く思った。


 列車が海沿いを走り、春口へ近づくころ、窓の外には薄い朝靄が出ていた。


 霧ほど深くはない。

 だが、朝の低い光の中で、港も屋根も少し輪郭をゆるめている。

 夜の名残が完全には引いておらず、昼の明るさもまだ立ち上がりきっていない。

 夜航の灯りを描いた第七作のあとに続く朝としては、これ以上ない景色に思えた。

 夜に知った灯りの位置を持ったまま、今度はそれを朝の風景の中へ置き直していく。

 第八作は、そういう巻になるのだろうと、湊は車窓を見ながら静かに思っていた。


 春口駅へ着くと、ホームの白線は朝靄の湿りを少し含んでいた。

 霧のホームの巻を経てから、この白線はもうただの安全線ではない。

 父の遅れた朝。

 見送りきれなかった時間。

 発車後の取り残され方。

 そうしたものの記憶が、この細い線にずっと重なっている。

 だが今朝は、その白線が夜のあとに見る朝の線として見えた。

 最終列車のあとにも物語が続いていたことを知ったあとの白線。

 見えない海の灯りの位置を知った者が、また朝の鉄道へ戻ってくるための線。

 その違いが、第八作の最初からもうあった。


 改札を出ると、汐里がいた。

 薄い灰青の上着を羽織り、髪は朝らしくまだ少しだけやわらかい。

 宿の主としての落ち着きはもうしっかりある。

 けれど今朝の彼女には、夜の灯りを知ったあとの静けさがどこか残っていた。

 第七作の終わりを一緒に越えた人の顔だった。


「おかえりなさい」

 彼女が言う。

「ただいま」

「今日は靄が出ていますね」

「ええ。夜の続きみたいです」

「私もそう思いました」


 駅を出て坂道を下りる。

 朝の町はまだ完全には起きていない。

 港の作業は始まりかけているが、商店は半分ほどしか開いていない。

 遠くで船の短い音がし、その少しあとで別の方向から金属の触れ合う小さな音が返ってくる。

 春口の朝は、いつもいくつもの場所が少しずつ時差を持って目覚めていく。

 駅、港、宿、市場、坂の上の家々。

 それぞれが別の速度で明るくなる。

 だからこの町では、朝の移行を支える小さな橋が重要なのかもしれなかった。


「篠原さんから」

 汐里が言う。

「今回のこと、少し聞いてます」

「橋のことですか」

「ええ。春口の外れにある小さな橋」

「夜航のあとで、どうして橋なんでしょう」

 湊が訊くと、汐里は少しだけ笑った。

「母のメモに、たぶんその橋のことだろうと思う文があったからです」

「どんな」

「“朝は、渡ったかどうかが一番曖昧になる”って」

「……」

「それだけですけど」

「澄江さんらしいですね」

「ええ。たぶん、橋のことでもあり、人の気持ちのことでもあるんでしょうね」


 その一文に、第八作の主題がすでに宿っている気がした。

 朝は、渡ったかどうかが一番曖昧になる。

 夜を越えた。

 見届けた。

 灯りの位置も知った。

 それでも、朝になって本当に次の時間へ渡れたのかどうかは、すぐには分からない。

 橋とは、その曖昧さそのものを形にした場所なのかもしれない。


 宿へ着くと、帳場の灯りはもう消えていた。

 朝の自然光が中へ入り、木の色がやわらかく浮いている。

 夜の灯りの宿を見たあとでは、この朝の帳場は少し不思議だった。

 光が足りているから消えている。

 だが消えていても、昨夜の灯りの位置は分かる。

 それと同じように、人の中でも、夜に抱えたものは朝になって見えなくなるわけではないのだろう。

 ただ、位置だけが残る。

 第八作は、その“位置の残り方”を朝の風景の中で探していく巻になるのかもしれなかった。


 荷物を置いたあと、居間の卓にはすでに地図が広げられていた。

 篠原の字で書き込みがあり、駅、港、宿、市場、小さな水路、そこにかかる橋がいくつか記されている。

 そのうちの一つにだけ、丸がついていた。

 駅と港の主な道からは少し外れた、裏通りに近い場所だ。


「ここです」

 汐里が指を置く。

