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 九月の終わり。

 旅立ちに向けて、佳蓮は着々と準備を進めていた。

 荷をまとめながら私室を整理し、図書館に通っては街道図や関所の規定、通貨の換算や手数料といった実務的な情報を集めている。

 最近では、諦念(ていねん)(ただよ)わせながらも、レインジールの方から有益な助言を与えてくれるようになった。

 外は雨。

 大きな格子窓を、幾筋もの雫が静かに伝い落ちている。

 図書館の片隅で、しとしと降る優しい雨音を聴きながら、佳蓮は今後の行程を詰めていた。

 海辺の街にも心惹かれるが、先ずは皇都ヘカテルの星教区に近い場所から、少しずつ行動範囲を広げるつもりだ。

 本格的な冬が訪れる前に、新しい生活を軌道に乗せたい。

 続きは部屋でやろう――そう思い図書館を出た瞬間、廊下の向こうに〝白環(はくかん)宰相〟の姿を見つけ、咄嗟に壁の陰へ身を隠した。

 塔を出ることは、すでに伝わっているはずだ。今は余計な皮肉を受け取る余裕はない。

 忍び足で逆方向から帰ろうとしたら、突然、目の前にリグレットが現れた。図らずも、広い胸に飛びこんでしまった。

「わっ」

「失礼。気づいていなかったようですね」

 しれっと答える男の顔を、佳蓮は遠慮もなく()(ろん)げに見つめた。

「また総監と喧嘩したのですか?」

「違いますぅ」

 投げやりに応じると、リグレットは小さく息を吐いた。

「塔を出て行くと聞きましたが?」

「そうですけど……どうも、今までお世話になりました」

 手をそろえてお辞儀すると、意外にもリグレットは案じる顔になった。

「ここを出て、どうするおつもりですか?」

「自活できるようになります」

 きりっとした顔で佳蓮が答えると、リグレットは真顔のまま、

「それで、総監はなんて?」

「言いたくありません」

 ぷいっと顔を背けると、彼は片眼鏡(モノクル)の奥から冷えた視線を寄越した。

「総監の機嫌が悪くて、仕事に支障をきたしているのです。塔を出ていく前に、どうにかしていただきたい」

「そんなこと、私に言われても……レインに直接言ってください」

「進言しましたよ。解決しそうにないので、こうしてハスミ様に申しあげています」

 嫌味めいた口調の裏に、気遣いが滲んでいた。彼なりに心配しているのだろう。

「……そんなに、酷いんですか?」

「普段は冷静過ぎるほど冷静ですがね。貴方のことになると、年相応の若者に見えて、少し安心しますよ」

「昔は、もっとかわいかったんだけどな……」

 懐かしむように呟くと、リグレットは思いのほか柔らかな表情を浮かべた。

「あの方が、あれほど構うのは貴方だけです。大切で、愛しくて、仕方がないのでしょう」

「……お互い、依存し過ぎなんです。私が変わらないせいかもしれませんけど」

「彼の気持ちを知った上で、その結論なのですか?」

 返事に窮する佳蓮を見て、リグレットは小さく息を吐いた。

「総監もなかなか(むく)われませんね。全身全霊を傾けて恋をしているのに」

「……恋じゃありません」

 小声で反論すると、彼は器用に片眉を上げてみせた。

「では、何だと? 魂が躍動したからこそ、彼は幾つもの不滅の秘蹟を編みだした。恋でなくて、何だというのです」

 星導機関を率いる若き星導五塔総監は、この数年で主要機構の天然霊気消費を半減させ、また人工霊気生成術を驚異的な精度へと高めていた。

 その情熱の芯にあるのは、きっと、佳蓮への想いだ。

 彼はかつて、佳蓮は存在しているだけで霊気は満ちるのだと語った。

 だが実際には、その均衡の裏で、何かが代償として確実に失われている。

 月日と共に(おぼろ)になる、数少ない優しい記憶……名を呼ばれた声。無条件に肯定された瞬間。或いは、未来を思い描くための希望そのものかもしれない。

 それが、星杯(せいはい)を満たせない原因の一端ではないかと、佳蓮自身、薄々感じてはいた。

「彼は貴方の為に、()()して奇蹟を起こした。七年もの間、変わらず想い続けている(いち)()な男ですよ」

「……私が、望んだことじゃありません」

 揺らぎそうになる心を(よろ)い、佳蓮は冷たく言い放った。リグレットはそれ以上、何も言わなかった。

「……もう、行きます」

 沈黙に非難めいた匂いを嗅ぎ取り、佳蓮は逃げるように背を向けた。

「未熟なのは、貴方も同じですよ」

 背中に投げかけられた言葉が、深く刺さった。

 佳蓮は歩みを止めず、振り返らなかった。後ろめたい苦さを味わいながら、何も言い返せない自分を恥じた。

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