『冥王ハデス――死者の国に咲く一輪の花』
『冥王ハデス――死者の国に咲く一輪の花』
ギリシャ神話をもとにした創作短編
冥界には、春が来ない。
空は永遠の薄闇に覆われ、黒い岩山の間を冷たい風が吹き抜けていた。
忘却の川レーテは音もなく流れ、三途の渡し守カロンの舟が、死者の魂を乗せてゆっくりと霧の中を進んでいく。
その国の最も深い場所に、黒曜石で築かれた宮殿があった。
玉座に座るのは、冥界の王ハデス。
漆黒の長衣をまとい、銀色の冠を戴くその姿は、神々でさえ畏れるほど威厳に満ちていた。
しかし、その瞳には、誰にも知られぬ寂しさが宿っていた。
「陛下」
三つの頭を持つ番犬ケルベロスが、玉座の前で伏せていた。
ハデスはその大きな頭を撫でた。
「……今日も、誰も笑わぬな」
ケルベロスは小さく喉を鳴らした。
「当然か。ここは死者の国なのだから」
ハデスは苦笑した。
「だが、死んだ者が、永遠に悲しまねばならぬ理由などあるのだろうか」
答える者はいなかった。
ただ、遠くで亡者たちのため息が、風のように響いていた。
* * *
ある日、冥界に一人の少女がやって来た。
まだ十六歳ほどの、栗色の髪をした娘だった。
名をリュシアという。
彼女は死者ではなかった。
生きた人間でありながら、冥界の門をくぐってきたのである。
「止まれ!」
門番たちが槍を構えた。
「生者が足を踏み入れてよい場所ではない!」
「お願いです!」
リュシアは必死に叫んだ。
「弟を返してください!」
「何だと?」
「弟のテオンは、まだ七つなんです! 熱を出して……昨日、息を引き取りました」
少女の頬を涙が伝った。
「でも、あの子は悪いことなんてしていません! どうして死ななければならなかったんですか!」
門番たちは顔を見合わせた。
その声は、やがて冥王の耳にも届いた。
「……通せ」
闇の奥から、低い声が響いた。
門番たちは慌てて道を開けた。
ハデスが、静かに歩み出てきた。
「お前が、弟を取り戻したいという娘か」
リュシアは震えながらも、顔を上げた。
「……あなたが、ハデス様?」
「そうだ」
「ならば、お願いです。弟を返してください!」
ハデスは少女を見つめた。
「それはできぬ」
「どうして!」
「死は、神である私にも勝手に覆せぬ掟だからだ」
リュシアは拳を握りしめた。
「……あなたは、死者の王なのでしょう?」
「ああ」
「だったら、何でもできるはずです!」
ハデスは静かに首を振った。
「王であることと、何でも許されることは違う」
少女は唇を噛んだ。
「……冷たい神様」
その言葉に、門番たちが息を呑んだ。
だが、ハデスは怒らなかった。
「そう思うのも無理はない」
「あなたには、分からないでしょう!」
リュシアの声が震えた。
「大切な人を失う悲しみなんて!」
ハデスは、しばらく黙っていた。
やがて、低く答えた。
「……分かるとも」
* * *
ハデスは少女を、宮殿の奥にある庭へ案内した。
そこには、黒い石畳と、枯れた木々が広がっていた。
「……何も咲いていない」
リュシアが呟いた。
「ここは、私が作った庭だ」
「庭?」
「ああ。いつか、花が咲くのではないかと思ってな」
ハデスは枯れた枝に触れた。
「だが、冥界には陽光が届かぬ。どれほど水を与えても、花は咲かなかった」
リュシアは不思議そうに尋ねた。
「……どうして、花が欲しいのですか?」
ハデスは遠い記憶を見つめるように、目を細めた。
「かつて、私の妻ペルセポネが、ここに花を植えたのだ」
「春の女神様……?」
「そうだ」
ハデスの声が、少し柔らかくなった。
「彼女が地上へ戻る季節になると、この宮殿はひどく静かになる」
「……寂しいのですか?」
ハデスは答えなかった。
代わりに、枯れた木を見つめた。
