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『美しき誕生と、嵐の予兆』

『美しき誕生と、嵐の予兆』


天の支配者ウラノスが去り、世界は新たな王クロノスの時代を迎えていた。

だが、あの大惨劇の夜に父が遺した「お前も己の子供に王座を追われる」という呪いの予言は、クロノスの心をじわじわと蝕み続けている。


そんな緊迫した地上の情勢とは遥かに離れた、どこまでも青く澄んだキプロス島の海岸。

そこには、かつてウラノスから切り落とされ、海へと落ちた体の一部が、何年も、何年も波に揉まれ続けた果ての光景があった。


波打ち際では、見たこともないほど純白で、きめ細やかな海のアプロスがこんもりと湧き上がっている。その泡は潮風に吹かれて、まるで生き物のように優しく、神秘的な脈動を繰り返していた。周囲には、どこか甘く、脳を麻痺させるような濃厚な花の香りが漂っている。


やがて、その巨大な泡が、光を浴びて、パチンと音を立てて弾けた。


「――ああ、ここはどこかしら」


泡の中から現れたのは、息を呑むほどに美しい、一人の全裸の女神だった。

彼女の髪は、まるで黄金の糸を編み込んだように眩しく輝き、湿った潮風に揺れて豊かな曲線を描いている。その肌は真珠のように滑らかで、ほんのりと薔薇色の血色が透けていた。彼女がそっと目を開けると、そこには世界のすべてを誘惑するかのような、妖艶で、それでいて無垢な瞳があった。

美の女神、アフロディーテの誕生である。


彼女が困惑したように周囲を見渡すと、どこからともなく、うっすらと透き通るような薄衣をまとった季節の女神たち(ホーライ)が、嬉々として駆け寄ってきた。彼女たちのまとう衣は、春の若葉の匂いや、夏の太陽に熱せられた果実の匂いを放っている。


「まあ、なんて美しいお方! さあ、こちらへ。世界で最も美しい女神にふさわしい仕度を整えましょう」


「ええ、ありがとう。でも、私には何が起きているのかしら。胸の奥が、なんだかとても、甘やかに疼くの」


アフロディーテは、鈴を転がすような声で微笑んだ。

女神たちは彼女の濡れた身体を優しく拭うと、神々の世界でも最高級とされる、金糸で刺繍が施された贅沢な衣を彼女の身体にまとわせた。それは、身につけるだけで、見る者すべての理性を狂わせる「魔法の帯」が仕込まれた特別なドレスだった。


アフロディーテが初めて大地に一歩を踏み出す。彼女の繊細な足首が柔らかな砂浜に触れた瞬間、彼女が歩く跡から、色鮮やかな薔薇の花が次々と咲き乱れ、あたり一帯に甘美な香りが爆発するように広がった。世界が、彼女の美しさに平伏していた。


---


一方、オリュンポスの宮殿では、まったく異なる、重苦しい空気が漂っていた。

新たな時の支配者となったクロノスは、姉であり妻でもある女神レアとともに、豪華な玉座に腰掛けていた。

円卓の上には、王の権力を象徴するような、じっくりと炙られた極上の山羊の肉や、高価なスパイスをふんだんに使った煮込み料理、そして黄金の器に盛られた瑞々しい葡萄が並んでいる。しかし、クロノスはその食事に一切手を付けようとはしなかった。


彼の心は、恐怖と猜疑心だけで満たされている。身にまとうのは、王の威厳を示す重厚な暗紫色の長衣ペプロスだが、その襟元を弄る彼の指先は、小刻みに震えていた。


「クロノス、あなた、また何も召し上がらないのね。せっかくあなたが好きな、香ばしく焼いたお肉を用意させましたのに」


レアは心配そうに眉をひそめ、夫の顔を覗き込んだ。彼女は今、お腹に新たな命を宿しており、その豊かな母性を象徴するように、ふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫でていた。


