05 血の滲むホットココア②
サーシスは、早朝だと言うのにも関わらず、リリーナを王都にある彼の自宅にあげてくれた。たまに、王都に来た時にお邪魔することはあったが、アルムとサーシスが旅に出た三年前からは、行く機会は当然、めっきり減っていた。
「(…めちゃくちゃしちゃった。後であの門兵さんにも謝らなくちゃ)」
彼は職責を全うしただけだ。
なのに、自分は平静さを失って、彼に迷惑をかけてしまった。椅子に座って、スカートの裾を握りしめながら内省する。ほんの少しではあるが、冷静さを取り戻してきた。やはり、サーシスのおかげだ。
小さい頃、アルムと喧嘩した時は、いつもサーシスのところに転がり込んでいた。アルムも同じだったので、たまに鉢合わせる事こそあれど、アルムとリリーナ、二人にとって安心できる場所が、そこだったのだ。
「リリーナ、足」
「え?…あ、本当だ。いいわよ、それより…」
「駄目だ。足」
救急箱を持って、サーシスが険しい顔を向けてきた。靴を脱いで、靴下を脱いで見ると、四時間も走らされた足は結構な有様だった。
爪の内側は内出血で黒ずんでいるし、側面の皮は、一部がめくれていた。靴擦れしたまま、お構いなしに走り続けたせいで、皮はすっかりめくれて、赤々とした肉が顔を覗かせていた。無我夢中に走っている時は無視できた痛みだが、こうして冷静になると、刺すように痛む。
自分で手当をしようとしたが、サーシスに固辞された。サーシスが、片膝をついて椅子に座ったリリーナの足を取った。まるで、姫に傅く騎士のようで、少しばかり妙な気持ちになったが、サーシスは特に意識していないようで、手早く薬を塗り込むと、包帯を巻いた。
「…それで、どうしたんだ。何があった?」
「……」
治療を終えると、サーシスがリリーナの向かいに座って、早々に言った。リリーナは、少し黙り込んだ。朝日が、サーシスの家の窓から差し込んでいる。外からは、徐々に人々の声や、鳥の囀りが聞こえてきた。活動を開始し始める時間なのだ。
サーシスも騎士団の仕事があるだろうし、あまり時間を取るせるわけにはいかない。それに、何より…。リリーナは口を開いた。
「アルムの事なの。……サーシス、あたしの頭がおかしいと思ってくれてもいいけど……あんた、今のアルムに違和感を覚えたことはない?」
「アルムに?」
サーシスは、片眉を上げた。
リリーナは構わずに続ける事にした。頭がおかしいと思われようと、この際構わない。アルムに、自分が考えていたよりも、もっと直接的に危機が差し迫っているのかもしれないのだ。
「そう。あたしは、断言できるわ。アルムは、ブラックコーヒーを涼しい顔で飲むなんて出来ないし、それに、ご飯に誘われて断るなんてこと、一度だってなかった。あいつの食い意地がどれだけ張ってるかを、サーシスだって知ってるでしょ」
「……そうだな。けど、リリーナ。それだけでアルムを――――世界を救って帰ってきた勇者を疑うのは、やりすぎじゃないか」
「それだけじゃないわ!」
リリーナは、腰を浮かせながら机に勢いよく手をついた。机の上に置いてあった花瓶が揺れて、はっと我に返ると、座り直す。思い出すのは、アルムを偽物だと確信した、あの瞬間。心臓が冷えて、なのに、鼓動は早くなって。
「あのアルムは、言ったのよ。剣は古くなったから捨てたって。そんなことすると思う?それに、サーシス……昨日、あいつは夜ご飯を食べずに、帰ったでしょ」
サーシスは小さく頷いた。
「あの後、ずっとあたしたちを見てた。…まるで、見張るみたいだった。それに……あたし、ここに来る途中で。森で、これを見つけたの」
リリーナは、ずっと握り込んでいたペンダントを差し出した。サーシスは少し考え込むように視線を彷徨わせたが、思い出したように言った。
「リリーナの母さんの形見か。アルムがよくそれを眺めてた」
「……そう、そうなのね。…これが、血に塗れて、森の泉の近くに落ちてたわ」
サーシスは、目を開いた。それから、頭痛を抑えるように、こめかみに指を当てて、黙り込んだ。時間にすればそれほど長くはない沈黙の後、サーシスは、リリーナの目を見た。
「………………正直に言おう、リリーナ。心当たりなら、ある」
「…!どういうこと?」
「……嫌な予感はしていたんだ。だが、実現するとは思わなかった。リリーナ、今から話す事は、秘密にできるか。絶対にだ」
リリーナが何度も頷いたのを見て、サーシスは語り始めた。
✴︎
「魔王と戦う中で、私とアルムは、その正体について気が付いたんだ。リリーナ、君は魔王と聞いて、どういうイメージを持つ?」
「魔王……。ごめんなさい、全然…。魔物の王で、世界を覆うほど影があるだとか、あらゆる魔物を組み合わせたような化け物だとか、いっそ姿がない、だとか、好き勝手みんな予測していたけど」
サーシスとアルム(偽アルムだったのかもしれないが)は、魔王討伐後、帰ってきても、その正体について決して口にしなかった。
もしかすると、国王だとか、権力者は知っているのかもしれないが、それがリリーナのような一国民にまで浸透することはなかった。
「………リリーナ、一番最初に魔王討伐に赴いた方は、分かるか?」
「ええ、流石に…。いわゆる、初代勇者様よね?今の国王陛下のご先祖にあたる、王子様でしょう。激戦を繰り広げた末に、魔王まであと一手という所で亡くなってしまったという話よね」
