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第十二章:温もりに揺られて

 飛空艇が着陸すると、乗組員たちが荷下ろしを始め、周囲は一気に慌ただしくなった。

 降り立った場所はかなり広く、開けている。だが、上空から見えていた港とは違うようだった。

 飛空艇が都市のある一画へ入った時点で明らかになったのは、この区画そのものが外からは幻影で隠されているということだった。実際にはここは都市のはるか北側にある軍事基地らしい。

 緑は多く、町中の建物と似た特徴を持つ建物があちこちにある。だがこちらは鋼でより強化されており、居心地のよい丸みを帯びた石灰岩風の外観というより、実用性を前面に出した雰囲気だった。

 上空から見た限りでは、広い屋外施設で兵士たちが訓練していた。見たところ、新兵らしい。

 その時、ルナがアルムの袖を軽く引いた。

 彼がちらりと彼女を見ると、一瞬だけ目が合う。ルナはやわらかな目で彼を見つめ、それから手を離した。

 アルムは小さく頷く。言葉は交わさず、ルナはそのまま本部らしき建物の方へ歩いていった。

 他の者たちもそれをさりげなく見ていた。

 彼らは一時間ほど前に都市の結界圏へ入ってから、まだかなり具合が悪かった。少し回復した者もいるが、それでも本調子ではない。

 ただし、ノエルとミウは平気だった――ミウは、なぜか妙に。

 ノエルは、結界の影響をあまり受けないようマナを調整するアミュレットを身につけていた。そのせいで、魔法の使用に支障が出る以外の不調は軽い。

 結界にもアミュレットにも魔力抑制の作用がある。だがアミュレットの方は、単純にマナの使用を封じるためのものだ。一方で都市の結界は、呪文の発動そのものを阻害するか、破壊する。

 ルナの姿が見えなくなると、皆の表情は目に見えて緩んだ。

 元の世界では、学生たちは身分や地位なんてそこまで気にしていなかった。だが今は違う。自分たちを受け入れてくれる相手を怒らせる余裕はない。

 一方、兵士たちにとってルナは皇女であり、さらに精鋭部隊の指揮官でもある。チェリーの方が軍での地位は上だが、彼女はルナより親しみやすい。ルナは遠くからしか見られない存在だった。

