『神々の座を噛み砕く者』
オリュンポスの頂が、まるで熟しすぎた果実のように揺れていた。
天を衝く神々の座。かつて均整と調和を誇った大理石の宮殿は、今や恐怖という名の目に見えない毒に侵され、音を立ててきしみ、震えている。
その揺らぎの中心に、俺はいた。
テュポン。神々が忌むべき名。ガイアの血の涙から生まれ、奈落の底で濁った情念の乳を吸って育った怪物の王。
「おい、隠れるなよ、ゼウス!」
俺の喉が鳴る。それは一本の喉ではない。百の蛇の頭が、それぞれに異なる狂気と殺意を宿して、一斉に咆哮を上げていた。ある頭は獅子の如く吼え、ある頭は怒狂った牡牛のように唸り、またある頭は豹の鋭い悲鳴をあげる。それらが重なり合い、巨大な不協和音となってオリュンポスの天蓋を殴りつけていた。
空気が、焦げ付いた肉と硫黄の臭いで満ちていく。
俺の目に見える世界は、常に沸騰している。神々が「美しい」と称える青空など、俺にとっては目を灼く退屈な光にすぎない。世界はもっと赤く、もっと黒く、混沌に濡れているべきなのだ。
肌を刺すのは、自らの体から噴き出す溶岩の熱。そして、数多の蛇の鱗が擦れ合う、不快で、しかし酷く愛おしい摩擦の痛み。触れるものすべてを圧し潰し、消し去りたいという衝動が、指先から、爪の先から、絶え間なく溢れ出ていた。
「見苦しいな。全知全能の王が、ただの嵐に怯えて雲の裏で震えているのか? お前が築いたこの小綺麗なおもちゃの箱を、俺が一つ残らず噛み砕いてやる!」
俺が腕を振るうと、太古の巨岩が容易く引き剥がされ、神殿の柱を打ち砕いた。大理石が砕け散る乾いた、しかし重苦しい音が鼓膜を震わせる。その破片が頬をかすめ、血が流れた。熱い。自分の血でありながら、それは他者の命を蝕む酸のように饐えた匂いがした。
恐怖。神々は今、それを味わっているはずだ。
その感情の味が、空気を通じて俺の舌に伝わってくる。ピリピリとした、酸っぱくて、ひどく臆病な味だ。かつてティターンの一族を奈落に突き落とし、勝利の美酒に酔いしれていた奴らが、今はただの虫ケラのように右往左往している。その絶望の匂いこそが、俺の飢えた内臓を満たす唯一の馳走だった。
「おのれ、不浄なる這うものめ……!」
雲を割って、ようやく声が響いた。
雷霆を手に、黄金の鎧をまとったゼウスが姿を現す。その瞳には、世界の支配者としての矜持と、それを覆い隠しきれない色濃い焦燥が宿っていた。
「やっと顔を出したか、偽りの王よ!」
俺は笑った。百の頭が同時に、臓物をぶちまけるような濁った笑声をあげる。
「その眩しい光が、ずっと気に食わなかったんだ。お前たちの光は、地底で這いずり回る俺たちの痛みを、何一つ照らしはしなかった。お前たちが天上で甘いネクタル(神酒)をすすっている間、俺たちが何を啜っていたか知っているか? 泥だ、暗黒だ、そしてお前たちへの呪いだ!」
ゼウスの手から、一筋の雷光が放たれた。
激しい閃光が視界を白く染め上げる。直後、凄まじい衝撃が俺の胸を貫いた。
ドォン、という、世界の終わりを告げるような轟音が脳髄を揺さぶる。
肉が焦げる悪臭。パチパチと音を立てて、俺の皮膚が、鱗が、炭化していく。激痛が全身の神経を暴風のように駆け抜けた。
「ぐ、おおおおおっ!」
だが、その痛みこそが、俺の肉体に眠るガイアの憎悪を呼び覚ます。
痛い? 違う、これは熱いだ。熱が、俺をさらに巨大に、さらに凶暴にする。
口の中に広がるのは、己の焼けた肉から滴る鉄の味。それをペロリと舐めとり、俺はさらに一歩、前へと踏み出した。
「ぬるいぞ、ゼウス! 神々の雷とは、この程度のものか! タルタロスの底で受けてきた業火に比べれば、お前の雷など、肌をなでる春の風にも劣るわ!」
俺は百の蛇の頭を伸ばし、ゼウスを取り囲むように天空へと蠢かせた。
視界の端で、神々が次々と動物の姿に変えてエジプトの方角へと逃げ惑うのが見えた。ある者は牝牛に、ある者はいビスに。滑稽極まりない。彼らが誇っていた「神聖さ」など、圧倒的な暴力を前にすれば、一瞬で剥ぎ取られる薄皮一枚の飾りにすぎないのだ。
