↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/70

『冥王ハデス――死者の国に咲く一輪の花』

『冥王ハデス――死者の国に咲く一輪の花』


ギリシャ神話をもとにした創作短編


冥界には、春が来ない。


空は永遠の薄闇に覆われ、黒い岩山の間を冷たい風が吹き抜けていた。


忘却の川レーテは音もなく流れ、三途の渡し守カロンの舟が、死者の魂を乗せてゆっくりと霧の中を進んでいく。


その国の最も深い場所に、黒曜石で築かれた宮殿があった。


玉座に座るのは、冥界の王ハデス。


漆黒の長衣をまとい、銀色の冠を戴くその姿は、神々でさえ畏れるほど威厳に満ちていた。


しかし、その瞳には、誰にも知られぬ寂しさが宿っていた。


「陛下」


三つの頭を持つ番犬ケルベロスが、玉座の前で伏せていた。


ハデスはその大きな頭を撫でた。


「……今日も、誰も笑わぬな」


ケルベロスは小さく喉を鳴らした。


「当然か。ここは死者の国なのだから」


ハデスは苦笑した。


「だが、死んだ者が、永遠に悲しまねばならぬ理由などあるのだろうか」


答える者はいなかった。


ただ、遠くで亡者たちのため息が、風のように響いていた。


* * *


ある日、冥界に一人の少女がやって来た。


まだ十六歳ほどの、栗色の髪をした娘だった。


名をリュシアという。


彼女は死者ではなかった。


生きた人間でありながら、冥界の門をくぐってきたのである。


「止まれ!」


門番たちが槍を構えた。


「生者が足を踏み入れてよい場所ではない!」


「お願いです!」


リュシアは必死に叫んだ。


「弟を返してください!」


「何だと?」


「弟のテオンは、まだ七つなんです! 熱を出して……昨日、息を引き取りました」


少女の頬を涙が伝った。


「でも、あの子は悪いことなんてしていません! どうして死ななければならなかったんですか!」


門番たちは顔を見合わせた。


その声は、やがて冥王の耳にも届いた。


「……通せ」


闇の奥から、低い声が響いた。


門番たちは慌てて道を開けた。


ハデスが、静かに歩み出てきた。


「お前が、弟を取り戻したいという娘か」


リュシアは震えながらも、顔を上げた。


「……あなたが、ハデス様?」


「そうだ」


「ならば、お願いです。弟を返してください!」


ハデスは少女を見つめた。


「それはできぬ」


「どうして!」


「死は、神である私にも勝手に覆せぬ掟だからだ」


リュシアは拳を握りしめた。


「……あなたは、死者の王なのでしょう?」


「ああ」


「だったら、何でもできるはずです!」


ハデスは静かに首を振った。


「王であることと、何でも許されることは違う」


少女は唇を噛んだ。


「……冷たい神様」


その言葉に、門番たちが息を呑んだ。


だが、ハデスは怒らなかった。


「そう思うのも無理はない」


「あなたには、分からないでしょう!」


リュシアの声が震えた。


「大切な人を失う悲しみなんて!」


ハデスは、しばらく黙っていた。


やがて、低く答えた。


「……分かるとも」


* * *


ハデスは少女を、宮殿の奥にある庭へ案内した。


そこには、黒い石畳と、枯れた木々が広がっていた。


「……何も咲いていない」


リュシアが呟いた。


「ここは、私が作った庭だ」


「庭?」


「ああ。いつか、花が咲くのではないかと思ってな」


ハデスは枯れた枝に触れた。


「だが、冥界には陽光が届かぬ。どれほど水を与えても、花は咲かなかった」


リュシアは不思議そうに尋ねた。


「……どうして、花が欲しいのですか?」


ハデスは遠い記憶を見つめるように、目を細めた。


「かつて、私の妻ペルセポネが、ここに花を植えたのだ」


「春の女神様……?」


「そうだ」


ハデスの声が、少し柔らかくなった。


「彼女が地上へ戻る季節になると、この宮殿はひどく静かになる」


「……寂しいのですか?」


