第五章 最後の放送は、春のあとで
最後の二十三日は、思っていたより早かった。
昼休みのたびに、誰かが放送室へ来た。
卒業生へのメッセージを録りたいと言う先生。校歌をもう一度歌い直したいと言う合唱部の後輩。昔の写真を貸してくれると言う近所の人。みんな、学校がなくなると聞いてから、急に声を残したくなったらしい。
私と沙月先輩は、ひとつずつ録った。
マイクの前では、普段はよく喋る子ほど言葉に詰まった。反対に、教室では静かな子が、校門の桜が好きだったとか、放送室から聞こえる雨の音が好きだったとか、思いがけないことを言った。
私たちはそれを、直しすぎないように編集した。
言い直したところも。笑ってしまったところも。マイクに近づきすぎて、息が入ったところも。
声はきれいにしすぎると、誰のものか分からなくなる。
それを教えてくれたのは、沙月先輩だった。
「この『えーと』、切る?」
私はヘッドホンを片方外して聞いた。
「残してください」
「意外」
「そのあとに言ってること、本当っぽいから」
「本当っぽい」
「言い直してる間に、考えたんだと思います」
「なるほど」
先輩は、画面に表示された波形へ印をつけた。
私たちは、前よりたくさん話した。
けれど、屋上で交わした言葉の先は、まだ触れないままだった。
寂しい。
先輩の来年にもいたい。
それだけを言って、私たちはまた、いつもの放送部員に戻った。
そのままでいることが、今は少し心地よかった。
けれど、以前とまったく同じではなかった。
沙月先輩は、私が無理をしているときに、前より先に気づくようになった。私も、先輩が声を少し低くしている日は、眠れていないのだと分かるようになった。
言わないままでも、互いのことを見ている。
それは楽で、少しだけ怖い。
ある放課後、私たちは校舎の中を歩き回って、最後の放送に使う音を録った。
家庭科室のミシン。理科室の蛇口。体育館の床を雑巾で拭く音。廊下を走る上履き。
沙月先輩が録音機を持ち、私はヘッドホンで確かめる。
「この音、使えますか」
先輩が、理科室の蛇口を少しだけひねった。
水が金属の受け皿に落ち、空っぽの部屋に反響する。
「使えます」
「なんで」
「理科室っぽいから」
「雑」
「でも、ここでしか聞けない音です」
先輩は水音に紛れるように笑った。
それから蛇口を閉め、録音機を止めた。
「渚」
「はい」
「この学校、なくなっても、ここで聞いた音は残るかな」
「データには残ります」
「そういうことじゃなくて」
私は考えた。
校舎が壊されれば、廊下の響き方も、風の抜け方も、同じにはならない。録音を聞いても、そこにいた自分まで戻るわけではない。
「残ると思います」
私は言った。
「私たちが忘れなければ」
「忘れたら?」
「そのときは、誰かが聞けばいいです」
先輩は、少しだけ目を細めた。
「渚らしい答え」
「そうですか」
「うん。私が忘れても、渚が聞いてくれるみたい」
私は、返事ができなかった。
聞く。
それならできるかもしれない。
言うより、ずっと得意だった。
閉校式典の二日前、守谷さんが放送室へ、学校の古い鍵を持ってきた。
屋上の鍵ではない。放送室の戸棚の鍵だった。
「これ、最後まで使うんだろ」
手のひらに乗せられた鍵は、小さく、錆びていた。
「閉校したら、どうするんですか」
私が聞くと、守谷さんは肩をすくめた。
「残すものは残す。壊すものは壊す。学校ってのは、案外そういうもんだ」
「寂しくないですか」
「寂しいよ。でも、ずっと鍵を持ってるわけにもいかん」
守谷さんは、私たちを見た。
「お前らは、鍵を返す前に、ちゃんとやりたいことをやれ」
沙月先輩は、何か言いかけて、言わなかった。
私は鍵を受け取った。
掌の中で、冷たかった。
その日の帰り、先輩は駅までの坂道で、東京の寮の住所を書いた紙を私に渡した。
「まだ引っ越してないですけど」
「先に」
「手紙、書いていいんですか」
「書いてほしい」
先輩は言った。
「さっき、忘れたら誰かが聞けばいいって言ったでしょう」
「はい」
「私は、渚に聞いていてほしい」
紙を受け取った手が、少し震えた。
私は何度も頷いた。
言葉にすると泣きそうだったから。
その夜、閉校式典のリハーサルが体育館で行われた。
来客用の椅子はまだ半分しか並んでいない。壇上には校旗と演台だけがあり、いつもの卒業式よりもずっと広く、冷たく見えた。
私たちは体育館の後ろに置かれた簡易ミキサーの前に座り、先生たちの進行に合わせて、音を出すタイミングを確かめた。
「校長挨拶のあと、五秒」
沙月先輩が小さく言う。
