黄金の時代の夕暮れ ティタン神族
黄金の時代の夕暮れ
大地の女神ガイアが育んだ世界は、まだ若かった。
空はどこまでも青く、海は鏡のように穏やかで、山々には朝露が真珠のように輝いていた。
その世界を治めていたのは、ティタン神族の王クロノスだった。
黄金色の髪を肩まで垂らし、深い緑の刺繍が施された白い長衣をまとったクロノスは、オトリュス山の玉座に座りながら、眼下に広がる世界を見渡していた。
果樹園では林檎がたわわに実り、小麦畑は風に揺れて金色の波を作っている。
人々は争いを知らず、病も知らず、老いも知らなかった。
それは後の世に「黄金の時代」と呼ばれる平和な時代だった。
だが。
クロノスの胸には、いつも冷たい棘が刺さっていた。
予言だった。
「お前は自らの子に王座を奪われる」
かつて父ウラノスを倒した時、彼はその言葉を聞いた。
それ以来、どれほど豊かな世界を築いても心は休まらない。
その夜。
銀色の月が昇る頃。
王妃レアが静かに寝室へ入ってきた。
青い絹の衣をまとい、長い黒髪を背に流している。
彼女は優しく微笑んだ。
「あなた」
クロノスは振り返る。
「どうした」
「今日は葡萄酒を持ってきました」
銀の杯に注がれた赤い葡萄酒は甘い香りを漂わせていた。
クロノスは一口飲む。
熟した果実の味が舌に広がる。
だが心は晴れない。
レアは隣に腰掛けた。
「また予言を考えているのですね」
「……」
「あなたは世界を豊かにしたのに」
クロノスは苦く笑った。
「豊かな世界など簡単に壊れる」
レアは何も言わなかった。
窓の外では夜風がオリーブの木々を揺らしている。
遠くで梟が鳴いた。
その静けさが、かえってクロノスを不安にした。
翌朝。
宮殿の食堂には香ばしい匂いが満ちていた。
焼きたての大麦パン。
蜂蜜。
羊乳のチーズ。
無花果。
葡萄。
黄金色のオリーブ油。
ティタン神族たちは長い食卓を囲んでいた。
太陽神ヒュペリオン。
月の女神テイア。
知恵の女神フォイベ。
海流を司るオケアノス。
それぞれが談笑している。
レアは笑顔でパンをちぎった。
「今日は平和ですね」
「そうだな」
オケアノスが言う。
「海も穏やかだ」
ヒュペリオンは笑った。
「太陽もよく輝いている」
その時だった。
宮殿の奥から赤子の泣き声が響いた。
レアの腕の中には、生まれたばかりの子がいた。
美しい男児だった。
クロノスの顔が凍りつく。
予言。
王座。
滅亡。
頭の中で言葉が渦を巻く。
レアが微笑む。
「見てください。あなたに似ています」
クロノスは震える手で赤子を抱いた。
小さな指。
柔らかな頬。
温かな命。
だが。
彼の目には敵にしか見えなかった。
レアが息を呑む。
「まさか……」
クロノスは立ち上がった。
「予言は許さない」
「やめて!」
レアの悲鳴が響く。
しかしクロノスは耳を貸さなかった。
赤子は泣いている。
小さな命は父を信じているようだった。
それでもクロノスは飲み込んだ。
静寂。
レアは崩れ落ちた。
食堂にいた神々も言葉を失う。
誰も王に逆らえなかった。
その夜。
レアは一人で庭園を歩いていた。
白い百合が月明かりに照らされている。
涙で視界が滲んでいた。
そこへフォイベが現れた。
銀色の衣が風に揺れる。
「レア」
「フォイベ……」
「泣いているのね」
レアは顔を覆った。
「母親なのに守れなかった」
フォイベはそっと肩に手を置く。
「あなたは悪くない」
「でも」
「未来はまだ決まっていません」
レアは空を見上げた。
無数の星が輝いている。
遥かな夜空。
その光の中に、希望が残っているような気がした。
時は流れる。
クロノスは次々に生まれる子どもたちを飲み込んだ。
ヘスティア。
デメテル。
ヘラ。
ハデス。
ポセイドン。
宮殿から笑い声は消えていった。
レアの胸だけが痛み続ける。
そしてある冬の夜。
冷たい北風が吹き荒れる中。
レアは六番目の子を産んだ。
男児だった。
産声は力強く、雷鳴のように響いた。
レアは赤子を抱きしめる。
小さな体は温かい。
乳の香りがする。
その瞬間だった。
彼女の胸に決意が生まれた。
「この子だけは守る」
震える声で呟く。
「絶対に」
窓の外。
星々が瞬いた。
ガイアは静かに微笑み。
夜の女神ニュクスは闇の帳を広げる。
運命の歯車が動き始めていた。
黄金の時代の夕暮れは終わろうとしていた。
だが同時に。
新しい神話の夜明けもまた始まろうとしていたのである。




