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第1話「AIでよくね?と思って退職届を出した」

退職届は、A4の白い紙一枚だった。


 書くのに二分もかかっていない。書くことが少なかったからだ。氏名、生年月日、退職希望日。理由の欄には「一身上の都合」と書いた。五年間の感慨を込める気にも、込める内容もなかった。


 会議室は狭かった。向かいに座った上司の三浦は、書類を受け取りながらしばらく黙っていた。五十代の男で、声が大きい割に話が長い。平時は嫌いではないが、今日この場では早く終わらせてほしかった。


「……中倉、これ本気か」


「はい」


「急すぎないか。理由は何だ」


「モチベーションがなくなりました」


 三浦の眉が寄った。


「モチベーション、というのは」


「AIでできる仕事に意味を感じなくなったということです」


 三浦がまた黙った。その沈黙の間、直人はテーブルの木目を眺めていた。返ってくる言葉はだいたい予想できた。


「……お前はメーカー出身だろう。現場を知っているというのは強みのはずだ。うちに転職してきたとき、それを買って採用したんだぞ」


「そうですね」と直人は言った。「でも今は、そのデータもAIに入ってます。俺じゃなくていい。資料作成や調査、みなAIがやってくれます。」


 三浦がまた黙った。今度は少し長かった。


---


 コンサルに転職してきたのは五年前、三十歳のときだ。


 新卒から十年、機械メーカーで製品開発と品質管理をやっていた。工場の現場を歩き、不良品の原因を追いかけ、改善提案書を書き続けた地味な十年だった。給与はそこまで悪くなかったが、泥臭い仕事だと思った。コンサルへの転職を考えたのは、スマートさへの漠然とした憧れと、年収の大きさだった。理由はそれだけだ。


 転職してからの数年は、確かに充実していた。メーカーの現場を知っている人間はコンサルには少ない。製造業クライアントとの案件で、現場の感覚が生きた。「あなたの話は具体的でわかりやすい」とクライアントに言われたこともある。三浦に「現場を買って採用した」と言われるのは事実だった。


 ただ、それが崩れ始めたのは二年ほど前からだ。


 AIの分析ツールが急速に精度を上げてきた。直人が一週間かけてまとめていた製造工程の課題整理を、AIが三時間で出すようになった。現場データをインプットすれば、直人よりも細かく、直人よりも早く、改善案の候補を並べてきた。メーカーでの十年間で積んだ「現場感覚」は、AIの学習データに飲み込まれていた。文字通り、飲み込まれていた。


 残った仕事はある。クライアントとの関係構築、社内の調整、打ち上げの幹事、上司の機嫌管理。


 そういう仕事だ。


 AIにはできない、と言われる仕事だ。


 直人にはわかっていた。その通りだと。ただ、それをやりたいとも、それに意味を感じるとも、思えなかった。AIにできないからやる、というのは、直人には理由にならなかった。


---


「引き留めるつもりはないが」と三浦は言った。「少し考える時間をとってみないか。今月いっぱいは有給もある」


「今月いっぱいの有給で退職日にします。引き継ぎ資料は今日中に送ります」


「今日中に」


「はい。さっき仕上げてきました」


 三浦がため息をついた。「……わかった」と言った。それ以上は何も言わなかった。


 直人は頭を下げて、会議室を出た。


---


 エレベーターを待つ間、同僚の川田が通りかかった。同期入社で、飲みに行く仲だった。


「中倉、なんか聞いたけど、本当に辞めんの」


「うん」


「次、決まってんの?」


「決まってない」


 川田が目を丸くした。


「決まってないの? いや、それは……大丈夫なの」


「しばらくは貯金でいける」


「いや、そういう話じゃなくて。三十五でノープランで辞めるって、ちょっとリスクじゃない?」


 直人は少し考えた。リスクかどうかで言えばリスクだ。ただ、それを今どう判断するかと言われると、判断する気が起きなかった。先のことを考えると「何をするか」という問いに戻る。その問いの答えが今はない。


「まあ、いろいろあって」


「もったいないな」と川田は言った。「でも中倉が決めたなら。飯でも行こうよ、また」


「うん」


 エレベーターが開いた。また、とはたぶん行かないだろうと直人は思いながら乗り込んだ。川田の声がする前に扉が閉まった。


---


 ビルを出ると、三月の冷たい風が顔に当たった。


 直人はしばらく、エントランスの前に立っていた。


 何かを感じるべき瞬間なのかもしれなかった。十五年分の社会人生活のうち五年を費やした場所を、今後ろにしたのだから。爽快感でも喪失感でも、何か大きなものが来てもよかった。


 何も来なかった。


 ただ、空が思ったより広かった。昼間にこのエントランスを出たことが、あまりなかったと気づいた。いつも出るのは夜だった。


 コンビニに寄って缶コーヒーを買い、歩きながら飲んだ。ブラック。少し苦かった。


 帰りの電車は空いていた。座席に座って、窓の外を眺めた。流れていく街並みを見ながら、直人は今日の会話を頭の中で整理した。三浦に言ったこと、川田に言ったこと。「俺じゃなくていい」。口に出してみると、言葉としては正確だった。正確すぎて、反論する気も起きない。


 自分で言って、自分で少し空っぽになった。


---


 夜、アパートの部屋に戻ると、まずシャワーを浴びた。それからソファに座って天井を見た。


 泣くかどうか少し確認したが、泣けなかった。泣く材料がなかった。怒りも達成感もなかった。正確に言えば「何もなかった」が正確だった。


 メーカーを辞めたときは違った。十年いた場所を離れるのは、それなりに重さがあった。でも今回は五年で、しかも自分でじわじわと意欲を削いでいった結果の退職だ。劇的さのかけらもない。


 スマートフォンを手に取り、何となく開いた。


 通知が来ていた。川田から「また飯行こうな」というメッセージ。直前で別れたのに、もうメッセージを送ってくる速さは、川田らしかった。返信しなかった。


 もう一件、知らない番号からの着信履歴があった。折り返す理由が思いつかなかったのでそのままにした。


 直人は電気を消して横になった。


 明日から、することがない。


 その事実が今夜はじめて、少しだけリアルに感じられた。

次話:第2話「自由になったはずなのに、何もできない」


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