「はい」
「そのあと、昇降口の音」
「はい」
私は、指先をフェーダーの上に置いた。
体育館の天井は高い。スピーカーから流れた音は、壁にぶつかってから、少し遅れて戻ってくる。いつもの放送室で聞くよりも、誰かの記憶みたいに遠い。
昇降口の録音が流れる。
上履きが床を叩く音。誰かが笑いながら走る音。靴箱の扉が閉まる音。
演台の前に立つ先生たちが、黙って聞いていた。
次に、図書室のページをめくる音が流れる。
そのあとに、校庭の風。
音だけを聞いていると、校舎じゅうを歩いているみたいだった。
でも、体育館は空っぽのままだ。
「少し、静かすぎるかな」
沙月先輩が言った。
「音が足りないですか」
「違う。聞いてる人の音がない」
私はヘッドホンを外した。
たしかに、今はリハーサルだから、誰も拍手をしない。泣く人もいない。椅子の背にもたれる音も、プログラムをめくる音もない。
それがないと、放送がどこへ届いているのか分からない。
「明日は、きっとあります」
私が言うと、先輩は頷いた。
「うん」
リハーサルは一度、校歌の途中で止まった。
体育館の右側のスピーカーだけ、音が少し小さい。守谷さんが脚立を持ってきて、配線を調べる。先生たちは壇上で次の段取りを話し始めた。
私と沙月先輩は、機材の前に残った。
「緊張してます?」
私が聞くと、先輩はすぐに頷いた。
「してる」
「先輩でも」
「最後だから」
「いつもどおりやればいいです」
「渚、よく言うね」
「本当です。先輩は、いつもどおりが一番うまいです」
「渚も」
先輩は、私の手元を見た。
「渚がいると、音が変になっても大丈夫だと思える」
「壊れたらどうするんですか」
「渚が直す」
「直せなかったら」
「一緒に困る」
その言い方が、少しだけうれしかった。
一緒に困る。
遠くに行く人が、今はそう言っている。
守谷さんが配線を直し、校歌をもう一度流した。今度は、左右のスピーカーから同じ大きさで声が聞こえた。
合唱部の後輩たちが録った歌は、体育館の隅まで届く。
私は、歌い出す前の息を吸う音を聞いた。
明日は、この音のあとに、たくさんの人の息が重なる。
放送が終わるころ、篠田先生が私たちのところへ来た。
「いいと思う」
先生は短く言った。
「二人らしい放送ね」
「二人らしい、ですか」
沙月先輩が聞いた。
「余計なことを言いすぎないところが」
先生は、目元のしわを深くした。
「でも、言いたいことはちゃんと聞こえる」
私は、先輩と顔を見合わせた。
先生は、こちらの気持ちまで知っているわけではない。きっと、放送の話をしているだけだ。
それでも、胸の奥にあったものを見つけられたみたいで、少し恥ずかしかった。
片づけを終えて体育館を出ると、廊下の窓から月が見えた。
校舎の電気はほとんど消えている。明日が終われば、この廊下を夜に歩くことも、もうない。
「渚」
沙月先輩が、私の名前を呼んだ。
「明日、うまくいかなくても」
「はい」
「一緒に終わらせよう」
私は頷いた。
「うまくいきます」
「どうして」
「先輩と私だから」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
先輩は驚いたように私を見た。
それから、誰もいない廊下で、小さく笑った。
閉校式典の前日、沙月先輩は一枚のカセットテープを私に渡した。
透明なケースに入った、真新しいテープだった。白いラベルには、青いペンで『渚へ』と書かれている。
「これ、何ですか」
「明日まで聞かないで」
「それは聞きたくなるやつです」
「だから、渡すか迷った」
「渡したなら聞かせてください」
「明日まで」
先輩は曖昧に笑った。
でも、いつもより少し緊張しているように見えた。
「約束」
「……約束します」
私はテープを制服のポケットに入れた。
薄いのに、そこだけ重かった。
翌朝、校門の前には、見慣れない車が何台も停まっていた。
卒業生と保護者、町の人たちが、閉校式典のために集まっている。玄関には『桜森女子高等学校 閉校式典』と書かれた白い看板が立ち、制服姿の生徒会役員が来客を案内していた。
空は晴れていた。
昨日まで残っていた雪は、夜のあいだにほとんど消えた。校庭の隅の土だけが黒く濡れ、春が来る前の匂いがした。
私はいつもより早く放送室へ入った。
沙月先輩はもう来ていた。制服のリボンを整え、機材の電源を順番に入れている。
「おはよう」
「おはようございます」
「眠れた?」
「あんまり」
「私も」
「先輩もですか」
「うん。機材が止まったらどうしようって」
「それは大丈夫です」
