18.ひとひら
ひとひら、ひらり。
* ** *
手にした桜の花びらがどこから現れたのか、ヒロにもわからなかった。
予鈴の音を聞きながら、そっと手を握る。
愛理に手渡したあの花弁は――過去のかけらだ。
それに気付いた瞬間、ぶわりと記憶が溢れかえる。たまに出てくる思い出は懐かしく温かいのに、この瞬間だけは息が詰まるように苦しくなる。
それはまるで、死んだあの瞬間のよう。
苦しく、辛く、暗い。でも、思い出に触れる瞬間は、指先から足先まで一瞬で熱くなる。寒い屋外から温かい屋内に入った時のような温もりはヒロの心を癒してくれるのに、いつもどこか冷たく残る。
狂おしい、記憶。
――好きになっちゃ、だめだよね?
あの人の声は、心をかき乱す。
「桜の花びら」
ヒロの肩くらいまでしか身長が無いから、彼女の後頭部はよく見える。つむじの近くに絡まるようについた桜の花びらが気になって声をかけたら、彼女は大きな目を見開いて振り返ってきた。
「え、どこ? まだ桜の花びらなんてあるの?」
嬉しそうにきょろきょろするから、ヒロはぷっと吹き出す。あなたの頭の上ですよ、と言ってやったら、彼女はどう反応するのだろうか。
きっとあたふたしながら頭を抱えて真っ赤になるだろう。
そんな姿を想像するだけで笑えてきて、笑いをこらえながら在り処を教えてやったら、想像通りの動きをして、「やだ! どこどこ!」とストレートの黒髪を自らの手でモチャモチャにしている。
「なにしてんですか」
しょうがないな、とわざとあきれ返った顔を作って、髪の毛をめちゃくちゃにする手をがっちりつかんでやった。
ばんざいするようなポーズになった彼女は、さらに顔を赤くして「ちょっと! 離して!」とむくれている。
「せっかくの綺麗な髪、大変なことになってる」
言いながら、両手で掴んだ彼女の手を片手で掴み直して、フリーになった右手で髪の毛を直した。
さらさらと流れていく滑らかな髪は、ほんのりと甘い果物の香りがした。
「チューしていい?」
からかい半分本気半分で聞くと、彼女はさらに真っ赤になっていく。ゆでだこみたいになってしまった彼女がかわいらしくて、嗜虐心がうずく。
「いいでしょ?」
耳元で聞いて、耳の下に口づけた。
びくりと震えたのに、彼女は動かない。それは、肯定のサインだ。
ちゅ、とわざと音を立て、頬に口づけを落とす。顔を上げ、彼女の目を見ると潤んだ瞳がヒロをにらんだ。
「ずるいよ」
怒っているのか、眉間に皺が寄りまくっている。
「ずるい」
もう一度そう言ってくるから、ヒロは少しだけ困ってしまった。
「何が?」
「ヒロの方が、ウワテなんだもん」
「それって、ずるいこと?」
「ずるいことだよ」
壁際に体を押し付け腰に手を添えると、彼女は挑発的に見上げてくる。
ヒロは右手を彼女の指に絡ませ、唇に触れた。
彼女の方から口を少しだけ開き、舌を差し出してくる。かぶりつくように絡ませあい、左手で彼女の頭を抱え込んだ。
屋上の給水塔は、二人の姿を隠してくれる。
風が吹くたび、彼女の髪から甘い香りが漂う。それがイチゴの香りだと気付いたら、よけいに愛らしく思えた。
大人ぶってる彼女がイチゴの香りのシャンプーを使ってるんだと思うと、ギャップが面白い。
「卒業したら、一緒に旅行行こうよ」
キスの余韻に浸りながらそう言うと、彼女はくすくすと笑った。
「大学、受かったらね」
「厳しいなあ」
「合格祝いだよ。連れてってあげる。だから、頑張って」
ヒロの頭をなでながら、子供に言い聞かせるようにささやいてくる。
「ヒロは頭がいいんだから、大丈夫だよ」
「しょうがない、頑張るよ」
嫌々ながら承諾する。ヒロは勉強が嫌いだった。苦手では無いけれど、やる気が起きない。ヒロのやる気の無さを彼女も理解しているようで、頑張る機会を与えようとしてくれているのがわかる。
だから、ヒロはうなずいた。
彼女の好意を無駄にしたくない。
「あ」
彼女の指から零れ落ちる。
それは、桜の花びらだった。
*
和希は非常にむかついていた。
愛理の言葉に、だ。
「私にはヒロしかいないもん」という、あのセリフ。
「何が、ヒロしかいないもん、だ」
つい独り言をつぶやいてしまい、周りにだれもいないか確認する。昼休み真っただ中のこの時間は、お昼ご飯を食べ終わった生徒が階段や廊下でたむろしながら談笑したり遊んだりしている。
その間をすり抜けながら歩く和希の独り言は、たぶん誰にも聞かれていない。
ほっと安心したら、今度は深いため息が出てきた。
愛理の前ではイラつく感情を抑えることが出来た。けれど、やっぱりこらえきれずに、忠告したふりをして念を押した。
――俺がかまってやるから。
何を言っちゃったんだ、俺は。急に恥ずかしさがこみあげてきて、その場に突っ伏したくなった。
嫉妬してるみたいだ。愛理がヒロを大切にすることが、ほんの少し悔しい。
いやしかし。これは、あのバカが幽霊に騙されてあの世に連れていかれるとか、そういう夢見の悪い事態になりたくないからであって、だ。
言い聞かせてみたら、少し納得した。
あのおバカさんは、突っ走り系のおバカさんで、誰かがストッパーになってやらないと、歯止めがきかない。だから、俺がそれを買って出てやっているのだ、俺ってえらい。
さらに言い聞かせてみる。さらに納得できる。
だがしかし。
和希は生徒会長っぽい外見だが、人の面倒を見るのは嫌いだ。だから、生徒会長なんていうポジションはもっての外。なぜに全校生徒の面倒を見なきゃいけないんだ、かったるい。
つまり、愛理の世話を焼くのは、和希の性格ならありえないことなのだ。
「あいつが、あんなんだからだ!」
あんなどうしようもない女は見たことがない。人の言うことは聞かないわ、身勝手だわ、一人でふらふらするわ、野良猫かっ! と突っ込みたくなる。
気になって気になってしょうがない。
野原で見つけたちびのら猫がのたれ死んでないか心配になる小学生の気分だ。
「そうか、飼い主の気分みたいなもんか」
着地どころを見つけて安心した。
愛理は野良猫だ。せっかく懐いてきた猫が別の誰かにも懐いているのを見て、ちょっと寂しくなる心境と同じなのだろう。
納得したら、心が晴れやかになった。笑い出したくなって顔を上げたら、目の前に同じクラスの女子がいた。
「……会長、さっきからブツブツ独り言言ってて、キモ~い」
会長って、あだ名? いつ付けられちゃったの? くらりと立ちくらみがする。
今日も厄日だ。