エピローグ 零から始まる魔術師
一か月後。
俺は、もう一度あの測定台の前に立っていた。
十メートル先には、入学したときから変わらない白い標的。
右手を開く。
五本の指は、少し固い。それでも、全部動いた。
「痛みは?」
隣に立つミナが尋ねる。
「ない」
「嘘ですね」
「少しだけある」
「正直でよろしいです」
治療記録へ何かを書き込み、ミナは一歩下がった。
学院の中央測定室には、俺たち以外にも大勢が集まっている。
学院長。副学院長。ガルド教官。ロッカ。
零距離班の三人。
それから、旧訓練場で纏式の基礎を学び始めたテオたち。
壁際には、王国監査局の役人まで並んでいた。
「始めなさい」
学院長の声が響く。
俺は標的へ右手を向けた。
火の術式を組む。
胸から肩へ。肩から腕へ。
魔力は指先まで進み、そこで折り返した。
標的には、何も起きない。
測定板へ、見慣れた赤い文字が浮かぶ。
『放出距離――零』
室内の誰も笑わなかった。
俺も、もうその数字から目をそらさない。
「続けて、接触実技を」
測定官が言う。
腰の剣を抜いた。
レイヴは、以前より少し短い。
貯水湖で残った柄と鍔へ、ロッカが新しい黒銀の刃をつないでくれた。
芯に使われたのは、王都を発つ朝、ネーヴァが鍛冶場の前へ置いていった一枚の鱗だ。
刃には継ぎ目が残っている。
ロッカは消そうとしなかった。
『壊れなかったふりをする剣より、壊れた場所を知っている剣の方が信用できる』
そう言って、継ぎ目の上へ小さく四本の線を刻んだ。
三本の杭と、一つの核。
俺は測定台の手前まで歩き、レイヴの切っ先を黒い石板へ触れさせる。
流す魔力は、糸一本分。
触れている一点へ進め、石板の内側にある測定片だけを震わせる。
澄んだ音が鳴った。
黒い表面には傷一つない。
測定板の赤い零が消え、別の文章へ変わった。
『接触対象内部への術式伝達――成功』
『対象外部への魔力漏出――検出なし』
『総合判定――合格』
文字を見ても、すぐには実感が湧かなかった。
三年前から何度も見上げた板だ。
そこに今、初めて合格と書かれている。
「シオン・レイス」
学院長が、一枚の証書を持って測定台へ上がった。
「君の戦闘記録は、改定された実技規定に基づき再採点された。鉄翼竜戦、地下水路救助、第一結界塔および王都防衛戦。いずれも魔術師に必要な術式制御、安全判断、任務達成を満たしている」
証書が差し出される。
「これは功績に対する褒賞でも、特例による免除でもない。君が行った実技への、遅すぎた採点だ」
左手で受け取ろうとして、やめた。
まだ固い右手を伸ばす。
指に少し痛みが走ったが、証書は落ちなかった。
「ありがとうございます」
「ただし」
学院長が机から別の紙束を取った。
「筆記試験の不足分は、来週までに再提出しなさい」
証書より分厚い。
「竜を二頭落としてもですか」
「答案の空欄は埋まらん」
「当然です」
ミナが真顔でうなずく。
後ろでリゼが口元を押さえ、ダリオは隠す気もなく笑った。
「何がおかしい」
「落第仲間が一人減って残念なだけだ」
「お前は最初から落第してないだろ」
「首席推薦を燃やしたせいで、北境魔術隊の面接が一つ増えた」
「自業自得ね」
リゼの一言で、今度は俺も笑った。
◇
ヴァイス教授は、王国の法廷で裁かれることになった。
灰尾村の実証記録。
旧転送室の作動履歴。
誘竜樹脂の配合記録。
千条砲の封印命令。
教授が恐れていた竜害まで、嘘だったことにはされなかった。
結界塔の整備予算は見直され、研究も続く。
ただし、脅威を証明する者と実験を許可する者を同じ人間にはしない。すべての結界核と転送鍵には、複数部署の認証が必要になった。
守りたいという恐れが、誰かを数字へ変えないための規則だ。
学院の規則も変わった。
『魔力を術者から分離し、十メートル以上伝達すること』
実技規定から、その一文が消えた。
代わりに、術式の目的、制御、安全性を別々に測る項目が加わった。
旧訓練場には《近接魔術選択課程》の看板がかかっている。
初日の希望者は六十三人。
ガルド教官は全員へ木剣を配り、最初の一刻を傷の確認だけで終わらせた。
不満を言う生徒へ、テオが得意そうに説明している。
「最大出力は最後だ。まず、同じ弱さを百回続けるんだ」
少し前まで俺が教わっていた言葉だった。
「シオン先輩」
ミナが治療棟の窓から顔を出す。
「ネーヴァたちが発つそうです」
◇
学院の訓練湖に、二頭の竜がいた。
ネーヴァは左翼の補助具を外し、低い空を何度も旋回している。
その上を、アルガディアがゆっくり飛んでいた。
青い翼が広がるたび、湖面が端から端まで波打つ。
王都の人々はもう、砲台へ走らない。
湖岸に集まり、空を見上げている。
アルガディアは王都の上空を一度だけ大きく回った。
中央塔のそばを通り、翼を傾ける。
あの日できなかった、自分の意思で選んだ旋回だった。
ネーヴァが俺たちの前へ降りる。
鼻先が新しいレイヴの鞘へ触れた。
「今度は壊さない」
金色の目が細くなる。
信じていない顔に見えた。
「なるべく」
言い直すと、ネーヴァは満足したように喉を鳴らした。
鉄色の翼が風を押す。
傷ついていた左翼も、右と同じ高さまで上がる。
ネーヴァはアルガディアの横へ並び、二頭で北の空へ向かった。
青と鉄色の影が小さくなっていく。
「帰ったのね」
隣でリゼが言った。
「ああ」
「少し寂しい?」
「また会える」
「根拠は?」
「ない。でも、次は呼ばれなくても会いに行ける」
リゼは北の空を見たまま、小さく笑った。
そのとき、学院の伝書鳥が一羽、湖岸へ急降下した。
赤い封筒がガルド教官の頭へ当たる。
「誰だ、こんな投げ方を教えたのは!」
怒鳴りながら封を切った教官の顔が、すぐに任務用のものへ変わった。
「東方第三結界塔の近くで、未確認の竜影だ。住民の避難は開始済み。攻撃はまだ受けていない」
俺たち四人を見る。
「零距離班。行けるか」
ダリオが火槍を肩へ担ぐ。
「北境魔術隊の面接まで三日ある」
ミナが治療鞄を閉じる。
「シオン先輩が再提出を忘れない時間には戻します」
リゼは東の空へ風を伸ばした。
「今度は、どこまで運べばいい?」
腰のレイヴへ触れる。
測定板に記録された俺の飛距離は、今日も零だ。
それでも、そこへ行く道を作ってくれる仲間がいる。
「竜のところまで」
俺は答えた。
「帰り道も頼む」