「渚が言うなら大丈夫」
先輩はそう言って、ヘッドホンを私に渡した。
耳に当てる。体育館のざわめきが、細いケーブルを通って聞こえた。椅子が引かれる音。誰かの咳。司会の先生がマイクテストをする声。
いつもの卒業式にも似た音。
でも、今日で終わる。
九時ちょうど、開式のチャイムが鳴った。
私は再生ボタンの上に指を置いた。
沙月先輩が、隣で小さく頷く。
番組の最初に流したのは、朝の昇降口の音だった。
靴箱を開ける音。上履きが床を叩く音。廊下を走る誰かを注意する先生の声。小さな笑い声。
続いて、校庭の風。図書室でページをめくる音。音楽室で息をそろえる合唱部の声。
体育館にいる人たちは、黙って聞いていた。
画面の波形が流れていく。
私は、目の前の数字だけを見ていた。音量。残り時間。次の音源。いつもどおりの作業を、いつもよりゆっくり確かめる。
やがて、生徒の声が流れ始めた。
『朝、遅刻しそうになって、ここの坂を走ったこと』
『放送室から、昼休みに流れる曲を聞いたこと』
『苦手な先生に怒られたこと』
『友達と、屋上に行きたかったこと』
最後の一つは、クラスメイトの美里が言った言葉だった。
録音したとき、私は理由を聞かなかった。
今、その声を聞いた沙月先輩が、私のほうを見た。
私は何も言わず、次の音源を出した。
校歌が流れる。
録音したときの、息を吸う音から始まる。
私は目を閉じた。
音楽室のピアノ。涙をこらえる後輩。指先で鍵盤の蓋に触れていた沙月先輩。
そのすべてが、短い歌の中に残っている。
番組の最後に、沙月先輩が録った言葉を流した。
私が原稿を書き、先輩が読んだ。
『聞こえなくなった音が、なくなったとは限りません。この学校で笑った人も、泣いた人も、もうここへ来られない人もいます。それでも、私たちが聞いた声は、これからもそれぞれの場所で続いていきます。桜森女子高等学校、最後の校内放送でした』
先輩の声が終わる。
そのあと、二秒だけ、何も流さなかった。
無音ではない。
体育館にいる人たちの息づかいが、マイクを通して聞こえている。遠くで、誰かが鼻をすすった。
私は、そっとフェーダーを下げた。
放送が終わった。
放送室の時計は、十時十四分を指していた。
沙月先輩は、しばらく動かなかった。
私も動けなかった。
終わった。
たったそれだけなのに、胸の中に長い音が残っている。
「お疲れさま」
先輩が先に言った。
「お疲れさまでした」
私は答えた。
それで、二人の肩から同時に力が抜けた。
廊下の向こうから、拍手が聞こえた。
最初はばらばらだった拍手が、少しずつ大きくなる。体育館に集まった人たちの拍手が、壁を通って放送室まで届いた。
私は、泣きそうになった。
でも、先輩が隣にいるから、泣かなかった。
式典が終わると、私たちは資料室の隅に置いていた緑色のテープをしまった。
放送に使わなかった。
けれど、保存用の箱に入れる前に、もう一度だけケースを開いた。
梢さんと真弓さんの声が残っている。
誰にも聞かせない声。
「行きましょうか」
沙月先輩が言った。
「はい」
守谷さんは、屋上の扉の前で待っていた。
隣には梢さんがいる。今日は薄い水色のコートを着ていた。いつもより少しだけ口紅が濃い。
「真弓さん、来ましたか」
私が聞くと、梢さんは小さく首を横に振った。
「まだです」
声は落ち着いていた。
でも、コートのポケットの中で、手を握っているのが分かる。
「無理に待たなくても」
沙月先輩が言った。
「いいの」
梢さんは扉を見た。
「今日は、待つって決めて来たから」
守谷さんが鍵を開ける。
重い扉の向こうに、午後の空が広がった。
屋上には、もう夕方の色が混じり始めている。式典のあと、来客は少しずつ帰っていった。校庭の端で、卒業生たちが最後の写真を撮っている。
私は沙月先輩と、扉の近くに立った。
梢さんはフェンスのそばまで歩いていく。
風が吹くたび、水色のコートの裾が揺れた。
十分ほど経った。
誰も話さない。
私は、時計を見ないようにした。
何十分待ったのか、何時間待ったのか。あの日の梢さんには、きっとそれが分からなくなっていただろうと思う。
階段の下で、扉が開く音がした。
続いて、ゆっくりした足音。
梢さんが振り返る。
扉のところに、一人の女性が立っていた。
黒いコート。肩にかかる短い髪。手には、古い布張りの鞄を持っている。
顔立ちは、アルバムの真弓さんとは違って見えた。年を重ねたからではない。写真の中ではいつも誰かの隣に立っていた人が、今は一人で、扉の前にいるからだと思った。
「梢」
女性が言った。