「見ろ、ゼウス。お前の家族が、お前の臣下が、お前を置いて逃げていくぞ。これが、お前が調和の名の下に築いた世界の正体だ。誰も、お前を愛してなどいない。ただ、その雷が怖かっただけだ!」
「黙れ、怪物の王よ! 秩序は混沌に屈せぬ!」
ゼウスの声が、怒りで震えている。彼のプライドが、俺の言葉によってずたずたに引き裂かれていくのが分かった。その「心の軋む音」が、壊れた竪琴の音のようで、俺の心を酷く高揚させた。
俺は地を蹴った。巨躯が空を舞い、ゼウスへと肉薄する。
俺の巨大な、黒い毛に覆われた手が、ゼウスの黄金の身体を掴んだ。
神の肉体は、驚くほど滑らかで、そして冷たかった。まるで、命の通っていない彫刻のようだ。
「捕まえたぞ、光の王よ」
俺の蛇たちが、ゼウスの四肢に絡みつく。牙が彼の肉に食い込み、神の血液である聖液が噴き出した。それは黄金色の、しかしどこか無機質な、花の蜜のような甘ったるい匂いがした。その匂いを嗅いだ瞬間、俺の胃袋が、強烈な拒絶反応を起こして痙攣した。吐き気がするほどに、綺麗すぎる。
「その傲慢な手足を、二度と動かせぬようにしてやる!」
俺は爪を立て、ゼウスの手足から腱を引き抜いた。
ブチ、ブチ、という、肉と繊維が断裂する嫌な感触が、俺の指先を通じて直接脳に伝わる。
ゼウスが、これまで聞いたこともないような悲鳴をあげた。天界の支配者ではなく、ただの生贄の獣のような、惨めな絶命の叫び。
その瞬間、俺の胸を満たしたのは、至上の歓喜――ではなかった。
妙な、空虚さだった。
引き抜いた腱をオリュンポスの大地へ投げ捨てる。ペシャリと、湿った音がしてそれは転がった。
手足を失い、地面に転がったゼウスを見下ろす。彼は泥にまみれ、かつての輝きを失っていた。
「……なんだ、これが世界の王か。これが、俺たちを暗闇に閉じ込めていた光の正体か」
もっと満たされると思った。この綺麗な世界を、すべて泥と血で汚せば、俺の胸の奥にある、あの凍えるような寂しさは消えるのだと信じていた。
だが、手のひらに残るのは、ゼウスの冷たい聖液の感触と、ただただ生臭い空気だけだ。
「おい、ゼウス。立てよ。もっと俺を呪え。もっと怒れ。お前がそんな風に無力に転がっていては、俺のこの、行き場のない怒りはどこへぶつければいい?」
ゼウスは答えず、ただ浅い呼吸を繰り返している。その瞳に宿る、激しい憎悪の光だけが、辛うじて彼がまだ生きていることを示していた。
その時、背後から、微かな、しかし酷く鋭い気配を感じた。
風の鳴る音が変わった。
振り返る。そこには、ヘルメスと、そしてもう一人の影――パンの姿があった。
彼らは俺の隙を突き、地面に落ちていたゼウスの腱を、素早い動きで拾い上げようとしていた。
「小癪な羽虫どもが!」
俺が吠え、地響きを立てて突進する。
だが、彼らは風のように身軽だった。俺の巨体が風を切る音の裏で、彼らはゼウスの腱を奪い返し、瞬く間にその肉体へと繋ぎ合わせる。
一瞬の静寂。
そして、世界が、真に鳴動した。
「テュポン――!!」
蘇ったゼウスが、全霊の力を込めて叫んだ。
その手に握られた雷霆は、先ほどまでのものとは次元が違っていた。天全体が、巨大な一光の矢と化し、俺の視界のすべてを、世界そのものを、真っ白な、凄まじい熱量で塗りつぶしていく。
あぁ、これだ。
この熱だ。この、俺を心の底から焼き尽くそうとする、絶対的な拒絶。
俺は百の頭を天に掲げ、その光を真っ向から迎え撃つために、裂けんばかりの口を開いた。
「そうだ、ゼウス! それでなくては、面白くない……! 俺を殺してみせろ! お前のその光で、この底なしの闇を、焼き尽くしてみせろ!」
激突の瞬間、音は消えた。
あまりの衝撃に、世界からすべての感覚が吹き飛んだ。
ただ、俺の肉体が、魂が、オリュンポスの高みから、遥か彼方の、あの懐かしい、冷たくて暗い奈落の底へと、猛烈な速度で落ちていくのだけを、俺の感情は確かに捉えていた。




