04 血の滲むホットココア①
過去の愛しい思い出とは正反対の、真っ暗な夜。
サーシスには会えずして、村への帰路。
夜の帳が下りた森で、奇跡的に、リリーナは、その血痕に気が付いた。村と詰所、王都までを繋ぐ道から外れるように、森の奥の方へと続く、ごく小さな血痕があった。
リリーナは目を伏せて、視線を彷徨わせた。道を外れるのは、いくら魔物が殆ど居なくなったからとて、この森にはハイエナが多く潜んでいるとよく聞く。
それでも、迷ったのは、一瞬だけだった。
✴︎
夜の森の奥深くまでも進む覚悟だったが、意外にも、血痕は、道からそう外れていない、泉の近くで途切れていた。いや、途切れていた、というのはあまり正しくないかもしれない。
正確には、リリーナが道を外れて泉の方へ向かうにつれて、血痕は大きくなっていた。だから、実際は、泉の近くが血痕の発生源で、リリーナが最初に血痕を見つけた場所で、途切れているのだ。
暗くて、遠巻きにはあまりよく見えなかった。
あたりに気配がしないことを確認してから、リリーナは泉に近付いた。少し開けた空き地のようになっていて、ちょっとした休憩ならできそうだ。だが、基本的には、もう少し歩けば村という位置だし、道を外れなければここまで来れないので、わざわざここで休憩しようとは思わないだろう。
騎士団は定期的に森を巡回してこそいるが、魔物が居なくなったので、以前ほどの頻度で巡回はしていない。だから、血痕にはこれまで誰も気がついてこなかったのだろう。
生唾を飲み込む。
掌には、じっとりとした汗が滲んでいた。
だが、止まるわけにはいかなかった。スカートを握り込んで、汗を無理矢理拭き取る。大きく息をひとつ吸って、吐いた。
息を吸ってふと、存外、血の匂いがしないことに気がついた。鼻腔をあの嫌な鉄の匂いが刺激することはない。
森の中よりは、開けていて、月明かりが差し込んでいて見やすかった。
地面の色は、草の緑と混ざり合うように、褪せた茶黒に染まっている。道の近くと違って、このあたりは草の生えるスピードが早い。だから、血も草と土で覆われるのだろう。
ならば。
リリーナは、呼吸を無意識で止めながら、草をかき分ける。
「……っ、」
草をかき分けた地面には、まるで水たまりのように、大きく、どす黒く変色した血の跡があった。覚悟はしていた。だが、していても、息が詰まる感覚を抑えられなかった。リリーナは、胃から酸っぱいものが込み上げる感覚がした。
口を抑えてなんとかそれを抑え込んだ。
だが、ただの村娘のリリーナに、血の耐性などあるわけがない。そのまま力が抜けて、しゃがみ込んでしまった。しゃがむと、地面が近くなって、先ほどは感じなかった血の匂いが、土の匂いと混ざって、僅かに香ってきた。
呼吸が苦しい。意識的に、リリーナは深呼吸を繰り返す。少しではあるが、正常な思考が、戻ってきた。
道からこの泉までは、およそ50メートルほどだ。
発生源はここで間違いないだろう。ここでこの血の主は負傷し、道まで歩いたのだと推測できた。
戦闘経験などロクにないが、争った痕跡があるようには見えなかった。土は綺麗な状態だったし、草も踏み荒らされたようには見えない。つまり、争って負傷したというわけではない、ということだ。
「(――――でも、誰が?)」
口元を抑えながら、リリーナはあたりを見渡した。そして、その直後。月光に照らされて、何か、小さな金属が反射光を発していることに気がついた。
それは、小さな鍵の形をしていたペンダントだった。手に取ってみると、乾いた血が、付着していた。リリーナは、まるで呼吸が止まったかのような錯覚を覚えた。
✴︎
「(――――嘘。嘘、嘘だ)」
走る。息を切らしながら、肩を弾ませながら。
喉が焼ける。水なんて持ってこなかったから、カラカラに乾いた喉が水分を欲して、熱を発している。酸素を回そうと身体中が必死になって、頭は、酸欠で鈍く頭を訴え続けてくる。
それでも、リリーナは無理矢理足を動かし続けた。
「(あれは――――あのペンダントは、あたしの、死んだママの――――)」
世界で一番、大事な形見だった。
だから、リリーナは。
アルムが旅立つ日に、それを、彼にあげたのだ。リリーナがこの世界で一番、無事を願う人に。
なのに、それが、あんなところに落ちていた。
それは、つまり。
首をもたげてきた可能性を、否定しようとした。だが、否定できなかった。その事実が――――あの血がアルムのものだということが、思考として落ちてくるのと同時に、リリーナは走り出した。走って、時折り足を止めそうになり、それでも走って。もう、どれほど走ったかわからなかった。
