ウラノス 第七話 青銅の雨と星喰いの羊
ウラノス 第七話 青銅の雨と星喰いの羊
夜明け前の空は、割れた葡萄酒のような紫色だった。山脈の向こうで雷が低く唸り、湿った風が海塩の匂いを運んでくる。神々の王ウラノスは、黒曜石を砕いて織ったような長衣を肩にまとい、白銀の帯をゆるく締めながら、天の神殿の回廊を歩いていた。足元では青い火皿が揺れ、油に混じった没薬の香りが鼻を刺す。
彼の頬は冷えていたが、胸の奥だけが妙に熱かった。
今宵、星が一つ消える。
それは昨夜、運命を司るモイライたちが告げたことだった。
「羊が喰うのです」
老婆のようなしわ声でクロトが言った。
「羊?」
ウラノスは眉を寄せた。
「星を?」
「ええ、空を歩く黒い羊です」
ラケシスが糸巻きを回しながら続ける。
「止めねば、北天の七星が消えます」
その言葉を思い出し、ウラノスは唇を噛んだ。星は彼の肉体の一部だ。空に浮かぶ無数の光は、彼の血であり骨であり夢でもある。
星が喰われるなど、ありえない。
回廊の先で、甲冑の鳴る音がした。
「父上」
現れたのは次男コイオスだった。灰色の短衣の上に青銅の胸当てを着け、濡れた金髪を後ろで束ねている。若い神特有の熱気があり、朝の冷気の中でも彼の身体からは汗と鉄の匂いが立っていた。
「兵を集めました。北天門へ向かいますか」
「行く」
短く答えると、ウラノスは歩き出した。
神殿を出ると、空の庭園に霧が漂っていた。巨大な月桂樹の葉から雫が落ち、石畳を濡らしている。遠くでは白い孔雀が羽を震わせていた。
「父上」
歩きながらコイオスが低く言った。
「もし星が消えたら、空はどうなるのです」
「知らぬ」
ウラノスは答えた。
「だが、欠ければ世界は歪む。海は荒れ、季節は狂い、人間は夜を失う」
「人間など放っておけばよいでしょう」
若い神らしい乱暴な言葉だった。
ウラノスは立ち止まり、息子を見た。
「お前は地上を見たことがないな」
「戦の時にしか」
「パンを焼く匂いを知っているか」
コイオスは黙った。
「冬の朝、羊乳を煮る湯気を見たことは」
「……ありません」
「ならば、お前はまだ空の重さを知らぬ」
風が吹き、ウラノスの長衣がはためいた。群青色の裾には小さな星々が縫い込まれ、動くたびに微かに銀光を散らす。
二柱が北天門へ辿り着いた頃、空はすっかり暗雲に覆われていた。
神兵たちは槍を構え、不安げに空を見上げている。
「来ます!」
誰かが叫んだ。
その瞬間だった。
雲の裂け目から、巨大な黒羊が姿を現した。
山ほどもある巨体。角はねじ曲がった黒鉄のようで、瞳だけが不気味な金色に燃えている。腐った草と血の臭いが風に乗って広がり、兵たちが顔をしかめた。
「なんだ、あれは……」
コイオスが呟く。
羊は空を踏みしめるたび、鈍い鐘のような音を響かせた。
そして。
ぱくり、と。
北天の星を呑み込んだ。
夜空が揺れた。
海鳴りのような轟音が天地を震わせ、兵たちが膝をつく。
「やめろ!」
ウラノスの怒声が空を裂いた。
彼は右手を掲げた。掌から青白い雷光がほとばしり、何百本もの稲妻となって黒羊へ突き刺さる。
焼けた毛の臭いが広がった。
だが羊は笑うように鳴いた。
「メェェェェ」
その声は耳ではなく、頭蓋の内側に響く。兵士たちは悲鳴を上げ、耳から血を流した。
「父上!」
コイオスが槍を投げる。青銅の穂先が羊の首へ突き立った。
しかし次の瞬間、羊はその槍を噛み砕いた。
ばりばり、と骨を潰すような音。
コイオスの顔が青ざめる。
「下がれ!」
ウラノスは叫び、空へ飛び上がった。
彼の身体から星光が溢れる。髪は銀河のように輝き、瞳は真昼の空色へ変わった。
「我が空を返せ、獣」
低い声が世界を震わせる。
羊は再び星へ口を向けた。
その瞬間、ウラノスは両手を広げた。
空が裂けた。
無数の青銅の槍が雲の奥から降り注ぐ。雨のように、嵐のように。
神々の兵器。
青銅の雨。
羊の身体へ槍が突き刺さるたび、黒い血が空に散った。その血は熱く、硫黄の臭いを放ちながら地上へ降る。
「まだだ!」
ウラノスは叫ぶ。
怒りと恐怖で胸が裂けそうだった。
星を奪われる恐怖。
空が削られてゆく痛み。
それは神である彼にとって、肉を剥がされるのと同じだった。
羊は最後に大きく吠えた。
「メェェェ――!」
次の瞬間、巨体が崩れ落ちる。
黒煙となって。
風に散った。
静寂。
ただ、焦げた臭いだけが残る。
コイオスが荒い息を吐いた。
「終わった……のですか」
ウラノスは答えなかった。
彼は夜空を見上げる。
一つ。
星が消えていた。
ぽっかりと空いた闇は、不自然な穴のようだった。
「父上……」
「……喰われた」
低い声だった。
「完全には戻せぬ」
その言葉に、コイオスの顔が曇る。
だがウラノスは静かに目を閉じた。
遠い地上から、パンを焼く香りが微かに漂ってきた気がした。誰かが暖炉を囲み、家族と食事をしている。羊乳の煮える音。葡萄酒を注ぐ音。幼子の笑い声。
その小さな営みを守るために、自分は空を支えている。
胸の奥に残った熱が、少しだけ和らいだ。
「帰るぞ、コイオス」
「はい」
神々は歩き出した。
星の欠けた夜空の下を。




