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『メティス ――神々の王が飲み込んだ、たったひとつの愛』 知恵の女神メティスとゼウスの愛と裏切り

『メティス ――神々の王が飲み込んだ、たったひとつの愛』


知恵の女神メティスとゼウスの愛と裏切り


 世界がまだ若く、星々が神々の吐息によって輝いていた時代。


 オリュンポスの頂には、黄金の宮殿がそびえていた。


 その玉座に座る男の名は、ゼウス。


 雷霆を操り、天を支配する神々の王。


 だが、その夜、彼は震えていた。


「……メティス」


 雷鳴が遠くで轟く。


「なぜ、お前はそんなに静かなんだ?」


 月明かりの差す寝台の傍らで、一人の女神が微笑んでいた。


 銀色の髪は夜の川のように流れ、瞳には、まだ生まれていない未来の星々が映っている。


 知恵の女神、メティス。


「あなたが恐れているからよ」


「俺が? 何を恐れるというのだ」


「あなた自身の未来を」


 ゼウスの指先に青白い稲妻が走った。


「黙れ」


「……図星なのね」


 メティスは悲しげに笑った。


「ねえ、ゼウス。私たち、いつからこんなふうになったのかしら」


     *


 かつて、ゼウスは王ではなかった。


 父クロノスに追われ、運命に抗う若き神だった。


 その父は、自分の子に王座を奪われるという予言を恐れ、生まれた子供を次々に飲み込んだ。


 ゼウスだけが母レアによって救われた。


 そして、成長した彼の前に現れたのがメティスだった。


「父を倒したいの?」


 霧に包まれた泉のほとり。


 若きゼウスは、見知らぬ女神を睨んだ。


「当然だ」


「力だけでは勝てないわ」


「俺には雷がある!」


「あなたのお父様には、時間がある」


「……何だと?」


 メティスは泉に小石を投げた。


 波紋が幾重にも広がる。


「強い者が勝つとは限らない。勝つべき瞬間を知る者が、強い者を倒すの」


「では、どうすればいい?」


「私の知恵を貸してあげる」


「なぜ俺に?」


 彼女は少しだけ頬を赤らめた。


「……あなたが、誰かを救うために怒っているから」


 ゼウスは目を見開いた。


「俺は王になりたいだけだ」


「嘘ね」


「何?」


「あなたは兄弟たちを取り戻したいのでしょう?」


 その言葉に、ゼウスは黙った。


 メティスは彼の手を取った。


「一緒に戦いましょう」


 その手は、不思議なほど温かかった。


     *


 メティスの策によって、クロノスは飲み込んだ子供たちを吐き出した。


 そして長い戦いの果てに、ゼウスは父を倒した。


 勝利の夜。


 天には数え切れない星が輝き、神々の宴が開かれた。


「メティス!」


 黄金の杯を手に、ゼウスが彼女へ駆け寄った。


「俺たちは勝った!」


「ええ」


「お前のおかげだ!」


「あなたが勇敢だったからよ」


「違う!」


 ゼウスは彼女を抱きしめた。


「お前がいなければ、俺は何者にもなれなかった!」


 メティスは彼の胸に顔を埋めた。


「……なら、約束して」


「何でも言え」


「王になっても、恐れに負けないで」


「当然だ」


「力よりも、知恵を信じて」


「ああ」


「そして……」


 彼女は顔を上げた。


「私を、敵だと思わないで」


 ゼウスは笑った。


「馬鹿なことを言うな。お前は俺の愛する女だ」


 その夜、二人は永遠を誓った。


 しかし。


 神々にとって、永遠とは必ずしも幸福を意味しない。


     *


 幾年もの時が過ぎた。


 ある日、大地の女神ガイアと天空神ウラノスが、ゼウスに恐ろしい予言を告げた。


『メティスはまず、父に匹敵する知恵と力を持つ娘を産む』


『その後に生まれる息子は、お前を凌ぎ、神々の王座を奪うであろう』


 ゼウスは息を呑んだ。


「……俺を、倒す?」


 ガイアは静かに頷いた。


「お前の父クロノスがそうであったように」


「俺は父とは違う!」


「ならば、なぜ震えている?」