「彼女は言った。『あなたの国にも、いつか花を咲かせたい』と」
リュシアは小さく息を呑んだ。
「……それで、ずっと待っているの?」
「ああ」
「帰ってくると分かっていても?」
ハデスは静かに頷いた。
「待つ時間が短くなるわけではないからな」
少女は俯いた。
「……私の弟は、もう帰ってこないのに」
ハデスは膝を折り、少女と目の高さを合わせた。
「リュシア。お前は、弟を愛していたのだな」
「……はい」
「どんな子だった?」
少女は驚いたように顔を上げた。
「……テオンのことを、聞いてくださるの?」
「ああ」
リュシアは涙を拭った。
「あの子、いつも私の後ろをついてきたんです」
「そうか」
「市場へ行くと、必ず蜂蜜菓子を欲しがって……でも、自分の分を半分、私にくれるんです」
少女の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「私が怒ると、すぐ泣くくせに……私が泣くと、必死に笑わせようとして……」
声が途切れた。
「……もう、あの声が聞けないなんて……」
ハデスは静かに言った。
「ならば、その声を忘れぬことだ」
「……え?」
「死は命を終わらせる。だが、愛した記憶まで奪うことはできぬ」
リュシアは涙に濡れた瞳で、冥王を見つめた。
* * *
そのとき、庭の奥から柔らかな声が響いた。
「あなた。また、そんな難しい顔をして」
ハデスが振り返った。
そこには、淡い緑の衣をまとった女神が立っていた。
豊かな金色の髪に、小さな花冠を戴いている。
ペルセポネだった。
「……戻ったのか」
ハデスの声が、わずかに弾んだ。
「ええ。少し早くね」
ペルセポネは微笑んだ。
「あなたが、また一人で枯れ木を眺めている気がしたの」
「……余計な心配だ」
「ふふ。素直ではないのね」
彼女はリュシアに目を向けた。
「あなたは?」
「……リュシアと申します」
「泣いていたの?」
少女は俯いた。
「弟が……死んでしまって……」
ペルセポネの表情が曇った。
「そう……」
女神は少女の手を取った。
「とても悲しかったでしょう」
その優しい声に、リュシアの涙が再び溢れた。
「……はい……!」
ペルセポネは少女をそっと抱きしめた。
「泣いていいのよ。大切な人を失ったとき、涙を我慢する必要なんてないわ」
ハデスは、その光景を黙って見つめていた。
やがて、ペルセポネが顔を上げた。
「あなた。この子に、弟さんの姿だけでも見せてあげられない?」
ハデスは眉を寄せた。
「……それは」
「生き返らせるのではないわ。ただ、別れを告げる時間を」
長い沈黙が流れた。
やがて、ハデスは静かに立ち上がった。
「……一度だけだ」
リュシアは顔を上げた。
「本当ですか!」
「ああ。ただし、弟の魂を地上へ連れ戻すことはできぬ」
「……はい!」
ハデスは黒い杖を掲げた。
庭の中央に、銀色の霧が立ち上った。
やがて、その中から、小さな少年の姿が現れた。
「……お姉ちゃん?」
「……テオン!」
リュシアは駆け寄った。
しかし、その身体を抱きしめることはできなかった。
少年の姿は、淡い光でできていた。
「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」
「だって……あなたが……!」
「僕、痛くないよ」
テオンはにっこり笑った。
「ここには、怖いものもないんだ」
リュシアは唇を震わせた。
「……ごめんね」
「どうして?」
「最後の日……私、あなたに怒ってしまったでしょう?」
テオンは首を傾げた。
「覚えてないよ」
「蜂蜜菓子をこっそり食べたって……ひどいことを言って……」
「でも、お姉ちゃん、そのあと僕を抱っこしてくれたよ」
リュシアは声を上げて泣いた。
「……もっと、優しくしてあげればよかった……!」