その名前の呼び方だけで、私は分かった。
梢さんは、すぐには返事をしなかった。
何度か瞬きをしてから、ゆっくり歩いた。
「真弓」
その声は、昨日の手紙を読んだときよりも、ずっとやわらかかった。
私は沙月先輩と顔を見合わせ、扉のほうへ下がろうとした。
そのとき、梢さんが私たちを見た。
「ここにいてもらってもいいかしら」
真弓さんも、小さく頷いた。
私たちは返事の代わりに、扉の近くへ下がった。
真弓さんは、鞄の持ち手を握り直した。
「手紙が届かなかったあと、駅で一度だけ、あなたに話しかけるように録音したの」
「駅で?」
「始発を待っているあいだ。父も母も、隣にいたから、小さい声でしか話せなかった」
「あなたに電話をしようと思った。でも、何て言えばいいか分からなかった。急に行けなくなったって言えば、梢は怒ると思った。好きだって言えば、困らせると思った」
「それで、録ったの」
「うん。渡せれば、言わなくて済むと思った。結局、渡せなかったけど」
梢さんは少し黙った。
風が止み、屋上が急に静かになった。
「真弓」
「なに」
「私は、怒ったと思う」
「うん」
「でも、困らなかった」
真弓さんの口元が、少しだけ震えた。
「私は、ずっと、あなたが困ったんだと思ってた」
「困ったよ。自分で分からなくなるくらい」
梢さんは、昔の話をするみたいに言った。
「でも、困ったから、嫌いになるわけじゃない」
真弓さんは目を伏せた。
「あのとき、私は一人で決めた」
「うん」
「梢に選ばせなかった」
「うん」
「ごめん」
「うん」
梢さんは、何度も頷いた。
許した、と簡単には言わない。けれど、聞いている。真弓さんがあの日の自分を、もう一人で抱えなくていいように。
私は、その姿を見ていた。
好きだから許すのではない。傷ついたことをなかったことにするのでもない。
それでも相手の言葉を聞くことができるなら、二人はもう、あの日の二人だけではない。
「あの日、行けなかった。行かなかったんじゃない」
「知ってる」
梢さんの返事は、すぐだった。
「手紙を読んだの」
「うん」
「ごめんね」
「何に?」
「全部」
風が、二人の間を通った。
梢さんは、真弓さんの手を見た。手を取るまでに、少し迷った。
それから、指先だけを重ねた。
「私も、ごめん」
「梢が謝ることじゃない」
「怒ってたから」
「怒っていいよ」
「ずっと、あなたが来なかったことを、私が恥ずかしがっているせいにした」
真弓さんの目から、涙が落ちた。
梢さんは、それを見て、今度ははっきり手を握った。
「私は、あの日の真弓が好きだった」
言葉が、風の中でも消えなかった。
「来なかった真弓じゃなくて。放送室で、私の声を聞いてくれた真弓が好きだった」
真弓さんは何かを言おうとして、うまく言えなかった。
代わりに、梢さんの手を握り返した。
「私も、梢が好きだった」
過去形だった。
でも、それは終わったという意味には聞こえなかった。
昔の自分たちを、今ようやく抱きしめるような言い方だった。
沙月先輩が、そっと私の袖に触れた。
私は先輩を見た。
先輩は泣いていた。声を出さず、目元だけを拭っている。
私は何も言わずに、先輩の手を握った。
先輩の指が、すぐに絡んだ。
梢さんと真弓さんは、しばらく二人だけで話した。
私たちは扉のそばで、夕方の空を見ていた。
ここにいる四人は、それぞれ違う時間を生きている。それでも、同じ屋上に立っていた。
やがて、梢さんが振り返った。
「渚さん、沙月さん」
「はい」
「ありがとう」
真弓さんも、少し笑って頭を下げた。
「ありがとう。あの手紙を、見つけてくれて」
「私たちは、何も」
私が言いかけると、梢さんは首を横に振った。
「何もしなかったら、今日、ここには来られなかった」
私は返事をしなかった。
何もしないほうが、誰も傷つけないと思っていた。
でも、何もしないままでは届かないものがある。
それを、二人が教えてくれた。
屋上を出るとき、真弓さんは梢さんに言った。
「駅まで、一緒に歩いてもいい?」
梢さんは、ためらいなく頷いた。
「帰りの電車、もう何本もないわよ」
「知ってる」
「じゃあ、歩きましょう」
二人は並んで階段を下りていった。
私たちは、最後まで見送った。
その日の夕方、卒業生たちが校舎からいなくなったあと、私はもう一度放送室へ戻った。
机の上には、片づけ途中のケーブルと、使い終わった原稿が残っている。いつもなら先輩が座っている椅子に、沙月先輩は立ったまま寄りかかっていた。
「お疲れさま」
私が言った。
「渚も」
「放送、うまくいきましたね」