 ゼウスは答えられなかった。


 夜になると、眠れなくなった。


 玉座に座っていても、背後に誰かが立っている気がした。


 メティスが微笑むたび、その腹に宿る命が、自分を滅ぼす刃に思えた。


 そして、ある晩。


 ゼウスは彼女に尋ねた。


「メティス。お前は俺を愛しているか?」


「もちろんよ」


「ならば、俺を裏切らないな?」


「……どうしたの?」


「答えろ!」


 宮殿の柱が雷鳴に震えた。


 メティスはゆっくり立ち上がった。


「あなた、予言を聞いたのね」


「知っていたのか!」


「ええ」


「なぜ黙っていた!」


「あなたが、こうなるとわかっていたから」


 ゼウスは拳を握りしめた。


「俺の息子が、俺を殺すのか?」


「未来は、まだ決まっていないわ」


「予言は絶対だ!」


「いいえ!」


 初めて、メティスが声を荒らげた。


「未来を恐れる者が、その未来を自ら作り出すことだってある!」


「綺麗事を!」


「ゼウス、聞いて!」


 彼女は彼の手を掴んだ。


「あなたのお父様は、子供を恐れて飲み込んだ。あなたはそれを憎んでいたでしょう?」


「……黙れ」


「同じことをするつもりなの?」


「黙れ!」


 稲妻が壁を裂いた。


 メティスの頬を、一筋の涙が伝った。


「……あなたは、もう私を信じていないのね」


     *


 翌朝。


 オリュンポスの庭には、白い百合が咲いていた。


 メティスは泉の傍らに座り、自分の腹を撫でていた。


「小さな子……」


 風が彼女の髪を揺らす。


「あなたは、どんな世界を見るのかしら」


 背後から声がした。


「メティス」


 ゼウスだった。


 彼は穏やかに微笑んでいた。


「昨日は悪かった」


「……ゼウス?」


「俺は愚かだった。お前を疑うなど」


 メティスの表情が和らいだ。


「本当に?」


「ああ。もう争いたくない」


 ゼウスは彼女の隣に腰を下ろした。


「昔のように、遊ばないか?」


「遊ぶ?」


「お前はどんな姿にも変われるだろう?」


「ええ」


「ならば、見せてくれ。お前の知恵と技を」


 メティスは笑った。


「相変わらず、子供みたいね」


 彼女は白い鳥になった。


 次に黄金の鹿。


 そして銀色の魚。


 ゼウスは歓声を上げた。


「見事だ!」


「まだまだよ」


「では、もっと小さくなれるか?」


「どれくらい?」


「俺の掌に乗るほど」


 メティスは小さな蝶になった。


「もっとだ」


 蝶は蜜蜂になった。


「もっと」


 蜜蜂は一粒の光になった。


「これならどう?」


 光が囁いた。


 ゼウスは微笑んだ。


「美しいよ、メティス」


 そして。


 彼はその光を、飲み込んだ。


     *


 世界が暗転した。


「……ゼウス?」


 メティスの声が響く。


「何を……したの?」


 返事はなかった。


 周囲には、温かな肉の壁。


 出口のない闇。


「ゼウス!」


 彼女は叫んだ。


「出して! お願い!」


 外では、ゼウスが荒い息をついていた。


「これでいい……」


 彼は震える手で口元を押さえた。


「これで、俺の王座は守られる……」


「ゼウス!」


 腹の奥から声が響く。


「私を、信じてくれなかったの?」


 ゼウスは目を閉じた。


「許せ、メティス」


「許せ?」


 女神の声が震えた。


「私を愛していると言ったのは、嘘だったの?」


「違う!」


「ならば、なぜ!」


「俺は……怖かったんだ!」


 ゼウスは膝をついた。


「お前を失うことも! 王座を奪われることも! すべてが!」


 長い沈黙が流れた。


 やがて、メティスは静かに言った。


「……かわいそうな人」


「何?」


「世界を支配しているのに、自分の恐怖ひとつ支配できないのね」


 その言葉は、どんな雷より深くゼウスを打った。


     *


 闇の中で、メティスは泣いた。


 怒りではなかった。


 悲しみだった。


 かつて泉のほとりで出会った、勇敢な若者。