 だからこそ、皆はアルムへ注意を向けずにはいられなかった。

 彼は手をポケットへ突っ込み、ほとんど無関心そうでいて、どこか好奇心もある顔で周囲を見回しながら歩いている。新しい場所を探検する子供みたいだった。

 「ねえ……あの人、ちょっと自然体すぎない?」

 後ろを歩く兵士の一人が、小声で囁いた。

 「でも……他の漂泊者たちは、まだ結界に慣れてないみたいだけど……」

 学生たちには、どんよりした空気がまとわりついている。

 「まあ、準備なしで来た旅人なら気分悪くなるだろうさ」

 別の兵士が答えた。

 「それより、あいつ……疲れ切ってるぞ。今にも倒れそうなくらいだ。なのに、なんで普通に立ってるんだ?」

 「そう、それ! それ言いたかったの!」

 最初の兵士がすぐ反応する。

 「でもさ、勇者チェリーの横にいるあの人は? かなり整ってるよね。あっちの方がちょっと上かも……」

 彼女はノエルを頭から爪先まで眺めながら言った。

 「え……あれが好みなの?」

 別の女が会話へ入ってくる。驚いた顔をしていた。

 「私は赤い目の子の方かな……あの赤い瞳、すごい綺麗……」

 今度は男が加わった。

 「誰もあんたには聞いてないし。でもまあ、それは分かる……体つきもいいし……」

 そう言いかけた時、ミウが突然アルムの袖を掴むのが見え、彼女の心臓は跳ねた。

 「……ねえ、今の、聞こえてないよね?」

 「……ちょっと! 何てこと言うのよ、うちの客に失礼でしょ!」

 一人が、耳の尖ったエルフの少女の耳を引っ張りながら叱った。

 「いたたたた、いたい! ご、ごめんって!」

 ――同じ頃、周囲を気楽に見回していたノエルは、ミウがアルムの袖を掴んでいるのをたまたま見つけた。

 へえ、これはこれは。

 面白そうに口元が歪む。

 「何ですか、その変な顔は」

 突然、落ち着いた声が頭の中へ響いた。チェリーだ。

 「いや、“かっこいい顔”の間違いじゃない?」

 ノエルは肩をすくめ、得意げに笑う。

 「……」

 チェリーは無言で無表情の視線を返した。

 「それ、ちょっと傷つくんだけど」

 ノエルはむっとしながら、眉を寄せて見返した。

 チェリーは小さく笑う。

 「冗談です――」

 「じゃあ、かっこいいってことでいいんだ?」

 ノエルはそう言って、彼女の肩へ腕を回した。

 「……調子に乗らないでください、ノエル・カールソン」

 チェリーは拳を握り、笑顔のまま言った。だが目は笑っていない。

 「はいはい」

 ノエルは小さく笑い、素直に腕を引っ込める。

 否定はしないし、そこまで嫌そうでもない。

 でも今怒ったのって、周りに見られてるからだよな。

 そう考える。

 ノエルが他へ気を向けると、チェリーは一瞬だけ自分の肩へ視線を落とした。

 ほんとに……この人。

 彼女はそう思う。

 最初はただの演技だと思っていた。けど、もしかして本当に……わ、私のこと……?

 ……落ち着け、チェリー。たぶんただ人懐っこいだけ。

 頬をわずかに染めながら、彼女はそっとノエルへ好奇心の混じった視線を向けた。

 もちろん、少しだけ気になっているなんて、本人の前では絶対認めない。


 …

 ..


