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 それからの日々は、記憶が(おぼろ)だった。

 これまでにも、似たことは何度かあった。

 嫌なことや、感情が大きく揺れたあと――なぜか、その間の記憶がすっぽり抜け落ちてしまう。

 今回は、朦朧としているうちに七日が過ぎていた。

 思い当たる要因といえば、二人の関係が変わってしまうことを恐れた、その一点だけだ。些細なことだと思うが、他に思い当たる(ふし)がない。

 目を醒ました時、夢と(うつつ)の境界が曖昧だった。

 屋上から飛び降りた直後のように、思考は(もや)がかり、視界に映る光景に現実味が伴わない。

 そして、意識障害のあとに訪れる副作用は、重かった。

 ねばつくような、濁った不安が胸を圧迫する。抑えこんできた疑問が、次々と掘り起こされ、思考は自壊していく。

 ここはどこ?

 どうして生きているの?

 なんで?

 死んだんじゃないの?

 悲嘆に暮れる佳蓮を、泣きそうな顔でレインジールが見つめていた。名前を呼ばれると、麻痺した心を揺さぶられた。

「……時々思うんだ」

 寝台の上で、ぼんやり呟いた。

「全部、妄想なんじゃないかって。レインは……私が生んだ、私を否定しない、美しい存在なんじゃないかって」

 次の瞬間、きつく抱きしめられた。

「レイン?」

「夢ではありません」

「……判ってるよ。離して」

「私は、貴方の創造物ではありません」

「判ってるってば」

「なら、どうしてそのように心を彷徨(さまよ)わせるのですか?」

 (なじ)られているように聞こえて、苛立ちが走った。

「じゃあ、聞くけど。死後の世界でもなければ想像の世界でもない、ここはどこなの?」

 反駁(はんばく)の隙を与えずに続ける。

「納得のいく説明が一度でもあった? 私は死んで、どうなったの? ちゃんと死んだの? 本気で考えたら、一秒だって正気でいられない。そんなの、自分の世界に(こも)るしかないじゃん!」

「堕天したことは、」

「違う、自殺したの! 何度言えば判るの⁉ デパートの屋上から飛び降りたんだってばッ‼」

「尊い堕天です。天界に住まう女神は――」

「やめてッ!」

 (さと)そうとする言葉を、殆ど悲鳴で(さえぎ)った。

「私は、女神じゃない! 女神なんかじゃない、女神なんかじゃないッ‼」

 胸郭(きょうかく)が折れそうなほどの、魂の叫びだった。

「佳蓮、落ち着いてください。どうして、そのように否定するのですか? 貴方は、地上に()ちても変わらずに、穢れない光輝ですのに」

 その言葉に、佳蓮の目つきが据わった。(なだ)めようとする腕を、力任せに振り払った。

「レインって、どうしてそうなの?」

 冷たい声が、するりと(こぼ)れた。やめなよ――頭の片隅に思うが、止められなかった。

「本気で、私が女神だと思ってるの?」

「もちろんです」

「……すごいね。自分でも信じられないのに、よく信じられるね」

 驚くほど、冷たい声がでた。

 彼のこうした真っ直ぐな姿勢を見る度に、完璧なまでに整った容姿が嫌味に思えてくる。

「ねぇ、生まれながらの(とが)があるって、言っていたよね」

「はい」

「レインも?」

「……え?」

堕ちる(・・・)前は、何をしていたの?」

「輪廻は、上位次元(アストラル)の領域です。私を含め、地上に生まれた者に、推し測る(すべ)はありません」

「じゃあ、どうしようもない悪人だったのかもね。そのザマだもん。ご愁傷様! あ、でも違うか。私の傍にいられて、嬉しくて仕方ないのかな? あはははっ!」

 次の瞬間、視界が揺れた。

 剣呑(けんのん)な光を宿した(ひとみ)で、レインジールは佳蓮を寝台へ押し倒した。両手首をきつく掴み、寝台に縫い()める。礼儀正しいレインジールとは思えない、荒々しさだった。