「……飯など喉を通るか! レア、お前、また腹が大きくなっているな。その腹の中にいる赤ん坊は、いつ私を裏切る? いつ私の首を狙うのだ!」


クロノスは突然、玉座を激しく蹴立てて立ち上がった。彼の瞳は血走り、鋭い怒気と恐怖が入り混じった、狂気の光を放っている。部屋の空気が一瞬で凍りつき、肉の焼ける香ばしい匂いさえも、焦げ付いた不快な臭いへと変わったように感じられた。


「そんな、何を言うのです! この子は私たちの愛しい子供ですよ? どうしてそんな恐ろしいことを考えるのですか。父ウラノス様の呪言など、ただの負け惜しみではありませんか!」


レアは立ち上がり、夫の逞しい腕に縋り付いた。彼女の着ている柔らかな白い衣が、クロノスの激しい動きに揺れる。


「黙れ! あ老いぼれの呪いは本物だ。現に、私は父を裏切ってこの座を奪った! ならば、我が子も同じことをするに決まっている。因果は巡るのだ!」


クロノスは、レアの手を荒々しく振り払った。彼の胸の奥で、ドクドクと心臓が早鐘を打つ。かつて父を倒したときの、あの生暖かい血の感触と、耳を突き刺した叫び声が、今も脳裏に焼き付いて離れないのだ。


「私は絶対に、あの二の舞にはならん。生まれてくる子供どもは、すべて私が処理する」


「処理、だなんて……嘘でしょう? あなた、まさか我が子を殺すというのですか!?」


レアの顔から血の気が引き、絶望の涙が頬を伝った。彼女の手が、守るように強くお腹に当てられる。


「殺しはしない。だが、私の目の届かぬ場所へ行くことも許さん。――私の身体の一部として、永遠に閉じ込めておくのだ」


クロノスは冷酷に言い放ち、ぎらついた目でレアのお腹をにらみつけた。彼の背後には、まるで迫り来る嵐のような、巨大で暗い影が広がっていく。


---


数ヶ月後、レアは一人、薄暗い産室で激しい陣痛に耐えていた。

部屋には、血の匂いと、冷や汗の酸っぱい匂いが充満している。彼女はベッドのシーツを涙で濡らしながら、ついに最初の子、ヘスティアを産み落とした。


「ああ、なんて可愛い女の子……。私の、愛しい赤ちゃん……」


レアは、まだ産着にも包まれていない、小さく温かい我が子を愛おしそうに抱きしめた。赤ん坊は、か細い声で「オギャア、オギャア」と必死に泣いている。その温もりが、レアの疲れ切った心に束の間の安らぎを与えた。


しかし、その幸福は一瞬で打ち砕かれる。

足音もなく部屋に現れたクロノスが、レアの腕から、容赦なく赤ん坊をもぎ取ったのだ。


「ああっ! あなた、何をするのです! 返してください、私の赤ちゃんを!」


レアは叫び、ベッドから這い出そうとしたが、出産直後の身体は言うことを聞かない。


「フン、これが私の王座を脅かす芽か。ならば、摘んでくれる」


クロノスは、泣き叫ぶ我が子を見下ろし、邪悪な笑みを浮かべた。そして、人間の常識では考えられないほどに、その巨大なあぎとをガッと大きく開いた。彼の口内は、光の届かない漆黒の闇のように不気味に広がっている。


「やめてえええええっ!!」


レアの悲痛な叫びが響く中、クロノスはヘスティアを、生きたままゴクリと丸呑みにしてしまった。

赤ん坊が喉を通っていく生々しい感覚が、クロノスの喉元を大きく上下させる。彼は満足げに口元を拭うと、腹をさすった。


「これでよし。私の腹の中であれば、謀反を起こすこともできまい」


「ああ……なんということ……。あなたは人の心を持たない怪物になってしまったのね……」


レアはベッドに突っ伏し、激しく慟哭した。我が子を噛み砕かれず、生きたまま呑み込まれたという事実が、かえって彼女の胸を狂おしいほどの苦痛で満たす。お腹の奥底から、自分の子供が泣いているような幻聴さえ聞こえてくるようだった。