 しばらくして、彼らは寮のひとつへ案内された。

 そこへ、騎士らしい風貌の尖った耳を持つ男が歩み寄ってくる。

 灰色がかった茶髪に、淡い青の瞳。

 「アルヴェル・ソルドと申します。皆さんに施設の案内と、各自の部屋への案内を担当いたします」

 落ち着いた声でそう言った。

 「勇者様、ここからは私が引き継ぎます」

 そう続け、胸へ手を当てて軽く頭を下げる。

 チェリーは小さく頷いた。

 「分かりました。皆さんのことは任せます」

 それから学生たちの方へ向き直る。

 「しっかり休んでください。今夜は、重要人物たちが集まる催しがあります。そこで今後どうするかを考えていくことになるでしょう」

 学生たちは顔を見合わせ、頷きながら彼女が去るのを見送った。

 ノエルは、彼女が振り向くのを待っていた。

 そして本当に振り向いた瞬間、彼は手を振る。

 チェリーは呆れたように目を転がしたが、その口元は裏切っていた。少しだけ上がっている。

 彼女もさりげなく手を振り返し、そのまま去っていった。

 その小さなやり取りは、もちろんアルヴェルにもしっかり見られていた。厳つい顔に、面白そうな笑みが浮かぶ。

 「では、案内を始めましょう。しばらくここで過ごすことになりますので、周囲を知っておくのは重要です」

 アルヴェルははっきりとした声で言った。

 「分かりました」

 全員が返事をする。

 「よろしい。ついてきてください」

 そう言って、アルヴェルはそれぞれへ入館用のアクセスリングを配り、案内を始めた。

 皆、彼の説明を注意深く聞く。

 「こちらは食堂です。朝食は日の出とともに、昼食は訓練後に提供されます。夕食の時間は柔軟で、一定の時間までは深夜でも食事が可能です」

 学生たちは短く視線を交わしてから頷いた。

 周囲から向けられる視線は、ただの好奇心だと分かっていても、少し圧があった。

 次に案内されたのは衛生区画だった。

 中へ入ると、かなり広い空間で人々がくつろいでいる。髪は濡れたままで、水分補給をしながら雑談していた。

 この時点で学生たちは、この基地にさまざまな種族が暮らしていることに気づいていた。

 大半は人間だが、エルフ、獣人、悪魔系の人型種族、それ以外もいる。

 それでも驚いたのは、その空気がとても自然だったことだ。違う種族同士が、身体を清めたあとで気軽に会話している。

 「向こうが女性用浴場です」

 アルヴェルはひとつの扉を指した。

 「反対側が男性用です。もっとも案内中ですので、実際の中身は各自で入った時に確認してください」

 さらに別の扉へ歩く。

 「こちらはシャワールームです。結晶が点灯している場合は使用中を意味します」

 点灯している結晶を押すが、何も起こらない。

 「ご覧の通り、入れません」

 今度は空いている部屋へ移動し、結晶を押す。

 扉が滑って開き、中を見るよう促された。

 「いい感じ……」

 何人かの女子が感想を漏らす。

 「これは少し広めの部屋です。使用には時間予約が必要ですが、各シャワールームの基本構造はどれもこれに近いです」

 中はかなり広々としていた。

 洗面台とトイレがある。シャワーには全身乾燥機能までついているらしい。

 横には衣類やタオルを掛けるためのフックもあった。

 「出る前に、シャワーヘッドで室内を軽く流してください。汚れが残らないようにするためです。それ以外の清浄化と乾燥は、退出後に自動で行われます」

 「……今すぐ飛び込んじゃ駄目?」

 ロヴァが手を上げて訊いた。

 「いえ、駄目です、お嬢さん。ですが案内が終わったあとなら、好きなだけどうぞ」

 アルヴェルは無表情のまま答える。

 「レナ、ユリア、ミウ、終わったらみんなでシャワー入ろー!」

 ロヴァが叫ぶ。

 「……」

 ミウたち女子は顔を見合わせた。ロヴァがいちいちストレートすぎる。

 「ええと……」

 少し面食らったように、アルヴェルが言う。

 「個室シャワーは、たとえ恋人同士でも複数人での使用は禁止されています。後から使う者に不快感を与えるためです。ですので、友情を深める意味で一緒に過ごしたいなら浴場を利用してください。あちらにもシャワーはありますし、作法も壁に記されています」

 レナ、ミウ、ユリアは少し顔を赤くした。ロヴァのせいで妙な誤解に巻き込まれた気分だった。

 当の張本人は笑っている。

 男子側も気まずかった。特にクルトが。

 「その……」

 レナがクルトの袖を引いた。

 「私、女の子が好きってわけじゃないからね……?」

 恥ずかしそうに彼を見る。

 「う、うん……」

 クルトは頭を掻きながらどもった。

 早く付き合えよもう!

 全員が心の中でうめいた。

 「おや、失礼しました。どうやら私の誤解だったようですね」

 アルヴェルは軽く頭を下げる。

 そしてそのまま、次の場所――それぞれの個室へ案内を続けた。


 …

 ..


 静かな個室で一人になったアルムは、ベッドに寝転がったまま天井へ手を伸ばしていた。

 いろいろ試したが、水球を作れない。

 全部、都市結界のせいだった。

 ルナの説明によれば、結界内で機能するのは“認可された呪文”だけで、いくつか例外がある。

 つまりアルムのような、ただ元素そのものを操作するやり方では、結界を通過できない。

 この結界のシステムを通せる“呪文”として成立させる方法が分からなかった。

 日常魔法、治癒、浄化などは通る。

 生の元素操作は通らないし、未承認の術も弾かれる。

 ただ、理解としては、呪文というのは元素操作に近い。ただし結果が固定されていて、名前があるもの――らしい。

 「……」

 石灰がかった白い天井を見つめながら、彼は左腕で目を覆った。

 大きく息を吐き、やがてベッドから転がり落ちるように起き上がる。

 部屋を軽く見回した。

 照明結晶、机、棚、ベッド、浴室。

 十分広い。

 軍だから相部屋だろうと思っていたが、そうではなかった。

 ゆっくり扉へ向かい、部屋を出る。

 廊下には青い絨毯が敷かれ、壁には花の装飾がある。ほかにも同じような扉が並んでいた。

 エミィは大丈夫かな。

 そう思いながら足が向いたのは、エメリーの部屋の前だった。

 ノックする。返事はない。

 ん? 寝てるのか……?

