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テュポン 灰色の海と神殺しの風

テュポン 灰色の海と神殺しの風


 夜の海は、腐った鉄のような匂いがした。


 波は黒く、月明かりを砕きながら岸壁へ叩きつけられている。そのたび白い飛沫が弾け、岩肌を濡らした。海辺に立つ村人たちは誰も口をきかなかった。濡れた風が頬を切り、焚火の煙が低く流れていく。


 遠くの沖で、何かが鳴いていた。


 獣とも違う。鳥でもない。巨大な喉が空を裂くような、腹の底を震わせる声だった。


「まただ……」


 老人が震える息を吐いた。


「三日続けてだ。海神様が怒ってる」


「違う」


 若い漁師のネレウスが首を振った。


「あれは神じゃない」


 村人たちの視線が彼へ集まる。火の赤が彼の頬を照らしていた。


「じゃあ何だよ」


「テュポンだ」


 その名を聞いた瞬間、焚火の爆ぜる音まで止まったように思えた。


 誰かが短く息を呑む。


「馬鹿言うな。あの怪物はゼウスに封じられたはずだ」


「だったら、あの声は何だ」


 ネレウスの声は低かった。しかし震えている。


「昨日、沖で見たんだ。海の底を動く影を」


 村の女たちが青ざめる。子どもを抱く腕が強くなる。


「山みたいに大きかった。目だけが赤く光ってた」


 海風が急に強くなった。焚火が斜めに流れ、灰が舞う。


 その時だった。


 ゴオオオオ――ッ!!


 海そのものが吠えた。


 巨大な波が岸へ迫る。村人たちは悲鳴を上げて逃げた。塩の匂いと泥の臭気が押し寄せ、地面が揺れる。


 ネレウスはその場に踏みとどまった。


 黒い海面が盛り上がっていく。


 まるで海の底から山が浮かび上がるようだった。


 次の瞬間、巨大な角が現れた。


 ぬらりと濡れた黒い角。


 続いて、無数の蛇。


 蛇。


 蛇。


 蛇。


 何十、何百という蛇が絡み合い、海水を撒き散らしながら空へ伸びる。鱗は月光を鈍く返し、口から白い蒸気を吐いていた。


「ひっ……!」


 誰かが腰を抜かした。


 そして最後に現れたのは、巨大な顔だった。


 人に似ている。しかし人ではない。焼け爛れた岩のような肌。深淵みたいに暗い目。口が開くたび、硫黄の臭いが風に混じった。


 テュポン。


 神々すら恐れた怪物。


 その巨体が海から現れた瞬間、空の星が隠れた。


 ネレウスは足が震えるのを感じた。逃げろ、と本能が叫ぶ。だが目を逸らせなかった。


 怪物の目が村を見下ろしていた。


「人間」


 声は雷鳴のようだった。


 空気が震え、耳の奥が痛む。


「ゼウスはどこだ」


 村人たちは泣きながら地面へ額を擦りつけた。


「し、知りません……!」


「お許しを……!」


 テュポンの蛇たちが笑うように hiss hiss と鳴いた。その音は湿っていて、生臭かった。


「神はいない」


 テュポンが低く呟く。


「どこにもいない」


 その声には怒りより、深い疲れが滲んでいた。


 ネレウスは思わず顔を上げた。


 怪物の巨大な瞳がこちらを見る。


「お前」


 ネレウスの喉が凍りつく。


「なぜ逃げぬ」


「……逃げても無駄だからだ」


 声が掠れた。


 テュポンはしばらく黙った。


 潮風が吹き荒れる。蛇たちの舌が揺れ、空気を舐める音がした。


「名は」


「ネレウス」


「人間にしては良い目をしている」


 テュポンの口元がわずかに歪む。それが笑みだと気づくまで時間がかかった。


「神を恐れていない目だ」


「神なんか信じてない」


 言った瞬間、村人たちが悲鳴を上げた。


「やめろ!」


「罰が当たる!」


 だがネレウスは止まらなかった。


「海が荒れても神は助けない。飢えても助けない。父親が死んだ時も、誰も来なかった」


 冷たい風で目が痛む。しかし涙ではなかった。


「だから信じない」


 テュポンは黙って聞いていた。


 やがて低く笑う。


 その笑い声は地鳴りみたいだった。


「そうか」


 怪物の瞳が夜空へ向く。


「人間も同じか」


「同じ?」


「捨てられた者だ」


 ネレウスは息を止めた。


 海の臭いが濃くなる。波が砕ける。遠くで雷が光った。


 テュポンの身体には無数の傷があった。焼け焦げ、裂け、古い雷の痕が刻まれている。


 ゼウスと戦った傷だ。


「お前、神々を憎んでるのか」


 ネレウスが聞くと、テュポンは静かに目を閉じた。


「憎んでいた」


 その声は不思議なほど穏やかだった。


「だが長く生きすぎた。憎しみは腐る」


 蛇たちがざわめく。


「今はただ、終わりたい」


 ネレウスは胸が締めつけられた。


 目の前にいるのは怪物のはずだった。神話に語られる災厄。世界を壊す化け物。


 なのに。


 その声は、ひどく孤独だった。


 その時、空が裂けた。


 青白い雷光。


 轟音。


 村人たちが絶叫する。


「ゼウスだ!!」


 雲の中に巨大な光が走る。空そのものが怒っているようだった。


 テュポンの蛇たちが一斉に牙を剥く。


 怪物の瞳に、再び怒りが灯った。


「来たか」


 雷鳴が落ちる。


 海が爆発した。


 熱風が吹き荒れ、ネレウスは地面へ叩きつけられる。耳が潰れそうな轟音の中、テュポンが咆哮した。


 空と海が震える。


 神と怪物の戦いが始まる。


 その光景を、ネレウスは砂に爪を立てながら見上げていた。


 恐ろしいのに、美しかった。


 黒い海。


 白い雷。


 夜を埋める咆哮。


 潮と血と焦げた臭い。


 世界が壊れる音。


 そして彼は、生まれて初めて願った。


 どうか神ではなく、あの孤独な怪物が勝ってほしい、と。




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