しかし、クロノスの暴挙は、これで終わりではなかった。

その後も、レアが子供を産むたびに、クロノスはその場に現れ、生まれたばかりの我が子を次々と呑み込んでいった。デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドン。美しく、輝かしい力を持った神々が、産声を上げると同時に、父の暗い胎内へと消えていく。


クロノスが子供を呑み込むたびに、宮殿の空気はどんどん重苦しく、澱んでいった。食事の席でも、クロノスは常に自分の腹を気にし、時折そこから聞こえる神々の唸り声に怯えるように、大麦のパンを無理やり胃に流し込んでいた。彼の贅沢な紫の衣は、今や恐怖の汗でじっとりと湿っている。


---


そして、ついに六人目の子供が、レアの胎内で臨月を迎えようとしていた。

レアの心には、悲しみを超えた、激しい怒りと決意の炎が燃え盛っていた。かつて、母ガイアがウラノスに対して抱いたあの復讐心と、全く同じ熱いマグマが、彼女の身体を突き動かしていた。


「もう絶対に、この子だけは渡さない。あの残虐な父親の犠牲にはさせないわ」


レアは、寝静まった宮殿を抜け出し、冷たい夜風が吹く森の奥へと向かった。

彼女が向かったのは、母なる大地ガイアがひっそりと佇む、岩だらけの険しい谷だった。そこには、長い年月の間にウラノスの血を吸い、禍々しくも力強い生命力を秘めた黒い土が広がっている。


闇の中で、ガイアがゆっくりと姿を現した。彼女の草木染めの緑の長衣は、今や色褪せ、深い苔のような哀愁を帯びている。だが、その瞳には、すべてを見通すような冷徹な知恵が宿っていた。


「おいで、レア。お前の苦しみは、すべて私の肌を通じて伝わっていましたよ」


「お母様……! お助けください。クロノスは狂ってしまいました。私の子供たちを、すべてお腹の中に隠してしまったのです。このままでは、今お腹にいるこの子も……!」


レアはガイアの足元に崩れ落ち、その泥に汚れた裾に縋り付いて泣いた。


「因果は巡るものです。かつてウラノスが我が子を奈落に落としたように、今度はクロノスが我が子を体内に閉じ込める。天の王というものは、皆同じ病に取り憑かれるのです」


ガイアは静かに首を振り、レアの豊かな髪を優しく撫でた。その手のひらは、大地の底のような不思議な温もりを持っていた。


「ですが、ここでその鎖を断ち切らねばなりません。レア、この地に新しき光を産み落としなさい。その子は、父を超え、世界を統べる真の王となるでしょう」


「クロノスを欺くには、どうすればよいのですか? 彼は私の出産を、片時も見逃そうとはしないでしょう」


レアが涙を拭い、尋ねると、ガイアは足元に転がっている、人間の赤ん坊ほどの大きさの、ずっしりと重い「石」を指差した。その石は、大地の圧力を受けて硬く、冷たく、滑らかに削られている。


「この石を、産着で包み、我が子だと言ってクロノスに渡すのです。恐怖に目を曇らせたあの男なら、違いに気づかないでしょう。本物の赤ん坊は、私がクレタ島の深い洞窟へと隠し、妖精たちに育てさせます」


「石を……我が子の代わりに……」


レアはその冷たい石を抱きかかえ、胸に強く押し当てた。石からは、大地の冷気と、かすかな硫黄の匂いがした。だが、それは彼女にとって、我が子を救うための唯一の希望の塊だった。


「分かりました、お母様。この命に代えても、クロノスを騙してみせます」


レアは立ち上がり、暗闇の向こうにあるオリュンポスの宮殿を見つめた。

夜空には、かつてウラノスが残した星々が冷たく輝いている。だがその輝きは、間もなく始まる、天界を揺るがす大戦争の予兆を孕んでいるかのように、不気味に明滅していた。新たな時代の王――ゼウスの誕生の足音が、静かに、しかし確実に近づいていた。



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