 ……ならいい。

 続いてノエルの部屋へ行くが、そこも同じだった。ただ、ノエルはたぶん寝ていない気がした。

 そのままデイヴィッドの部屋へ向かい、何度かノックする。

 数秒後、扉が滑って開いた。

 「ん……? アルム?」

 デイヴィッドは目をこすりながら、眠たげに顔を出す。

 「起こしたか?」

 「まあ……別にいいけど……」

 デイヴィッドは少し欠伸をした。

 「何かあった?」

 アルムは首を振る。

 「いや。様子見に来ただけだ」

 声はどこか柔らかく、薄く笑みまで浮かんでいる。そのまま踵を返して歩いていった。

 何だ今の。

 デイヴィッドは片眉を上げた。

 ただ、胸の奥にふわっと少し温かいものも残る。

 ……なんだかんだ、気にかけてくれてるんだな。

 そう思い、扉を閉めた。

 アルムはそのままミウの部屋の前に立つ。

 「……」

 数回ノックすると、ミウが扉を開けた。

 腕にはタオルと着替えを抱えている。

 「……!」

 彼女の目が驚きで見開かれ、視線が逸れる。

 「アルム……」

 彼の名を呼び、また目を見る。

 「どうしたの?」

 「別に。これからシャワーか?」

 アルムは率直に聞いた。

 「えっと……どっちかっていうと、お風呂かな?」

 ミウはすでに少し落ち着きを取り戻していた。

 「ロヴァが来たのかと思ってた。えへへ」

 タオルをぎゅっと抱えながら笑う。

 「そうか。じゃ、邪魔しない」

 アルムが背を向けようとした瞬間――

 「待って!」

 ミウが袖を掴んだ。

 ばさっ。

 抱えていた服とタオルが鈍い音を立てて床に落ちる。

 その中には下着もあった。今つけている淡い水色とは違い、落ちたのは白だった。

 「う、あっ……」

 ミウの顔がじわじわ赤くなっていく。唇をぎゅっと結び、慌てて目を逸らした。

 「ごめん……」

 か細い、情けない声が漏れる。

 アルムは首を傾げ、服を拾い上げた。

 その一連の動作だけで、ミウの頭の中は大混乱だった。

 あ、ああああ!? あわわわわわ!?

 パニックが加速する。

 「ほら」

 アルムは拾った服を彼女へ渡す。

 「恥かかせるつもりじゃなかった。悪い」

 「ち、違うの……ありがと……でも、そういう意味じゃなくて……その……ほら、何を中に着てるか分かっちゃうっていうか……」

 ミウはしどろもどろに言った。

 「……ああ?」

 アルムは何か理解したような顔をする。

 「俺のも白だけど。ていうか、支給された下着って全部白と灰色じゃないのか?」

 「……」

 ミウの乙女心が砕け散った。

 「え、えっと……女の子の方は黒とか青とか赤もあったよ……」

 思わず答えてしまう。

 「……」

 アルムは黙ったままだ。

 なんで言っちゃったの私ぃぃぃ!?

 ミウは心の中で絶叫する。

 「……まあ、女の子はそういうの、種類多い方が必要なんだろうな」

 アルムの反応の薄さを見て、ミウは大きく息を吐いた。

 やっぱ気にしてない。

 そういう人だもんね、アルムって……。

 私、何をこんなに騒いでたんだろ……もう! 分かったよ……! 好き……んじひひ! 大好き? 好き好き!?

 「好き……」

 ミウは思わず、小さな声で漏らしてしまった。

 ついに自分が彼を好きだと認められた、その勢いだった。

 「……好き? ああ、たしかにそこそこ着心地いいな」

 「……」

 え、今の通じたの!?

 頭の中でまた絶叫する。

 この世界の住人との間に翻訳的な何かがあるのは知っていた。

 でも、そこまで普遍的に通るとは思っていなかった。

 「う、うん……着心地いいよね!」

 ミウはほとんど石像みたいに固まった。

 その時、ひとつ隣の扉が開く。

 金髪の巻き毛に薄緑の瞳をした少女が顔を覗かせた。

 「あっ、ミウと……ア、アルム……。あれ? ふーん?」

 彼女はわざとらしく驚いてから、にやにやし始めた。

 「わたし……なんか、お邪魔だったりする?」

 口元を隠しながら笑う。

 「……別に?」

 アルムは首を振る。ミウは、むしろ少し安心したようにため息をついた。

 「ううん、そういうんじゃないの」

 ミウは明るい声を作る。

 服を抱き締め、そのままアルムの横を抜ける。

 「えっと……またあとでね」

 そう言って、想い人へ眩しく笑いかける。

 なんでアルムが部屋の前に来たのかは分かんないけど……今の私には心臓がもたない……! ごめん!

 心の中で謝りながら、彼女はニヤつくロヴァを引っ張って部屋へ消えていった。

 「……」

 その場に一人残ったアルムは、静かに自分の胸へ手を置く。

 鼓動は一定だ。大きな変化はない。

 ……いや、少し温かいか。

 “好き”か。

 好かれてるのは嬉しい。

 でも……それに応じたら、俺はどれだけ本気でいられる?

 やっぱり。俺はあいつをそういう目では見てない。

 でも、今の俺は勘違いさせてるのか?

 あいつは言った。でも……俺は返答しちゃいけない。拒絶もできない。

 面倒だな。

 やっぱり、もう少しちゃんと線引きした方がいい。

 俺たちはただの友達だって。

 アルムはさらに考え込み、右頬を掻いた。

 嬉しいのに、困っている。

 ……でも、誰が変わらないと決めた?