 兄弟を救うため、父に立ち向かった神。


 その彼が今、父と同じ過ちを犯した。


「……お母様?」


 小さな声がした。


 メティスは腹に手を当てた。


「あなた……」


「ここは、暗いの?」


「ええ」


「怖い?」


 メティスは涙を拭った。


「いいえ。あなたがいるから」


「お父様は?」


 彼女は答えに迷った。


 そして、そっと微笑んだ。


「……迷っているのよ」


「助けてあげたい」


「そうね」


 メティスは両手を広げた。


 闇の中に、銀色の光が生まれる。


 彼女はその光を糸に変え、鎧を編み始めた。


 一筋ごとに、知恵を込めた。


 一枚ごとに、勇気を込めた。


「あなたには、誰かを恐れるためではなく、誰かを守るために強くなってほしい」


「うん!」


「そして、決して忘れないで」


「何を?」


「本当に強い者は、知らないことを恐れない。自分の間違いを認められる者よ」


 闇の中で、小さな命が輝いた。


     *


 それから時が流れた。


 ゼウスは激しい頭痛に苦しむようになった。


「ぐあああっ!」


 オリュンポスが震えた。


 雷が天を裂き、海が荒れ狂う。


「陛下!」


 神々が駆け寄る。


「頭が……割れる!」


 ついに鍛冶神ヘパイストスが斧を振り上げた。


「お許しを!」


 鋭い一撃。


 閃光が走った。


 そして、ゼウスの頭から、黄金の鎧を纏った女神が現れた。


 アテナ。


 知恵と戦いの女神。


 その瞳には、母メティスの光が宿っていた。


「……父上」


 アテナは静かに言った。


「私は、あなたを倒すために生まれたのではありません」


 ゼウスは震えながら娘を見上げた。


「ならば……何のために?」


「あなたが忘れたものを、思い出させるためです」


「忘れたもの……?」


「知恵は、力に勝つことがある」


 アテナは胸に手を当てた。


「けれど、愛は、恐怖に負けてはならない」


 その声は、メティスによく似ていた。


「……メティス」


 ゼウスが呟く。


 すると、胸の奥から、懐かしい声が聞こえた。


『私はここにいるわ』


「メティス!」


『あなたの中に。あなたが耳を傾ける限り』


「許してくれ……」


 神々の王の頬を、涙が流れた。


「俺は……お前を愛していた……」


『知っているわ』


「ならば、なぜ……」


『愛していることと、傷つけないことは、同じではないから』


 ゼウスは何も言えなかった。


 ただ、空を見上げた。


 そこには、かつて二人で眺めた星々が輝いていた。


     *


 それから、ゼウスが大きな決断を下すとき、彼の胸の奥では小さな声が囁くようになったという。


『本当に、それでいいの?』


 神々は、それを王の知恵と呼んだ。


 だが、誰も知らなかった。


 その知恵が、かつて彼の手を取り、未来を共に歩こうとした女神の声であることを。


 ある夜、ゼウスは誰もいない玉座で呟いた。


「メティス……もう一度、会いたい」


 長い沈黙。


 やがて、胸の奥から声がした。


『私は、あなたのものではないわ』


 ゼウスは目を閉じた。


「……そうだな」


『でも、あなたが私の言葉を聞こうとするなら、知恵はあなたと共にある』


 窓の外を、一羽の白い鳥が横切った。


 ゼウスはその姿を、いつまでも見つめていた。


 そして初めて、追いかけようとはしなかった。


 愛とは、相手を自分の中に閉じ込めることではない。


 自分には支配できない未来を、それでも共に信じようとすることなのだ。


 神々の王がその意味を知ったとき、知恵の女神は、もう彼の隣にはいなかった。


 ただ、星々だけが静かに瞬いていた。


◇◇◇


ギリシャ神話をもとにした創作です。メティスがゼウスに飲み込まれ、アテナがゼウスの頭から誕生する伝承を基盤に、二人の愛情、恐怖、裏切り、母娘の対話などを独自に脚色しています。

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