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 新星歴一九九八年。四月一〇日。

 北アルル大陸、最北の街。海辺に臨むルチカ。

 ここへ辿り着いたのは偶然だったが、後になってから、レインジールの執務室で見た地図に載っていたことを思いだした。

 確か、()(れい)を牽制する目的の要塞都市で、彼の師が住んでいるはずだ。

 要塞都市と聞いて、(いか)めしい無骨な街を想像していたが、水平線の彼方に漁火(いさりび)が揺れるような、穏やかな町だった。

 気がつけば、ここで暮らし始めて一年が経とうとしている。

 港に一軒しかない酒場(バア)の二階と三階は宿になっており、佳蓮は三階の角部屋を借りていた。

 一階は食堂兼居酒屋で、人と交流する客間のような場所になっていた。

 街のどこにいても、歩いて浜辺へいけるほど海が近く、夜は波の音を聞きながら眠りに就く。

 何もない街だが、星修(せいしゅう)院の暮らしよりは肌に合っていた。

 佳蓮が一階で(くつろ)いでいても、過度に騒がれないところも気に入っている。

 地元の銘柄をいろいろと(そろ)えているようだが、別に酒を飲まなくても(とが)められない。人との交流を目的にする場所なのだ。時には、子どもを連れた家族客も訪れる。

 メニューも奇抜なものはなく、ごく家庭的な料理が多い。

 定番は、港直送の白身魚の香草揚げ(フリチュール)で、檸檬汁と卵と香草のソースがよく合う。それから、棒状の芋を()(がね)色に揚げた一皿。冷えた麦酒に自家製の葡萄酒に蜂蜜酒。

 いずれも結構な量があり、皿から溢れださんばかりなのだが、美味で意外と食べれてしまう。

 昼間は比較的静かだが、夜も()けた頃になると、めかしこんだ熟年から、老境(ろうきょう)の紳士淑女が集まって、奥のボールルームでダンスやカードに興じる。

 白髪の老紳士が貴婦人を随伴(エスコート)する姿は、見ていて美しかった。

 お洒落をする心意気、社交を楽しむ心を忘れないことが、若さの秘訣なのかもしれない。


 楽しそうに踊る彼らを、佳蓮は酒場(バア)の隅で一人、眺めていた。

 軽快な旋律の向こうに、()りし日の華やかな世界を思う。

 あの頃は、怖いものなどなかった。

 老いから遠ざかっていられることを正義のように振りかざし、信奉者に囲まれて、(なぎ)の時のなかで享楽的に生きていた。

 いつからだろう。

 永遠を、楽しめなくなったのは……

 皺の刻まれた手を取りあい、ステップを踏む彼等は美しい。

 照明のなかで踊る彼等を、(わだかま)った闇から見つめているのは佳蓮だ。

 月日を重ね、今この瞬間を楽しんでいる彼等が、妬ましかった。

 ――あんな風に生きてみたい。

 大切な人達と、同じ速さで年を重ねたい。

 けれど、佳蓮にはそれができない。

 出会った時は一〇歳だったレインジールも、今では一八歳だ。

 七つあった年の差は、いつの間にか逆転してしまった。子供だと思っていた少年は、佳蓮よりも大人になってしまった。

 憧憬(しょうけい)の眼差しは、熱を孕んだそれに変わった。

 この先、どう変わっていくのか……そう遠くない未来に、娘か孫を見るそれに変わるのだろうか。

 ――気分が悪い……

 さっきまで穏やかな気分でいられたのに。嗅ぎ慣れてしまった、腐敗寸前の林檎のような、甘く()えた香りが(かす)かに(ただよ)う。

 とどのつまり、これが佳蓮の本質なのだ。

 他人の人生を()(かん)して、自分を憐れまずにはいられない。内側が腐っているのだ。どれだけ環境が変わっても、自傷をやめられない。

 虚しさに耐えきれず、静かに席を立った。

 外へ出ると、天空からぽつり、と雨が落ちてきた。

 (たちま)(つぶて)のような雨に変わり、容赦なく全身を濡らした。

 宿へ戻ろうか。逡巡して、やめた。

 見渡す限り、人影はない。

 家々の窓から漏れる暖かな光は、今の佳蓮には縁遠いものだ。一人きりで、どこにも行く場所がない。

「うあぁ――ッ」

 嵐に向かって、大声で叫んだ。叫びながら(みさき)を目指して、走って、走って、走った。

「どうして、私なのぉッ!」

 雨の(つぶて)が、顔を打ちつける。

「なんでよぉッ!」

 悲鳴は嵐にかき消された。

 風に叩かれ、雨に煽られ、街路樹までもが絶望した女のように(こずえ)を天に向けて振りまわし、叫び続けていた。

「教えてよ、誰か! ねぇッ……レイン」

 声が()れ、息があがっても、歩き続けた。

 もう少しだ。

 あと少しで、崖の先端に辿りつく。

 いつの日か歩いた鋼鉄の冷たさを思いだしながら、一歩、また一歩と濡れた大地を踏みしめた。

 あの絶壁から飛び降りたら、どうなるのだろう? 今度こそ、死ねるのだろうか?

(もう、疲れた……)

 意識が(かす)む。躰が宙に浮いた。倒れる瞬間、懐かしい声を聴いた気がした。

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