19
それからの日々は、記憶が朧だった。
これまでにも、似たことは何度かあった。
嫌なことや、感情が大きく揺れたあと――なぜか、その間の記憶がすっぽり抜け落ちてしまう。
今回は、朦朧としているうちに七日が過ぎていた。
思い当たる要因といえば、二人の関係が変わってしまうことを恐れた、その一点だけだ。些細なことだと思うが、他に思い当たる節がない。
目を醒ました時、夢と現の境界が曖昧だった。
屋上から飛び降りた直後のように、思考は靄がかり、視界に映る光景に現実味が伴わない。
そして、意識障害のあとに訪れる副作用は、重かった。
ねばつくような、濁った不安が胸を圧迫する。抑えこんできた疑問が、次々と掘り起こされ、思考は自壊していく。
ここはどこ?
どうして生きているの?
なんで?
死んだんじゃないの?
悲嘆に暮れる佳蓮を、泣きそうな顔でレインジールが見つめていた。名前を呼ばれると、麻痺した心を揺さぶられた。
「……時々思うんだ」
寝台の上で、ぼんやり呟いた。
「全部、妄想なんじゃないかって。レインは……私が生んだ、私を否定しない、美しい存在なんじゃないかって」
次の瞬間、きつく抱きしめられた。
「レイン?」
「夢ではありません」
「……判ってるよ。離して」
「私は、貴方の創造物ではありません」
「判ってるってば」
「なら、どうしてそのように心を彷徨わせるのですか?」
詰られているように聞こえて、苛立ちが走った。
「じゃあ、聞くけど。死後の世界でもなければ想像の世界でもない、ここはどこなの?」
反駁の隙を与えずに続ける。
「納得のいく説明が一度でもあった? 私は死んで、どうなったの? ちゃんと死んだの? 本気で考えたら、一秒だって正気でいられない。そんなの、自分の世界に籠るしかないじゃん!」
「堕天したことは、」
「違う、自殺したの! 何度言えば判るの⁉ デパートの屋上から飛び降りたんだってばッ‼」
「尊い堕天です。天界に住まう女神は――」
「やめてッ!」
諭そうとする言葉を、殆ど悲鳴で遮った。
「私は、女神じゃない! 女神なんかじゃない、女神なんかじゃないッ‼」
胸郭が折れそうなほどの、魂の叫びだった。
「佳蓮、落ち着いてください。どうして、そのように否定するのですか? 貴方は、地上に堕ちても変わらずに、穢れない光輝ですのに」
その言葉に、佳蓮の目つきが据わった。宥めようとする腕を、力任せに振り払った。
「レインって、どうしてそうなの?」
冷たい声が、するりと零れた。やめなよ――頭の片隅に思うが、止められなかった。
「本気で、私が女神だと思ってるの?」
「もちろんです」
「……すごいね。自分でも信じられないのに、よく信じられるね」
驚くほど、冷たい声がでた。
彼のこうした真っ直ぐな姿勢を見る度に、完璧なまでに整った容姿が嫌味に思えてくる。
「ねぇ、生まれながらの咎があるって、言っていたよね」
「はい」
「レインも?」
「……え?」
「堕ちる前は、何をしていたの?」
「輪廻は、上位次元の領域です。私を含め、地上に生まれた者に、推し測る術はありません」
「じゃあ、どうしようもない悪人だったのかもね。そのザマだもん。ご愁傷様! あ、でも違うか。私の傍にいられて、嬉しくて仕方ないのかな? あはははっ!」
次の瞬間、視界が揺れた。
剣呑な光を宿した瞳で、レインジールは佳蓮を寝台へ押し倒した。両手首をきつく掴み、寝台に縫い留める。礼儀正しいレインジールとは思えない、荒々しさだった。
「どいて!」
「私の女神。どうか、私の想いを軽んじないでください」
低い声。氷晶の瞳には、紛うなき熱が灯っている。なんて熾烈な炎。気づきたくなかった。ずっと居心地の良い関係でいられると信じていたのに――
「離して!」
視線から逃げるように顔を傾けて、四肢に力をこめるが、たやすく封じられた。
「私を怒らせるのは、得策ではありませんよ。翼を手折られた貴方は、私を追い払えやしないのだから」
「レインのくせに……っ!」
感情が昂り、熱い雫となって瞳から零れ落ちた。
はっとしたように、レインジールは離れた。
「……申し訳ありません、こんなつもりでは」
「出ていって」
低く命じると、レインジールは恐れるように身を翻し、部屋の隅へと退いた。
「……私は……ただ、佳蓮の星杯を満たしたくて……私を見ようとしない、貴方を見るのが、辛くて……っ」
美しい顔を両手に沈めて、血を吐くような、沈痛な声を絞りだした。見せるつもりはなかったであろう、感情の吐露だ。
沈黙。
ふと、佳蓮の脳裡に断片的な記憶が過った。
〝佳蓮。心地いい風ですよ。外を歩いてみませんか?〟
優しい声。髪を撫でる感触……
〝佳蓮。何を見ているのか、教えてください……〟
結ばぬ焦点を辿り、心を汲むように笑みかけ、ゆっくり話しかける。
〝佳蓮。何も怖くありませんよ。どうか、ここへ戻ってきてください……〟
あの優しい声は、確かにレインジールだった。佳蓮が朦朧としている間、彼はずっと、傍にいたのだろう。
いつもそう。いつだって、佳蓮を第一に気遣ってくれるのに、佳蓮ときたら、癇癪を起して悲憤慷慨をまき散らしている。
「……ごめん」
頭が冷えると同時に、羞恥がこみあげた。
寝台を降りて彼の傍へ歩み寄り、そっと白銀の髪を撫でる。レインジールは、恐る恐る顔をあげた。
「私の方こそ、とんでもない醜態でした。お赦しください」
「お互い様だよ……私の方が、ずっと酷いし」
「自制が利かず……お恥ずかしい。自分に、これほど衝動的な一面があるとは知りませんでした」
「いや……レインは、私よりずっと大人だよ。癇癪を起して、ごめんなさい……」
悄然と呟くと、レインジールは歯痒そうな表情を浮かべた。
「そんな風におっしゃらないでください。今のは私に非があったのです。貴方はもっと、私を責めてくださっていいのです」
「レインは悪くないよ……でも、乱暴はしないで」
小声で囁くと、レインジールは弾かれたように姿勢を正した。
「決して。二度といたしません。魂と星杯にかけて誓います」
聊か大仰だが、嬉しい。笑みかけると、レインジールも控えめに笑み返してくれた。
「……それじゃあ、紅茶を淹れてくれる?」
少し甘えた気分で提案すると、レインジールはほほえんだ。
「もちろんです、テラスで休憩しましょうか」
「うん」
「佳蓮の好きな、金木犀の香り茶を淹れますね。たっぷりと、クリームを溶かして」
優しいレインジール。自分も傷ついているのに、佳蓮を慮る彼は遥かに大人だ。
夕涼みのテラスにでると、蟠った空気を、秋の風が運び去ってくれた。
立ち昇る金木犀の芳香と、乳白色のクリーム。優しい重厚な甘みに、波立っていた心は凪いでいった。
(良かった、仲直りできて……)
思えば、気まずい思いをした相手と仲直りをするのは、初めての経験かもしれない。
仲直り……縁遠かった温かな響きが、紅茶と共に胸の奥へと染み入る。それは、痛みを知る者同士が分け合う、とても優しい味だった。




