月影の神託――ポイベ
月影の神託――ポイベ
デルポイの山には、まだ神託の声がなかった。
岩間を吹き抜ける風は、訪れる者の問いを運んでくる。けれど、答えを知る者は誰もいなかった。
ティタンの女神ポイベは、夜ごと山頂に立ち、月の光の下で人々の声に耳を澄ませていた。
「明日、私は生きて帰れるでしょうか」
「遠い海へ出た息子は、無事でしょうか」
「私の選ぶ道は、正しいのでしょうか」
問いは尽きない。けれど、未来は一つではなかった。選ぶ言葉を誤れば、人はその言葉に縛られる。ポイベは、誰かの運命を決めるような答えを与えたくなかった。
ある夜、彼女の孫アポロンが山を訪れた。若き神は、金色の弓を背負い、澄んだ瞳で彼女を見つめた。
「祖母上。ここに集まる人々の問いに、僕が答えましょう」
「未来を告げるのは、容易ではありません。言葉は、希望にも鎖にもなります」
「ならば、鎖にならぬ言葉を探します。人が自ら選ぶための、道しるべを」
ポイベは長く彼を見つめた。それから、山の奥に眠る神託の座を彼に譲った。
「では、この場所をあなたに託しましょう。答えを授けるのではなく、人が自らの心を聞くための声を」
アポロンが神託を受け継ぐと、岩間から清らかな水が湧き、山には神秘の気配が満ちた。
やがて人々はデルポイを訪れ、巫女の口を通じて神の言葉を求めるようになった。
ポイベは月の光の中で、その声に耳を傾けた。
未来を照らすのは、神託そのものではない。
その言葉を受け取り、歩き出す人の心なのだ。