「うん」
「屋上も」
「うん」
それ以上、言葉が続かなかった。
今日はいろいろなことが終わった。終わったことばかりが、部屋の中に並んでいる。
私はポケットに手を入れた。
沙月先輩から渡されたカセットテープが触れた。
「これ、聞いていいですか」
「いいよ」
「今?」
「今」
ラジカセは、まだ机の下にあった。
私はテープを入れ、再生ボタンを押した。
最初に、かすかな息の音が聞こえた。
次に、沙月先輩の声。
『渚へ。これを聞いているのは、きっと最後の放送が終わったあとだと思います』
隣にいる先輩が、目を伏せた。
『私は、渚のことが好きです』
私は、息を止めた。
『放送部に入ってきたばかりの渚が、誰より先に機械の音に気づいたときから。渚が人の言葉を、勝手にきれいにしないところが好きでした。私が東京へ行くことが決まってから、言わないほうがいいと思っていました。渚の来年に、私は責任を持てないと思ったからです』
テープの向こうで、少しだけ紙を触る音がした。
『でも、私は渚が寂しいと言ってくれたとき、うれしかった。うれしいと思ってしまいました。だから、今さらでも言います。東京へ行っても、渚のことを好きでいたいです。渚がよければ、恋人になってください』
そこで、録音は終わった。
ラジカセが、かちりと鳴る。
私はすぐに沙月先輩のほうを見られなかった。
胸の中に、音が溜まりすぎていた。
「ずるいです」
やっと言うと、先輩が小さく笑った。
「ごめん」
「カセットに入れるの」
「直接だと、最後まで言えないかと思って」
「私も、言えないです」
「うん」
先輩の声は、優しかった。
私は椅子から立ち上がった。
足が少し震えている。
「私も、沙月先輩が好きです」
言った。
聞こえるように。自分でも、聞き返せるように。
「先輩が東京に行くから、好きになっちゃいけないと思ってました。でも、好きにならないようにしても、寂しくなるだけでした」
先輩の目から、また涙が落ちた。
私は続けた。
「私は、先輩の恋人になりたいです」
沙月先輩が、私の前まで来た。
近い。
こんなに近くに立つのは、初めてだった。
「本当に?」
「本当です」
「遠くなるよ」
「会いに行きます」
「簡単じゃないよ」
「簡単じゃなくていいです」
先輩は笑って、泣いた。
私は手を伸ばした。先輩の頬に触れる勇気はなくて、制服の袖をつかんだ。
先輩は、その手を自分の手で包んだ。
「渚」
「はい」
「好き」
その言葉のあと、先輩が少しだけ顔を近づけた。
私は目を閉じた。
唇が触れたのは、一度だけだった。
短くて、確かめるようなキスだった。すぐに離れたのに、手のひらまで熱くなった。
窓の外では、校庭の街灯がついた。
もう、今日の放送は終わっている。誰も、私たちの声を聞いていない。
それなのに、世界中に聞こえてしまったような気がした。
沙月先輩は、私の手を離さなかった。
「四月になったら、手紙を書く」
「カセットも」
「うん。毎月一本」
「毎月は、ちょっと多いです」
「じゃあ、二か月に一本」
「そんなに減らすんですか」
「渚が言った」
「週に一回でもいいです」
「多い」
二人で笑った。
笑ったあと、私は先輩の肩に額を寄せた。
カーディガンの柔軟剤の匂いがした。放送室の埃の匂いも、古い機械の熱も混ざっていた。
忘れたくないと思った。
けれど、忘れないために録らなくてもいい。
今は、ここにいる。
閉校式典の翌週、私は沙月先輩の家へ行った。
先輩の母親には、放送部の後輩が荷造りを手伝いに来るとだけ伝えてあるらしい。玄関で挨拶をすると、やわらかい声で「沙月の部屋、散らかってるでしょう」と笑われた。
先輩の部屋は、思ったほど散らかっていなかった。
床には段ボールが三つ。机の上に教科書と録音用の小さな機械。壁には、文化祭のときの放送部の写真が一枚だけ貼ってある。
写真の中で、私はカメラの外を見ていた。沙月先輩だけが、少しこちらを見ている。
「これ、持っていくんですか」
私が写真を指さすと、先輩は少し迷った。
「どうしよう」
「持っていってください」
「渚、写り悪いよ」
「先輩が見てるからです」
「そう?」
「そうです」
先輩は笑って、写真をノートの間に挟んだ。
私たちは本を段ボールに詰めた。使いかけのノート、制服のリボン、古いカセット、何年も前の模試。先輩は物を捨てるのが苦手らしく、空になったペンケースまで持っていこうとした。
「それ、東京でも使うんですか」
「使うかも」
「壊れてます」
「思い出がある」
「学校の思い出、全部持っていったら荷物が重いです」