目指す先は、王都だった。
夜はもう、日付を回った頃だろう。
深夜、いくら魔物が大幅に減ったとはいえ、残党や盗賊、それに、そういう目的で女を狙う奴は、いくらでもいる。
「はあ、っ、ぁ、……っ、」
息が、苦しい。
痛いぐらいに、鍵の形をしたペンダントを握りしめているせいで、手にそれが食い込んでいた。安物の靴が、爪先から壊れて、靴下の一部が露出していた。足には大きな負荷がかかって、靴擦れができてしまっている。
森を走るのではなくて、王都までの舗装された道を走る。それだけだ。
だが、距離にすると、まともに行けば四時間がかかる道で、普通には誰も行かないだろう。リリーナも、本来なら朝まで待って、道を通る商人に乗せてもらうか何かすればよかったのだが、そう考える前に、王都へ足が向いていた。
ただ前だけを見て走るようにしていたからか、道にある小石に気が付かずに、体のバランスを大きく崩す。
あ、と思った時には遅かった。
腕を前に出すことすらできずに、半身を思い切り打ちつけるような形で転倒した。
転倒した先が、まともに舗装された道だったのが、余計にリリーナが受ける痛みを増幅させた。身体中を痛みの信号が駆け巡る。転倒したまま、リリーナは手のひらをゆっくり、開いて閉じた。少し、麻痺したようになっている。
懐から、サーシスから貰った手鏡が転がって、衝撃で開いていた。
「(……ひどい顔だわ)」
青ざめた顔。汗をかきすぎて前髪はすっかり潰れて、後髪も顔に張り付いている。今しがた横転したせいで、顔にはすすのようなものが着いていた。とても、年頃の娘として見れた状態ではない。
なんとか、腕を伸ばして、手鏡を拾う。立ち上がろうとしたが、すぐには出来なかった。
道をほんの少しだけ外れるように、蛆虫のように体を張って移動させて、木の幹に手をついた。
両手でつかんで、ゆっくり体を起こす。ほとんど木を杖のようにしながらだが、なんとか立ち上がることができた。
打ちつけた方の肩を庇うように抑えて、リリーナはまた歩き出した。一歩一歩がひどく重く、歩くたびに身体中が軋むようだったが、それでも足を止めることだけはしなかった。
どれほど歩いたかの感覚はとうに失っていた。だが幸い、魔物にも、ハイエナにも、盗賊にも遭うことはなかった。
ふと、眩しさを感じて、リリーナは顔を顰めた。
何よ、もう。今あたし、忙しいのに。そう思ったところで、それが朝日だと気が付く。
「………王都の、門だわ」
朝焼けに染まる石畳の門が見えた。
常に賑やかな王都だが、早朝は、水を打ったような静かさに満ちていた。門兵が、こちらに気がついたようで、ぎょっとした様子を見せてから近づいて来た。ボロボロの女が、こんな早朝に王都に入ろうとしているのだ。ただごとではないだろう。
「……!止まってください。どうされましたか。何か、一大事ですか」
リリーナは、そのまま門兵の甲冑に両の拳を置いた。息を整えながら、言う。
「…サーシスを……騎士団の、サーシスを、呼んで。あたしは……同じ村の。リリーナ。お願い、早く、早く呼んで…!」
「しかし、この時間ではまだ……」
「じゃあ通してっ、あたしが、あたしが呼びに行くから!」
門兵は、戸惑っているようだった。
明らかに、ただの女。
どう見ても害はない女だし、村の出身なのも間違いはないだろう。だが、こんな早朝に、勇者パーティの英雄、騎士サーシスを指名してくる、ボロボロの女をただ通して良いものか、迷っているようだった。リリーナは、門兵を押し除けようとした。門兵はそれを制止する。
「行かせてよ…っ、早く…」
「それはできません、まずは話を――――」
普段のリリーナが、今のリリーナを見たら「当たり前でしょ、あんた、怪しすぎるわよ」と、そう言いそうだったが、今のリリーナは、冷静さを欠如していた。
少しの間、押し問答を繰り広げる。埒が開かないと、門兵がリリーナの腕を掴もうとした。
まさにリリーナの細腕に手がかかるその時、声が響く。
「――――大丈夫、彼女は私の大事な人だ」
美しい、淡い金髪が、朝焼けを受けて輝いている。それでいて、彼の持つ紫水晶の瞳は、宵闇の美しさを詰め込んだよう。そこだけ時間が止まっていて、まるで一枚の肖像画のようにすら見えた。
まだ、騎士団の朝稽古すら始まっていない時間だというのに、いつもと同じように、騎士然とした、ひとつたりとも乱れなく全てを整えたサーシスが、にこりと微笑んで立っていた。