「そんなに大きくない」

「ええ。たぶん見たことはあるんです。でも、意識していなかった」

「春口って、そういう場所ありますよね」

「はい。ずっと通っているのに、物語がそこへ来るまで意味を持たない場所」

「……」

「橋もそうなのかもしれません」


 その言葉に、湊はこれまでのシリーズを思い返していた。

 潮待ち浜。

 船着場。

 離れ。

 迎えの部屋。

 霧のホーム。

 夕凪の岬。

 夜航の岸壁。

 どれも、最初はただの場所だった。

 だが人の時間がそこへ触れた途端、二度とただの風景には戻らなくなった。

 第八作の橋も、きっとそうなのだろう。


 昼前、篠原がやって来た。

 今日は布鞄のほかに、細い紙包みを持っている。

 中から出てきたのは、古い橋梁点検の控えと、町内会の回覧板のような断片、それから写真が数枚だった。

 写真には、朝靄の中の細い橋が写っている。

 木でも石でもない、ごく簡素なコンクリートの橋。

 欄干は低く、水の流れも目立たない。

 だが写真で見ると、その橋だけが妙に“境目”の感じを持っていた。

 渡った先にすぐ別の町があるわけではない。

 それでも、こちら側とあちら側の空気が少し違って見える。


「これ」

 湊が写真を見ながら言う。

「朝靄が出てるからでしょうか」

「それもあります」

 篠原が答える。

「でも、この橋は昔からそういう場所だったようです」

「どういう」

「市場へ行く人、駅へ上がる人、港へ下りる人が、朝だけはここで一度混ざる」

「……」

「昼にはそれぞれ別の道へほどけるんですけど」

「朝だけは」

「ええ。夜を越えた人と、これから仕事へ向かう人と、始発を使う人と、宿から出た人が、同じ湿った時間を共有する」

「それは」

 汐里が言う。

「かなり第八作らしいですね」

「そうでしょう」

 篠原は小さく笑った。

「橋は、つなぐだけでなく、一瞬だけ混ぜる場所でもある」


 つなぐ。

 混ぜる。

 その二つの言葉が、朝の橋にぴたりとはまる気がした。

 夜と朝。

 宿と港。

 駅と市場。

 戻る人と、これから出る人。

 春口の朝靄の橋は、そのすべてを一瞬だけ同じ湿った光の中へ置くらしい。

 第七作の夜が、見えない灯りの位置を知る巻だったとしたら、第八作はその位置を持った人たちがどう朝へ混ざっていくかの巻になるのだろう。


「午後ではだめですか」

 湊が訊く。

「ええ、だめではない」

 篠原が言う。

「だが橋の本当の顔は、やはり朝です」

「母のメモの通り」

 汐里が言う。

「“渡ったかどうかが一番曖昧になる”」

「そうです」

 篠原は頷いた。

「朝靄の中だと、橋を越えたのか、まだこちら側なのか、気持ちのほうが追いつかないことがある」

「……」

「第七作までの夜のあとに来るには、ちょうどいい場所だと思います」


 その言葉を聞きながら、湊は自分の中でもう第八作の輪郭が動き出しているのを感じていた。

 夜の灯りを知ったあと、人は朝の生活へ戻る。

 だが、その戻りが本当に済んだかどうかは、すぐには分からない。

 渡ったつもりで、まだ夜の岸壁に半分残っているかもしれない。

 あるいは、もう朝の市場のほうへ足が向いているのに、心だけがまだ宿の帳場の灯りを見ているかもしれない。

 橋とは、そういう曖昧な移行を一度だけ形にする場所なのだろう。


 その夜、湊は二階の部屋の窓を開けた。

 港のほうには、まだいくつか灯りがある。

 だが今夜は、第七作の夜のようにその灯りの意味ばかりを追わなかった。

 代わりに思うのは、明朝そこからどうやって橋のほうへ渡っていくのか、ということだった。

 夜を知った者が、朝へどう移るのか。

 見届けたもの、なお残るもの、その位置を抱えたまま、どこで新しい一日の側へ足を乗せるのか。

 第八作は、その朝の移行の物語になるだろう。

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