「渚は冷たい」
「現実的です」
言いながら、私は壊れたペンケースをそっと箱に入れた。
先輩に見られないように。
午後になり、先輩のお母さんが二人分の紅茶を持ってきた。
「あら、ずいぶん進んだのね」
「渚が捨てる係なんです」
「捨ててません」
「本当?」
私は曖昧に笑った。
お母さんは私たちを見て、何かを察したようには見えなかった。ただ、先輩の肩についた埃を払ってから、静かに部屋を出ていった。
紅茶を飲みながら、私たちは窓の外を見た。
沙月先輩の家からは、学校の屋根が少しだけ見える。もう窓は暗く、校門の旗も下ろされている。
「本当に終わったんですね」
私が言うと、先輩は頷いた。
「うん」
「寂しいです」
「うん」
「でも、先輩が東京に行くのは、うれしいです」
「渚」
「両方です」
先輩はカップを置き、私の手の甲に触れた。
「両方でいいよ」
その言葉に、少しだけ涙が出た。
先輩は何も言わず、親指でその涙を拭った。
箱の中には、学校から持ち出すものがいくつも入っている。
けれど、今、私の手に触れているものは、どこにもしまわなくていいのだと思った。
三月の終わり、私は沙月先輩を駅まで見送った。
春休みの平日の朝で、駅は静かだった。ホームの端に残っていた雪はなくなり、線路脇の草だけが淡い緑になっている。
先輩は大きなボストンバッグと、キャリーケースを持っていた。これから東京の寮へ入り、入学式までの数日を、知らない街で過ごすのだという。
昨日まで、学校へ行けば会えた。
今日からは、会うために約束がいる。
「忘れ物、ないですか」
私は聞いた。
「渚」
「冗談です」
「ないと思う」
先輩はバッグのポケットを確認した。
「教科書。手続きの書類。財布。鍵」
「カセット」
「ある」
先輩は、胸元の小さなポーチを軽く叩いた。
私が録った『沙月先輩へ 一通目』は、まだ渡していない。今日、手渡すつもりで鞄に入れてきた。
けれど、いざ取り出そうとすると、指が動かなかった。
先輩が東京で聞く最初の私の声になる。
そう思うと、急に恥ずかしくなった。
「渚」
「はい」
「何か言いたいことある?」
先輩は、すぐに気づいた。
私は鞄の中からテープを取り出した。透明なケースに、黒い字で先輩の名前が書いてある。
「これ」
先輩は両手で受け取った。
ケースを見て、すぐには開けなかった。
「今、聞いてもいい?」
「だめです」
「なんで」
「東京に着いてから」
「渚、ずるい」
「先輩が先にやったでしょう」
先輩は肩を揺らして笑った。
笑ったあと、少しだけ泣きそうな顔になった。
「ありがとう」
「ちゃんと、返事しましたから」
「うん」
遠くで、電車が近づく音がした。
ホームにいる人たちが、少しずつ白線の内側へ下がる。先輩の列車は、私が帰る方向とは逆へ行く。
あの日、梢さんは屋上で待った。真弓さんは来られなかった。
私は、ここで先輩を見送る。先輩はちゃんと電車に乗る。私たちは、何も失くしていない。
それなのに、涙が出そうだった。
「渚」
「はい」
「夏休み、来てね」
「行きます」
「絶対?」
「絶対です」
先輩は、私の手を握った。
人の少ないホームで、ほんの少しだけ強く。
「会えない日に、無理に平気なふりしないで」
「先輩も」
「うん」
「寂しかったら言ってください」
「言う」
電車が止まり、扉が開いた。
先輩は一度だけ、私の額に自分の額を軽く触れた。
「好き」
小さな声だった。
「私も」
私は答えた。
先輩が電車に乗る。
扉が閉じるまで、私たちはガラス越しに手を振っていた。
列車が動き出し、先輩の姿が見えなくなってからも、私はしばらくホームに立っていた。
来月になれば、先輩の声が届く。
夏になれば、会いに行く。
次の約束があることは、別れを少しだけ違うものにしてくれた。
四月になった。
桜森女子高等学校の校舎は、施錠された。
私は統合先の高校へ通い始め、沙月先輩は東京の大学の寮へ入った。毎日会っていた人と、画面の中でも会えない日が続くことに、最初はうまく慣れなかった。
それでも、電話をした。手紙を書いた。駅まで迎えに行く夏休みの予定を立てた。
そして、四月の終わりに、一つの小包が届いた。
中には、透明なケースに入ったカセットテープがあった。
ラベルには、見慣れた青い字で書かれている。
『渚へ 一通目』
私は自分の部屋で、古いラジカセにテープを入れた。
再生ボタンを押す。
ざ、と小さなノイズがしてから、沙月先輩の声が聞こえた。
『渚。東京の夜は、思ったより静かです。でも、渚の声はちゃんと聞こえています』