 あいつは俺の知る中で一番綺麗な女の子で、俺のことを好きで、しかも一緒にいて楽だ。

 なのに俺は、何でこうなんだ。

 本当に、そういう恋愛感情だけが欠けてるのか……?

 「……」

 アルムは拳を握った。


 …

 ..


 ぼんやりしたまま寮を歩き回っているうちに、アルムは入口まで来ていた。

 そこには、角を持つ大柄な男が鎧姿で立ち、彼を見下ろしていた。

 「お前は漂泊者か?」

 低く太い声だった。

 「そうだ」

 「なるほど……悪いが、保護責任者がいないなら外には出せない。少し外の空気を吸いたいだけなら、寮の中央庭園がある」

 大きな獣人の男は落ち着いて言い、その場を動かない。

 アルムは少しも気圧されず、その目を見た。相手を読むような視線だった。

 大柄な獣人は、ほんのわずかに身を強張らせる。

 アルムの目は無機質な金色で、竜の瞳に似てはいるが、どこか別の危うさがあった。

 「分かった」

 アルムは気楽に答える。

 だが、背を向けようとしたところで、その男が呼び止めた。

 「なあ……お前、俺が怖くないのか?」

 獣人が尋ねる。

 「なんで?」

 アルムは少し首を傾げた。表情はほとんど動かない。

 「基地に興味あるのか? もうすぐ俺の交代時間なんだ。見せられる範囲なら案内してやる。どうだ?」

 自信ありげに笑いながら手を差し出す。

 意外そうに、アルムの目が一瞬だけ開かれた。

 それでもすぐ、その手を握り返す。相手の握力はしっかりしていた。

 だがアルムも、ぐっと握り返した。

 角のある男は少し驚く。

 見た目ほど脆くないな、この人間……面白い。

 しかも、マナを使っている気配もない。

 そう思い、口元に笑みが浮かんだ。

 「ボアイル・ハウルショックだ」

 男は名乗る。

 「アルム・ミラー」

 返答は短く、淡白だ。

 「よし、アルムさん。よろしく頼む」

 「ん」

 アルムは頷いた。

 そのやり取りのあと、アルムは休憩所で本を読んでいた。

 まだ朝早く、兵士たちは訓練か任務で出払っている。だから休憩所は比較的静かだった。

 ボアイル、遅いな。

 アルムはそう思い、ソファから立ち上がって入口へ向かった。

 ちょうどボアイルが別の兵士と交代しているところだった。

 だがその瞬間、アルムは、濃い灰色の髪と月のような銀の瞳を持つ男と目が合う。

 「おや? 君がアルム・ミラーか?」

 男が訊いた。

 ボアイルが少し驚いた顔をしているのを見て、アルムはこの男がそれなりの立場の人物だと察する。おそらく、ルナやチェリーと同じような指揮官クラスだ。

 「そうだ」

 アルムは落ち着いて答える。

 「それはちょうどいい。話がしたい」

 その年長の男はゆっくり近づき、握手のために手を差し出した。

 「私の名はリゲル・イリフェル。ルナの叔父だ」

 「……」

 「“予想通り”って思っただろ、今」

 リゲルはにやりと笑い、握る手に少し力を込める。

 アルムは礼儀用の笑みを浮かべた。

 「失礼しました。少し驚いただけです。改めて。アルム・ミラーで――」

 「はははは!」

 だがアルムが名乗る途中で、リゲルは突然笑い出した。

 「ああ……聞いていたのと少し違うな。いや、私がルナの叔父だからか?」

 「……」

 「私にも遠慮なく率直でいい」

 リゲルは自分を指差しながら笑う。

 「……そうか」

 握手を終えたアルムは、しばらくリゲルを観察したあと、張りつけた笑みを消した。

 「で? 少し話でもどうだ?」

 「いい」

 アルムはちらりとボアイルを見る。

 ボアイルの視線は、“案内はまた今度だな”と言っているようだった。


 …

 ..