「そうだ。それから、幾度も幾度も若者が勇者として旅立ったが、誰一人帰ってくることはなかった」
「…………そうね」
リリーナの脳裏に、アルムを見送った日の事が蘇った。あの時、本当は、行くなと、そう言いたかったことが、胸の奥の方で苦い味になって思い起こされた。
「……魔王城で会った魔王は、私たちが伝説で聞いた初代勇者様の姿をしていた」
「…………それって、」
「魔王は、初代勇者様に、寄生していた」
「――――――」
息を呑んだ。リリーナの脳が、ひとつの仮説を導いたのだ。だが。でも、それは。つまり。
「恐らく、初代勇者様が立ち向かった時は、魔王は別の姿をしていたのだろう。だが、初代勇者様は、魔王に寄生されてしまった。…魔王は、実体を持たず、人に寄生する魔物だったんだ、リリーナ」
「……でも、魔王は…魔王は、サーシスとアルムが、倒したんでしょう?あたしだって、魔王が死んだ日のあの"光"……アルムの光魔法を見たわ」
「ああ」
サーシスは、苦々しい顔をして頷いた。
「そう思っていた。だが、状況を考えると、それしかない。私たちに自分を倒させたと油断させて、アルムの体に侵入して……村に入る直前で、アルムの体を乗っ取ったんだろう」
「…………そんな……」
リリーナは、声を失った。
確かに、全ての辻褄は合うのだ。世界最強の勇者アルムに成り代わることが出来る魔物など、魔王をおいて他には無い。だが、だとするならば、アルムは。そう考えたところで、リリーナは、サーシスがそれまで語った話に、少し含みがあるのではないかと思った。
「……サーシス、"寄生"って言ったわよね」
「ああ。だから、ここからが大事だと私も思う。いいか、リリーナ。私は、初代勇者様と会話をすることができたんだ。あの魔王の力を限界まで削いだ時に。あの方は、自分と魔王を切り離して欲しいと、そう言った。そしてそれは、成功しているんだ」
「……じゃあ……!」
「ああ。アルムと、魔王を切り離しさえすればいい。初代様はそのまま朽ち果てられてしまったが……恐らくそれは、初代様の肉体が、数百年は前のものだからだと思う。アルムは違う。生きていて、ただ、体の主導権を奪われているだけだ」
サーシスのその言葉を聞いた途端、リリーナは、身体中の力が抜けるような感覚を覚えた。それが安堵だと気がつくまでに、また少し、時間がかかった。それからまた更に少しして、頬を涙が伝っていることに気がついて、リリーナは、指先で涙をぬぐった。
「よかった……。よかった、アルム……、まだ……まだ、助けられるのね……。本当に、よかった……」
サーシスは頷いて、リリーナの背中を何度かさすってくれた。
「早い方がいいだろう。…今夜、あの"アルム"と、私が対峙する。君は……直前までは、あまり変な動きを悟られない方が、いいかもしれない。一度村に帰った方がいいだろう」
「……、うん……ありがとう、サーシス…」
「どうってことはない。一度倒した相手だ。それに、私だって、アルムを何とかしなければと思っている」
「ふふ……そうよね。サーシスは、そうよね。…ありがとう、…でも、サーシスも気を付けて。絶対、無理はしちゃダメよ」
「ああ」
少し会話を交わした後、サーシスが席を立った。安堵感に包まれると、がくりとした眠気が襲ってきた。そういえば、今日は徹夜だったし、散々走った後だ。体が悲鳴を上げているのかもしれない。うとうととし始めてしまう。
「……リリーナ、落ち着いたか?ほら、ココア」
「ありがと………。でも、眠くなっちゃうから…」
「少し眠っていけばいい。私はこの後、最低限…騎士団の仕事があるから出てしまうが。誰かしらに、君を村まで送るように伝えておくし」
「…でも、さすがに…わるいわよ」
眠気が限界に達してきた。ぽやぽやとしながらサーシスを見上げれば、サーシスは笑っていた。
「いいんだ。ほら、寝た、寝た。今夜は、結構バタバタするから。少しでも頭を鮮明にしておいた方がいい」
「……それも、そうね…」
サーシスに追い立てられて、リリーナはソファに腰掛けた。ベッドを使ってもいいと言われたが、いくら兄のようだからと言って、勝手に異性のベッドを使うのは忍びなかった。サーシスに毛布を膝に掛けられると、更に眠気が襲ってくる。
「…じゃあ、行ってくる。リリーナ、夜にまた村で」
「うん。…いってらっしゃい……」
サーシスを見送ると、なんとか堪えていた眠気が、限界になって襲い掛かってきた。サーシスが寄越してくれると言っていた村まで送ってくれる騎士も、午後になるまでは来ないだろう。何時間かは眠ることができそうだ。
ふと、せっかく淹れてくれたのだからと、リリーナは、サーシスがソファの前の机に置き直してくれたココアの入ったマグカップを見た。のろりとそれを両手で掴むと、一口飲んで、ソファに横になる。
「(……アルム、遅くなってごめんね…。あたしは、直接あんたを助けられはしないけど……)」
「(……帰ってきたら、何が食べたい?アルム。…なんだって、いっぱい、作るから……それぐらいは、させてよね……)」
瞼が、ゆっくりと降りてきた。
安堵に包まれながら、朝の鳥の囀りを少し遠くに聴きながら。リリーナは睡魔に身を任せた。舌の奥の方に、さっき飲んだココアの苦味が、転んで切った口の中の血の味と混ざって、ほんの少しだけ残っていた。
次回6話。
安堵の眠りの後、そろそろお腹いっぱいになってきます。