ハデスは答えなかった。


代わりに、枯れた木を見つめた。


「彼女は言った。『あなたの国にも、いつか花を咲かせたい』と」


リュシアは小さく息を呑んだ。


「……それで、ずっと待っているの?」


「ああ」


「帰ってくると分かっていても?」


ハデスは静かに頷いた。


「待つ時間が短くなるわけではないからな」


少女は俯いた。


「……私の弟は、もう帰ってこないのに」


ハデスは膝を折り、少女と目の高さを合わせた。


「リュシア。お前は、弟を愛していたのだな」


「……はい」


「どんな子だった?」


少女は驚いたように顔を上げた。


「……テオンのことを、聞いてくださるの?」


「ああ」


リュシアは涙を拭った。


「あの子、いつも私の後ろをついてきたんです」


「そうか」


「市場へ行くと、必ず蜂蜜菓子を欲しがって……でも、自分の分を半分、私にくれるんです」


少女の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。


「私が怒ると、すぐ泣くくせに……私が泣くと、必死に笑わせようとして……」


声が途切れた。


「……もう、あの声が聞けないなんて……」


ハデスは静かに言った。


「ならば、その声を忘れぬことだ」


「……え?」


「死は命を終わらせる。だが、愛した記憶まで奪うことはできぬ」


リュシアは涙に濡れた瞳で、冥王を見つめた。


* * *


そのとき、庭の奥から柔らかな声が響いた。


「あなた。また、そんな難しい顔をして」


ハデスが振り返った。


そこには、淡い緑の衣をまとった女神が立っていた。


豊かな金色の髪に、小さな花冠を戴いている。


ペルセポネだった。


「……戻ったのか」


ハデスの声が、わずかに弾んだ。


「ええ。少し早くね」


ペルセポネは微笑んだ。


「あなたが、また一人で枯れ木を眺めている気がしたの」


「……余計な心配だ」


「ふふ。素直ではないのね」


彼女はリュシアに目を向けた。


「あなたは?」


「……リュシアと申します」


「泣いていたの?」


少女は俯いた。


「弟が……死んでしまって……」


ペルセポネの表情が曇った。


「そう……」


女神は少女の手を取った。


「とても悲しかったでしょう」


その優しい声に、リュシアの涙が再び溢れた。


「……はい……!」


ペルセポネは少女をそっと抱きしめた。


「泣いていいのよ。大切な人を失ったとき、涙を我慢する必要なんてないわ」


ハデスは、その光景を黙って見つめていた。


やがて、ペルセポネが顔を上げた。


「あなた。この子に、弟さんの姿だけでも見せてあげられない?」


ハデスは眉を寄せた。


「……それは」


「生き返らせるのではないわ。ただ、別れを告げる時間を」


長い沈黙が流れた。


やがて、ハデスは静かに立ち上がった。


「……一度だけだ」


リュシアは顔を上げた。


「本当ですか!」


「ああ。ただし、弟の魂を地上へ連れ戻すことはできぬ」


「……はい!」


ハデスは黒い杖を掲げた。


庭の中央に、銀色の霧が立ち上った。


やがて、その中から、小さな少年の姿が現れた。


「……お姉ちゃん?」


「……テオン!」


リュシアは駆け寄った。


しかし、その身体を抱きしめることはできなかった。


少年の姿は、淡い光でできていた。


「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」


「だって……あなたが……!」


「僕、痛くないよ」


テオンはにっこり笑った。


「ここには、怖いものもないんだ」


リュシアは唇を震わせた。


「……ごめんね」


「どうして?」


「最後の日……私、あなたに怒ってしまったでしょう?」


テオンは首を傾げた。


「覚えてないよ」


「蜂蜜菓子をこっそり食べたって……ひどいことを言って……」


「でも、お姉ちゃん、そのあと僕を抱っこしてくれたよ」


リュシアは声を上げて泣いた。


