第47話 あるいは彼女にとってのプロローグ
少し先の赤信号にゆっくりとブレーキを踏む。
身体をぐっと後ろに倒すと、背中と肩がパキパキと音を立てた。
こういう時に、普段の運動不足と年齢を感じるのだ。
短く息を吐く。
余裕があるときの赤信号は休憩みたいなものだ。
ぼーっと前を眺めていると、フロントガラス越しに家族連れが映った。
前を歩く女性、その後ろに続く二人の子ども、殿はきっと旦那さんだろう。
「あれ」が正解なんだろうか。果たして自分はあれになれるんだろうか。
人生の終着点はどこなんだろう。
ウィンカーが時計のようにカチッカチッと等間隔でテンポを刻んでいる、まるで早くなりそうな鼓動を窘めるかのように。
小中高と卒業したら、そこから働くか大学に行くか。
学生時代に付き合った恋人と、それか社会人になってからお付き合いした人と数年の交際を経て無事ゴールイン。
少し二人だけの時間を楽しんだら子どもができて、産休、育休。
子育てしながらも家族を守るために日々仕事に精を出し、人生というゲームの勲章を集めるべくミッションをこなす。
やがて子どもが成人して就職、親離れに寂しさを抱えながらも、ライフステージが変わったからこそできる楽しみを夫婦で過ごしていく。
いっそのこと寝る前に「Stage Clear」なんて文字がまぶたの裏に浮かんでくれたら楽なのに。
はい、ここであなたの第一章は終わりましたってな感じで。
ふと自分の人生を振り返れば、なんてつまらないものだろうかと絶望しそうになる。
一体自分は第何章にいるんだ。
そんな俺にも転機が訪れた。
確かに、あぁ確かにあの時の自分も「これが転機」だと感じたのだ。
おもしろそうだからというふざけた理由で結婚したのは、多分酔ってたからじゃない。
どこか惹かれていた彼女に、鳴宮ひなに求められたから。
左耳に入ってくるのは穏やかな寝息。そりゃあれだけ食べれば眠くもなるだろう。
隣に目を向ければ、紅く塗られたリップが西陽を反射する。
もにょもにょと動く唇は言葉を紡ぐには至らず、動きを止めた。
「鳴宮」
ここ数年口にしてきた名前を宙に浮かべる。
いつか言った、俺たちは社会という砂漠を生き残るために仮面を被っているのだ。
ほんの数滴の水を探しながら。
でも家でなら、今となっては二人で暮らす家でなら、その仮面を脱ぎ捨てられる。
「ひな」
徐々に呼ぶようになった、未だ慣れない名前を舌の上で転がす。
「ひな」
もう一度だけ。これは練習だから、いつか来る本番のための。
彼女が聞くことのない愛情は、二人の間を通り過ぎて後部座席にぶら下がる。
自分が陽の人間なら、コンプレックスがなかったら、イケメンだったら、彼女の隣に立つに相応しいと自信があったなら、妻の名前なんて簡単に呼べただろう。
でも残念ながら俺は後ろ向きな人間なんだ。
結婚という極めて強固な契約を交わした相手でさえ、名前で呼ぶのは恥ずかしい。
「でも呼びたいんだよな」
誰も聞いていない、聞いていないけど聞いて欲しい、やっぱり聞かれるのは恥ずかしい相手が隣にいる。
それが故に本音が勝手に喉を通っていく。
胸の奥にしまい込んだ本心を吐露するのは、案外心地好いもので。
歩行者信号が点滅する。
無事に横断歩道を渡りきった家族連れは、手を繋いで歩いていく。
そろそろ進まなくちゃいけないらしい。
きっと人生に正解も不正解もないのだろう。
川の流れのように続いていくそれを、俺たちは時たま手で掬って眺めているだけ。
ブレーキペダルから足を外せば窓の外の景色が揺れる。
不器用な俺は、いつまで経っても右折に慣れない。
交差点での右折は、大縄跳びで入るタイミングを見計らうのと似ている。
難しいのだ。
だからこそ憧れる。代わりにハンドルを握って、手を引っ張って、強引にでも列をかき分けてくれる人に。
それでももう後ろから追いかけるでも、先を行くでも、向かい合うでもない、ただただ隣に立ちたい。
同じ舞台で、同じようにスポットライトを浴びて演じ切りたいのだ。
人生という名の演目で夫婦という役を、主演はもちろん彼女と、俺で。
やがて我が家、というか我がマンションが見えてきた。
彼女を起こさないよう丁寧にハンドルを回す。
エンジンを落として、俺は彼女の鞄を手に取った。
中から取り出したのは黒くて無骨なデザインのカメラ。
「同感だ。いつか将来、こんなことあったなって笑いたいもんな」
口が半開きの寝顔にシャッターを切る。
そういえば彼女をレンズ越しに見るのは初めてかもしれない。
たくさんの初めてを、ひなと経験したい。
きっとこうやって夫婦になっていくんだろう。
最初から夫婦たる二人なんていないのだ。
価値観をぶつけて、擦り合わせてはなだらかになって、最後はパズルのピースみたいにピッタリ嵌める。
ならば俺は一歩一歩でいい、その方が性に合っている。
他の夫婦が通った轍を丁寧に踏みしめていこう。
さしあたっては運転中にナビ役を放棄した挙句、寝息を立てている愛らしい妻を起こすところから始めようか。
シートベルトを外して身体を彼女に寄せる。
もう甘い匂いもしなくなった、しなくなったのだ。
耳元に口を寄せて、いつも彼女がそうするよう言葉に熱を乗せる。
「起きろ、ひな。帰ってきたぞ」