 本部の、広く装飾されたリゲルの執務室で、アルムは灰色髪の叔父に抱きしめられていた。

 「……」

 「うっ……うう……」

 目を潤ませたリゲルが、アルムへしがみつく。

 「ほんとに……ほんとによかった……ルナに、やっと友達ができて……うあぁぁ……」

 泣き方は少し大げさだが、本気でもあった。

 「……」

 アルムは、世界で何が起きているのか理解しきれないまま、気まずそうにただ立っていた。

 なるほど。こいつ、ルナに対して過保護なんだな。

 そう結論づける。

 「ありがとう……」

 ようやくリゲルが離れた。

 「別に」

 アルムは左頬を掻いた。

 リゲルは深く息を吸い、どさっとソファへ座り込む。

 長いため息が続いた。

 「あああ……これでようやく兄上の小言から解放される……」

 「……」

 アルムがまだ立ったままなのに気づき、リゲルは隣をぽんぽんと叩く。

 「遠慮するな」

 にやっと笑って、さらに続けた。

 「そういえば、お菓子好きなんだろ?」

 ヴォイドボックスを取り出し、いくつか菓子を出す。

 「……」

 アルムは黙って隣へ座った。だが、かなり距離は空けている。

 「おや?」

 リゲルは楽しそうに声を上げた。

 「聞いてた通りだな。遠すぎるか近すぎるかのどっちかだ。気に入ったぞ、お前!」

 「悪いけど、男は対象外だ」

 「そういう意味じゃない!」

 リゲルは即座に突っ込んだ。

 「分かってて言っただろ、今」

 「うん」

 アルムはすぐ答えた。

 「……」

 「……」

 沈黙が落ちる。

 リゲルはまたため息をつき、クッキーを一枚かじった。アルムにも勧める。

 アルムも同じようにそれを食べる。

 リゲルは、小動物みたいにお菓子を食べる彼を見ながら思った。

 何だこれ……ほとんどルナじゃないか。

 「こほん」

 リゲルは咳払いした。

 「今ルナが何してるか、気にならないか?」

 「仕事してるんじゃないのか」

 アルムはそう返し、また一口食べた。

 「いや、あの子はもう終わって休んでる。お前も休めばどうだ? かなり疲れてるように見える。チェリーの報告でも、あいつが現れてからお前はほとんど寝てないらしいし。他の漂泊者たちもそうならおかしくはないが、お前は明らかに消耗してるだろ?」

 「……そうかもな」

 アルムは肩をすくめる。

 「何か考え事でもあるのか?」

 リゲルは何でもないように尋ねた。

 「いや。寝るのを忘れてただけだ。夜になったら寝ようとは思ってる。たぶん」

 「……」

 なるほど、変なとこちゃんとあるんだな……。

 リゲルは心の中でそう呟いた。

 「まあ……何かしたいことはあるか? 見た感じ、私が割り込まなければボアイルが基地を案内してくれていたようだが……代わりに私がやろうか?」

 そう言って手を差し出す。

 「いや。街を見たかった。でも無理だったから、基地が次の候補だった」

 「……」

 「……」

 「……そうか! じゃあ街の案内でも――」

 「できれば一人で歩きたい」

 アルムはまた一口食べる。

 「……ルナはお前を信じている。その信頼を裏切るな」

 リゲルの声音が変わった。

 さっきまでのおちゃらけた叔父ではない。厳しく、要求する響きで、その視線も恐ろしい。

 ルナより強い。

 アルムにはそれが分かった。感覚としては、どこかイリストルスに近い。

 アルムは、今度こそ本物の笑みを見せた。

 「裏切らない」

 その言葉は慰めでも保証でもなく、ただの宣言だった。

 リゲルは柔らかく笑う。

 あの二人が出会ってくれて、本当によかった。

 そう思った。


 …

 ..