「……もっと、優しくしてあげればよかった……!」


テオンは小さな手を伸ばした。


「お姉ちゃん」


「……なあに?」


「僕、お姉ちゃんが大好きだよ」


リュシアは涙の中で笑った。


「……私もよ。世界で一番、大好き……!」


少年の姿が、少しずつ薄れていく。


「……もう、行かなくちゃ」


「待って……!」


「お姉ちゃん、笑ってね」


「……テオン……!」


「お姉ちゃんの笑った顔、僕、大好きだから!」


銀色の光が、静かに消えた。


リュシアはその場に膝をついた。


けれど、その涙には、先ほどまでとは違う温もりがあった。


* * *


「……ハデス様」


リュシアは冥王を見上げた。


「ありがとうございました」


ハデスは静かに頷いた。


「礼には及ばぬ」


「私、弟を忘れません」


「ああ」


「でも……いつか、笑えるようになりたいです」


ハデスは、初めて優しく微笑んだ。


「それでよい」


ペルセポネが少女の手に、小さな種を載せた。


「これを持ってお帰りなさい」


「……種?」


「春になったら、地上の庭に植えてごらんなさい」


「何の花ですか?」


「それは、咲いてからのお楽しみ」


リュシアは種を大切に握りしめた。


「……ありがとうございます」


やがて少女は、冥界の門を通り、地上へと帰っていった。


その後ろ姿を見送りながら、ペルセポネが呟いた。


「あなた、優しいことをしたわね」


ハデスは顔を背けた。


「……ただ、掟の許す範囲で願いを聞いただけだ」


「ふふ。そういうことにしておきましょう」


ペルセポネは彼の手を取った。


「ねえ、あなた」


「何だ?」


「私たちの庭にも、種を植えましょう」


「……ここには陽光が届かぬ」


「それでも、植えてみたいの」


ハデスはしばらく彼女を見つめていた。


そして、小さく頷いた。


「……好きにするとよい」


二人は並んで、黒い土に種を埋めた。


* * *


それから、幾度か季節が巡った。


地上では、リュシアの庭に白い花が咲いた。


小さく、可憐な花だった。


少女はその花に、弟の名をつけた。


「……テオン。今年も咲いたわよ」


春風が吹くたび、花は優しく揺れた。


一方、冥界の庭にも、不思議な変化が訪れていた。


黒い土の間から、小さな緑の芽が顔を出したのである。


「……ペルセポネ」


ハデスは驚いたように呟いた。


「見てくれ」


「まあ!」


ペルセポネは嬉しそうに駆け寄った。


「芽が出たのね!」


「……こんなことが」


ハデスは膝をつき、小さな芽を見つめた。


死者の国に生まれた、ほんのわずかな命の色。


ペルセポネは微笑んだ。


「ねえ、あなた。暗い場所でも、育つものはあるのよ」


ハデスは静かに頷いた。


「……そうだな」


彼は妻の手を握った。


遠くでは、死者たちの魂が静かに眠っている。


冥界は、これからも死者の国であり続けるだろう。


悲しみが消えることも、別れがなくなることもない。


それでも。


誰かを愛した記憶がある限り、心の中に小さな光は残る。


ハデスは芽にそっと触れた。


「……私は、死を司る神だ」


ペルセポネが微笑む。


「ええ」


「だが、死者たちが安らぐ場所を守ることも、私の務めなのだな」


「そうよ。あなたは、ただ命を奪う神ではないわ」


彼女はハデスの肩に寄り添った。


「帰る場所を失った魂たちに、最後の居場所を与える王なのよ」


ハデスは、長いあいだ黙っていた。


やがて、その唇に穏やかな微笑みが浮かんだ。


「……ならば、この庭を、もっと美しくしよう」


「ええ。一緒にね」


薄闇の中で、小さな芽が静かに揺れた。


それは、冥界に初めて生まれた希望の色だった。


そして、死者の王ハデスは知った。


死を支配することと、悲しみに寄り添うことは、決して矛盾しないのだと。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。