そのあと、沙月先輩は大学のことを話した。
寮の部屋は狭いこと。窓の外に見える電車が、夜になっても止まらないこと。学食の味がまだよく分からないこと。新しい授業で録音機材に触ったとき、放送室の古いミキサーを思い出したこと。
とりとめのない話ばかりだった。
でも、その一つ一つが、先輩が東京でちゃんと暮らしている証拠だった。
声の最後に、少しだけ間があった。
『渚。会いたいです』
それだけ言って、録音は終わった。
私は、ラジカセの前でしばらく動けなかった。
会いたい。
それは、遠くにいる人から届く言葉としては、あまりにまっすぐだった。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしている。去年までの校舎なら、今ごろは昼休みのチャイムが鳴っていた時間だった。
私は引き出しから、新しいテープを取り出した。
録音ボタンを押す。
最初は、声の出し方さえ分からなかった。
マイクの近くで息を吸う音だけが、赤いランプと一緒に記録されていく。
「沙月先輩」
私は、ようやく言った。
「こっちは、今日すごく風が強いです。新しい学校の廊下は広くて、まだ自分の場所じゃない感じがします」
そのあと、今日あった小さなことを話した。美里が新しいクラスでも購買のパンを分けてくれたこと。教室の窓から見える山は、前の学校と同じなのに、少し遠く見えること。放送部の見学へ行ったけれど、まだ返事をしていないこと。
「でも、音があるところにはいたいです」
自分の言葉なのに、沙月先輩の言葉を返しているみたいだった。
「先輩が、会いたいって言ってくれて、うれしかったです。私も会いたい」
言うと、心臓が速くなる。
誰も聞いていない部屋で、私は笑った。
「恋人だから、当たり前かもしれないですけど。ちゃんと言いたかったので」
録音を止める。
テープのケースに、黒いペンで『沙月先輩へ 一通目』と書いた。
翌朝、私は学校へ行く前に郵便局へ寄った。
小包を窓口へ渡すと、係の人が重さを量り、宛先を確かめてくれた。
東京まで、数日かかるらしい。
それでも、届く。
校舎はもうない。放送室も、屋上も、あの古いラジカセも、今は鍵の向こうにある。
けれど、あの日に終わった放送は、終わったままではなかった。
春のあとで、私たちは何度でも、互いの声を聞くことができる。
五月の連休、私は一度だけ、桜森女子高の前まで行った。
校門は閉じられ、正面には工事予定を知らせる白い板が立っている。校舎を残すのか、取り壊すのか、まだ決まっていないらしい。門の隙間から見ると、校庭の桜は満開だった。
去年なら、昼休みに美里とその下を歩いていた。
放送室の窓も、屋上のフェンスも、まだ見える。
けれど、もう中へは入れない。
私は門の前に立ち、しばらく風の音を聞いていた。
そこへ、背中の鞄の中で携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。
「もしもし」
『渚さん? 梢です』
聞き覚えのある、穏やかな声だった。
「梢さん」
『急にごめんなさい。真弓と、今日、また会うことになって』
私は、校門の向こうの桜を見た。
「よかったですね」
『うん。前みたいに、何十年分も話すことはできないけれどね』
梢さんの声が、電話の向こうでやわらいだ。
『今度は、真弓が住んでいる町へ私が行くの。駅で待ち合わせをして』
「待ってる、ですね」
『そうね。でも、今日は携帯電話があるから』
私は笑った。
梢さんも笑った。
『渚さん。あなたたちは、どう?』
「私たち?」
『沙月さんと』
言葉に詰まった。
梢さんは、きっと屋上で気づいていたのだと思う。
「会えなくて、寂しいです」
私は言った。
「でも、会う約束をしました」
『それなら大丈夫』
「大丈夫ですか」
『大丈夫じゃない日もある。でも、約束があるなら、また会える』
通話の向こうで、駅のアナウンスが聞こえた。
梢さんはもう、真弓さんの来られる場所に立っている。
私も、いつか沙月先輩のいる駅へ行く。
「楽しんできてください」
『渚さんもね』
電話を切ったあと、私はもう一度校門を見た。
校舎は静かだった。
けれど、何も聞こえないわけではない。風が桜の枝を揺らし、遠くで車が通る。誰もいない場所にも、音は残る。
私は新しい学校へ戻るため、坂を下りた。
七月の終わり、私は一人で東京へ向かった。
夏休みに入ってすぐの土曜日。朝早い電車に乗り、乗り換えのたびに沙月先輩へ短いメールを送った。
『今、乗り換えた』
『次、特急に乗る』
『東京、暑い?』