「どいて!」

「私の女神。どうか、私の想いを軽んじないでください」

 低い声。氷晶(ひょうしょう)(ひとみ)には、(まご)うなき熱が灯っている。なんて()(れつ)な炎。気づきたくなかった。ずっと居心地の良い関係でいられると信じていたのに――

「離して!」

 視線から逃げるように顔を傾けて、四肢(しし)に力をこめるが、たやすく封じられた。

「私を怒らせるのは、得策ではありませんよ。翼を手折られた貴方は、私を追い払えやしないのだから」

「レインのくせに……っ!」

 感情が(たかぶ)り、熱い雫となって(ひとみ)から(こぼ)れ落ちた。

 はっとしたように、レインジールは離れた。

「……申し訳ありません、こんなつもりでは」

「出ていって」

 低く命じると、レインジールは恐れるように身を(ひるがえ)し、部屋の隅へと退(しりぞ)いた。

「……私は……ただ、佳蓮の星杯(せいはい)を満たしたくて……私を見ようとしない、貴方を見るのが、辛くて……っ」

 美しい顔を両手に沈めて、血を吐くような、沈痛な声を絞りだした。見せるつもりはなかったであろう、感情の吐露だ。

 沈黙。

 ふと、佳蓮の(のう)()に断片的な記憶が(よぎ)った。


〝佳蓮。心地いい風ですよ。外を歩いてみませんか?〟

 優しい声。髪を撫でる感触……

〝佳蓮。何を見ているのか、教えてください……〟

 結ばぬ焦点を辿り、心を()むように笑みかけ、ゆっくり話しかける。

〝佳蓮。何も怖くありませんよ。どうか、ここへ戻ってきてください……〟


 あの優しい声は、確かにレインジールだった。佳蓮が朦朧としている間、彼はずっと、傍にいたのだろう。

 いつもそう。いつだって、佳蓮を第一に気遣ってくれるのに、佳蓮ときたら、癇癪(かんしゃく)を起して()(ふん)慷慨(こうがい)をまき散らしている。

「……ごめん」

 頭が冷えると同時に、羞恥(しゅうち)がこみあげた。

 寝台を降りて彼の傍へ歩み寄り、そっと白銀の髪を撫でる。レインジールは、恐る恐る顔をあげた。

「私の方こそ、とんでもない醜態でした。お(ゆる)しください」

「お互い様だよ……私の方が、ずっと酷いし」

「自制が利かず……お恥ずかしい。自分に、これほど衝動的な一面があるとは知りませんでした」

「いや……レインは、私よりずっと大人だよ。癇癪(かんしゃく)を起して、ごめんなさい……」

 悄然(しょうぜん)と呟くと、レインジールは歯痒そうな表情を浮かべた。

「そんな風におっしゃらないでください。今のは私に非があったのです。貴方はもっと、私を責めてくださっていいのです」

「レインは悪くないよ……でも、乱暴はしないで」

 小声で囁くと、レインジールは(はじ)かれたように姿勢を正した。

「決して。二度といたしません。魂と星杯(せいはい)にかけて誓います」

 (いささ)か大仰だが、嬉しい。笑みかけると、レインジールも控えめに笑み返してくれた。

「……それじゃあ、紅茶を淹れてくれる?」

 少し甘えた気分で提案すると、レインジールはほほえんだ。

「もちろんです、テラスで休憩しましょうか」

「うん」

「佳蓮の好きな、金木犀(きんもくせい)の香り茶を淹れますね。たっぷりと、クリームを溶かして」

 優しいレインジール。自分も傷ついているのに、佳蓮を(おもんばか)る彼は(はる)かに大人だ。

 夕涼みのテラスにでると、(わだかま)った空気を、秋の風が運び去ってくれた。

 立ち昇る金木犀(きんもくせい)芳香(ほうこう)と、乳白色のクリーム。優しい重厚な甘みに、波立っていた心は凪いでいった。

(良かった、仲直りできて……)

 思えば、気まずい思いをした相手と仲直りをするのは、初めての経験かもしれない。

 仲直り……縁遠かった温かな響きが、紅茶と共に胸の奥へと染み入る。それは、痛みを知る者同士が分け合う、とても優しい味だった。

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