テオンは小さな手を伸ばした。
「お姉ちゃん」
「……なあに?」
「僕、お姉ちゃんが大好きだよ」
リュシアは涙の中で笑った。
「……私もよ。世界で一番、大好き……!」
少年の姿が、少しずつ薄れていく。
「……もう、行かなくちゃ」
「待って……!」
「お姉ちゃん、笑ってね」
「……テオン……!」
「お姉ちゃんの笑った顔、僕、大好きだから!」
銀色の光が、静かに消えた。
リュシアはその場に膝をついた。
けれど、その涙には、先ほどまでとは違う温もりがあった。
* * *
「……ハデス様」
リュシアは冥王を見上げた。
「ありがとうございました」
ハデスは静かに頷いた。
「礼には及ばぬ」
「私、弟を忘れません」
「ああ」
「でも……いつか、笑えるようになりたいです」
ハデスは、初めて優しく微笑んだ。
「それでよい」
ペルセポネが少女の手に、小さな種を載せた。
「これを持ってお帰りなさい」
「……種?」
「春になったら、地上の庭に植えてごらんなさい」
「何の花ですか?」
「それは、咲いてからのお楽しみ」
リュシアは種を大切に握りしめた。
「……ありがとうございます」
やがて少女は、冥界の門を通り、地上へと帰っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ペルセポネが呟いた。
「あなた、優しいことをしたわね」
ハデスは顔を背けた。
「……ただ、掟の許す範囲で願いを聞いただけだ」
「ふふ。そういうことにしておきましょう」
ペルセポネは彼の手を取った。
「ねえ、あなた」
「何だ?」
「私たちの庭にも、種を植えましょう」
「……ここには陽光が届かぬ」
「それでも、植えてみたいの」
ハデスはしばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……好きにするとよい」
二人は並んで、黒い土に種を埋めた。
* * *
それから、幾度か季節が巡った。
地上では、リュシアの庭に白い花が咲いた。
小さく、可憐な花だった。
少女はその花に、弟の名をつけた。
「……テオン。今年も咲いたわよ」
春風が吹くたび、花は優しく揺れた。
一方、冥界の庭にも、不思議な変化が訪れていた。
黒い土の間から、小さな緑の芽が顔を出したのである。
「……ペルセポネ」
ハデスは驚いたように呟いた。
「見てくれ」
「まあ!」
ペルセポネは嬉しそうに駆け寄った。
「芽が出たのね!」
「……こんなことが」
ハデスは膝をつき、小さな芽を見つめた。
死者の国に生まれた、ほんのわずかな命の色。
ペルセポネは微笑んだ。
「ねえ、あなた。暗い場所でも、育つものはあるのよ」
ハデスは静かに頷いた。
「……そうだな」
彼は妻の手を握った。
遠くでは、死者たちの魂が静かに眠っている。
冥界は、これからも死者の国であり続けるだろう。
悲しみが消えることも、別れがなくなることもない。
それでも。
誰かを愛した記憶がある限り、心の中に小さな光は残る。
ハデスは芽にそっと触れた。
「……私は、死を司る神だ」
ペルセポネが微笑む。
「ええ」
「だが、死者たちが安らぐ場所を守ることも、私の務めなのだな」
「そうよ。あなたは、ただ命を奪う神ではないわ」
彼女はハデスの肩に寄り添った。
「帰る場所を失った魂たちに、最後の居場所を与える王なのよ」
ハデスは、長いあいだ黙っていた。
やがて、その唇に穏やかな微笑みが浮かんだ。
「……ならば、この庭を、もっと美しくしよう」
「ええ。一緒にね」
薄闇の中で、小さな芽が静かに揺れた。
それは、冥界に初めて生まれた希望の色だった。
そして、死者の王ハデスは知った。
死を支配することと、悲しみに寄り添うことは、決して矛盾しないのだと。