返信はすぐに来た。
『暑い。水を飲んで』
『駅で待ってる』
待ってる、という文字を見て、私は何度も画面を開いた。
東京駅の改札は、人が多すぎて、最初はどこに立てばいいのか分からなかった。約束した場所の柱を探し、赤い案内板の下に立つ。
人の流れは止まらない。
スーツケースの車輪。外国語の案内。発車を知らせる電子音。駅は、学校の放送室とは比べものにならないほど、たくさんの音で満ちていた。
私は鞄の紐を握った。
約束の時間を五分過ぎても、沙月先輩は来なかった。
十分。
十五分。
携帯電話の画面を見ても、新しいメールはない。
電車が遅れているのかもしれない。人混みの中で見つけられないのかもしれない。そう思おうとするたびに、あの緑色のテープが頭に浮かんだ。
卒業式のあと、屋上で待ってる。
来られないことより、嫌われることが怖くて、言えなかった。
私は柱の前で、深く息を吸った。
今は昔と違う。電話がある。メールがある。遅れる理由を聞くことができる。
それでも、連絡が来ない時間は、同じように長い。
私は携帯電話を開いた。
電波が弱いのか、画面の端に表示された印が一つしかない。
沙月先輩へ、短く打つ。
『着いたよ。どこにいる?』
送信を押したとき、背中のほうから息を切らした声がした。
「渚!」
私は振り返った。
沙月先輩がいた。
白い半袖のシャツに、薄い青のスカート。髪が少し伸びて、耳にかけたところから落ちている。片手に飲み物の袋を持ち、もう片方の手で携帯電話を握っていた。
私は、何も考えずに先輩のところへ行った。
「ごめん」
先輩が言った。
「地下鉄が止まって、連絡しようとしたら電池が切れて」
「大丈夫です」
「待たせた」
「大丈夫です」
大丈夫と言いながら、声がうまく出なかった。
先輩は私の顔を見て、袋を床に置いた。
「渚」
「はい」
「怖かった?」
私は、少しだけ迷った。
ここでまた、大丈夫だと言ってしまえば、今までと同じになる。
「怖かったです」
正直に言った。
「来ないのかと思いました」
先輩の目が、少しだけ潤んだ。
「ごめん。絶対、来るつもりだった」
「知ってます」
「でも、言わなきゃ分からないよね」
「はい」
「次から、もっと早く連絡する」
「私も、待つだけにしません」
先輩の表情がやわらいだ。
それから、ほんの少し迷って、私の手を取った。
人の多い駅の真ん中だった。誰が見ているか分からない。けれど、先輩は離さなかった。
「会いたかった」
「私も」
その言葉を言うだけで、待っていた時間が少しずつ遠くなった。
先輩は私を大学の近くまで連れていってくれた。
大きな建物の間を歩き、学食で冷たい麺を食べた。録音の授業で使う小さなスタジオも、窓越しに見せてくれた。
「ここのマイク、学校のよりずっときれいに録れる」
「先輩、楽しそうです」
「楽しい」
「よかった」
私は言った。
先輩が好きな場所に、私が初めて来た。
少し寂しいはずなのに、うれしかった。ここで先輩は、私の知らない音をたくさん聞いて、知らない人たちと話して、少しずつ大人になっていく。
その中に、私の居場所も作ってくれると言ってくれた。
夕方、駅へ戻る前に、先輩は鞄から小さなカセットレコーダーを出した。
「一つ、録っていい?」
「何をですか」
「今日の渚の声」
「嫌です」
「どうして」
「緊張してるから」
「だから」
先輩は声を立てずに笑った。
レコーダーを私に向ける。
「渚。東京はどうですか」
私は少し考えてから、答えた。
「音が多いです」
「うん」
「でも、沙月先輩の声は、ちゃんと分かります」
先輩は、一瞬だけ言葉を失った。
それから録音を止め、私の頭を軽く撫でた。
「私も、渚の声なら分かる」
ホームで帰りの電車を待つあいだ、先輩はレコーダーをもう一度取り出した。
「東京駅の音も、少しだけ」
先輩は、電子音と車輪の音が重なるほうへ、レコーダーを向けた。
録音を止めると、中の小さなテープをケースに戻し、私に差し出す。
「今日の分。帰りに聞いて」
「先輩の声も、入ってますか」
「少しだけ」
帰りの電車が動き出すと、先輩はホームで手を振った。
私は窓際の席から、その姿が小さくなるまで見ていた。
待つことは、もう怖いだけのものではなかった。
会いに行くと決めて、会えなかった理由を尋ねて、次の約束を作ること。
それを繰り返せば、離れていても、誰かの来られる場所にいられる。
鞄の中には、東京駅の雑踏と、先輩の声を少しだけ録った小さなテープが入っていた。
その音を聞くたび、私はきっと、あの夏の日の先輩の声を思い出す。