 交易区の中心部。

 人で溢れ、喧騒と香りと音楽が満ちるその場所で、アルムは肉の串を片手に、いくつかの菓子袋を提げて立っていた。

 周囲の人々を観察し、値段を比較し、頭の中で価値を整理していく。地球の基準と照らし合わせようとしていた。

 串をもう一口かじる。

 目が少し輝く。

 うまい。

 内心でそう呟いた。

 だがその時、横から何かがぶつかってきた。

 「いたっ!」

 幼い声が響く。

 見ると、犬のような耳と白髪を持つ子供がいた。大きな青い瞳は涙で潤み、今にも泣き出しそうだ。

 アルムはしゃがみ込む。

 「大丈夫か?」

 柔らかい声で尋ね、手を差し出した。

 涙目のままその手を取り、少女は立ち上がる。袖で涙を拭い、少しだけすすり泣いていた。

 だがアルムはハンカチを差し出す――というより、自分で彼女の涙を拭いてやった。

 「どうした?」

 そう尋ねる。

 「ひっく……ま、迷ったの……」

 少女はスカートの裾を握りしめ、目を伏せながら言った。

 「ん、奇遇だな。俺もだ」

 アルムは率直に返す。

 「……え?」

 少女は首を傾げ、彼の目を見る。

 「お兄さんって、大人じゃないの?」

 「……」

 鈍いのに鋭い痛みが、胸に刺さった。

 「……大人、だ」

 アルムは返すが、珍しく少し言葉に詰まっていた。

 少女は愛らしく笑い、今度は安心させるように彼の頭をぽんぽんと叩く。

 「えへへ〜、お兄さんの髪、やわらかい!」

 「そうかもな」

 アルムは軽く笑う。

 「お兄さん優しいね。マカが助けてあげる! えへへ〜!」

 マカは胸を張って宣言した。

 「そうか」

 アルムは穏やかに答える。

 「じゃあ、先に親を探そうか」

 声もいつもよりずっと優しかった。

 「うんっ!」

 マカは元気よく頷いた。

 それから両腕を広げる。

 アルムは一瞬、意味が分からず止まった。

 「抱っこ」

 彼女はにこっと笑った。

 「……」

 アルムはその通りにし、片腕で彼女を抱え上げた。マカは彼の首へ腕を回す。

 立ち上がる。

 思っていたより軽い。

 「わあ! ここからだと全部見える!」

 マカは大げさにはしゃぎながら周囲を見回す。

 「何か見覚えあるか?」

 アルムが聞く。

 「うん! ママとパパのお店、あっち!」

 彼女はある通りを指した。

 アルムは片腕でマカを抱えたまま、もう片方の手で菓子袋を持ち、歩き始めた。

 マカは、きらきらした目で彼を見つめている。

 「お兄さん、マカ重くない?」

 少し遠慮がちに尋ねた。自分から抱っこをねだったことに気づいたのだろう。

 「全然」

 アルムは落ち着いて答える。

 「えへへ、そっか! じゃあマカって軽い?」

 しがみつく腕に少し力が入る。

 「ん、すごく」

 「えへへ、やったぁ!」

 彼女は嬉しそうに叫び、顎を彼の肩へ乗せた。

 「お兄さんに会えてよかった!」

 その言葉で、アルムは、なぜか昔から子供に懐かれやすかったことを思い出した。

 嫌ではない。

 たぶん、自分を頼ってくれることそのものが嬉しいのだろう。

 数分歩いて、アルムとマカは目的地へ着いた。

 大通りから一本入ったところにある服屋だった。

 店へ入ると、金髪に青い目の獣人の男が、その場で凍りついたように固まる。

 「マ、マカ!? ちょっと待て、また勝手に抜け出したのか!?」

 男は叫んだ。

 慌てて二人の方へ駆け寄る。

 だがマカは目を閉じ、アルムへぎゅっとしがみついた。

 その様子を見て、父親は自分が娘を怯えさせていることに気づき、少し落ち着く。

 「……」

 アルムもまた、冷ややかに彼を見ていた。

 「……怒鳴って悪かった。連れて帰ってくれてありがとう……」

 男は首を掻きながら言い、それから胸へ手を当てた。

 「オカル・パロムだ。恩人殿、あなたの名は?」

 「アルム・ミラー」

 「そうか……アルム殿、娘を連れ帰ってくれて本当に感謝する」

 オカルの声音は、さっきよりずっとやわらかくなっていた。

 それでもマカは、父親をちらちら見ながらも、まだアルムへしがみついている。

 「まだ怒ってる……」

 彼女は言った。

 「怒る権利はあるぞ、お嬢さん」

 オカルはきっぱり返し、その頬をつねる。

 「うぅぅ! お兄さん、お兄さん、パパいじわる!」

 マカは拗ねて抗議した。

 アルムはそのやり取りに小さく笑い、しゃがみながらマカを降ろす。

 だが彼女はまだ離れたがらないように彼へくっついていた。

 「マカ、もう離してあげなさい……」

 オカルはため息をつく。

 「やだ!」

 彼女は即答した。

 「困らせるな」

 今度のオカルの声は、さっきより厳しかった。

 「……」

 マカは静かに手を離し、アルムを見上げる。

 目の端には涙が溜まり始めていた。

 だが零れ落ちる前に、アルムが頭を撫でた。

 それだけで彼女は落ち着いた。

 「えへへ〜」

 もう悲しさなんて忘れたように、頭を撫でられる温かさに笑っている。

 父親は、その変化に目を丸くしていた。ふだんこんなふうに簡単に他人へ心を開く子ではない。

 だが娘が笑っているのを見て、彼の口元も自然とゆるんだ。


 …

 ..


 またお店に来てね、お兄さん!

 マカの言葉が、疲れた頭の中で反響していた。

 胸の奥に、じんわりとした温かさがあった。

 子供と関わる機会はそう多くない。

 それでも、関わるたびに孤児院のことを思い出す。あそこにいた子供たちは、なぜかいつも彼を慕ってくれた。

 道に迷ったままだったが、アルムはそれをそこまで悪いことだとは思っていなかった。

 今いるのは交易区の南側あたり。小さな公園がある丘へ出ていた。

 彼は手すりへもたれ、広い海の景色を眺めていた。昼前くらいなので、太陽はまだそこまで高くない。

 地平の近くには淡い星も見え、下の港の方からは街のざわめきが上ってくる。

 上空から見た時、街の中心に森があるのに気づいていた。

 ルナが言っていた図書館にも興味があったが、その森――あるいは公園が図書館との間にあるらしい。だから先に寄ってみることにしたのだ。

 中へ入ると、豊かな緑と、歩きやすく整えられた道が迎えてくれた。

 アルムは気楽に歩きながら、周囲を見回す。

 風はやさしく、少しだけ温かい。

 いろいろな植物の匂いが、妙に一つへまとまっていた。苦みと甘さ、そこにほんの少し柑橘の気配。

 匂いが妙に統一されていること以上に奇妙だったのは、小さな生き物たちが彼の横を歩き始めたことだった。

 何匹かは肩へ乗り、身体を寄せ、頬へ頭を擦りつけてくる。

 「……」

 通りがかった何人かが、唖然としたまま彼を見送っていた。

 やがて彼は、噴水の裏手にあるベンチを見つけた。

 だがそこには先客がいた。

 質素な長いドレスを着た、銀灰色の髪の少女。

 アルムは少しだけ驚く。

 その少女も、自分と似た状況にいたからだ。

 小動物たちが彼女へくっついていて、彼女自身は目を閉じたまま、静かに呼吸を繰り返していた。

 物腰は穏やかで、どこか優雅ですらある。

 すぐ近くに別のベンチも見つけたが、そちらへ向かおうとする前に、動物たちが袖を引っ張った。

 まるで行くなと言っているみたいだった。

 その時、眠っている少女が小さくくしゃみをした。

 その拍子に、彼女へ寄り添っていた生き物たちが目を覚ます。

 そしてアルムを見る。

 気のせいかもしれない。

 だがその目は、今にも泣き出しそうなくらい丸く大きくなり、訴えかけてくるようだった。

 仕方なく、アルムは少女へ近づき、自分のコートを彼女へ掛けた。

 小さな生き物たちは、それで満足したらしい。

 だが、自分がベンチへ置いた菓子の袋が見当たらない。

 振り向くと、また別の生き物たちにやさしく押された。

 「……」

 気づけばアルムは、知らない少女の隣へ座らされていた。

 それ自体より、むしろ自分の中に浮かんだ考えの方が厄介だった。

 ……いい匂いするな。

 そんなことが頭をよぎる。

 立ち上がろうとしてみたが、うまくいかない。

 今度は自分の方にも小動物たちがくっついてきていて、しがみついたまま離れようとしなかった。

 なぜだろうと思っていたが、噴水の澄んだ水面に映る自分の姿を見て、理由が分かった。

 見て分かるほど消耗している。目の下には隈まである。

 人間だけでなく、このよく分からない小さな生き物たちでさえ、自分を気にかけているのだ。

 それに気づき、アルムはため息をつく。

 やっぱり、少しはあいつらの言うことを聞くべきだったかもな。

 生き物たちの温もりと、心地よい香りと、全体の穏やかな空気に包まれるうちに、瞼はどんどん重くなっていく。

 やがて目は閉じられ、胸がやさしく上下する。

 心臓がいつもより速く打っていることにも気づかないまま、彼は、名前も知らない綺麗な少女の隣で眠りに落ちた。

 その静けさの中で、今度は少女の身体がゆっくりと傾いた。

 彼女を支えていた動物たちがいなくなったせいだ。

 そのまま、少女の頭はアルムの肩へ落ちる。

 眠ったまま、少し擦り寄って落ち着く位置を探す。

 心地いい匂いに包まれ、彼女の顔にはかすかな笑みが浮かんだ。

 その温もりに満足したのか、アメセルィはさらに少しだけ近づく。

 心臓がわずかに速くなる。

 やがて今度は、アルムの頭もまた傾き、自然と彼女の頭へ寄り添うように収まった。

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