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「海。これなんてどうだい?」
「あら。こっちの方が素敵よ」
食事が終わり、海は同デパートの食器売り場へと連れて来られた。
そこで海は、輝と雫にどちらのマグカップがいいか問われていて。
海がねだったわけではないのに、二人の間では既に購入することが決まっているようだ。
海はもう自棄になりながら、輝の手にあるマグカップを見る。
(……俺は親父か……)
そこにあったのは、全体が渋い茶色で、縁が黒くなっているマグカップ。
世間的には悪い趣味ではないのだが、海の趣味ではないし、なにより海のような年代の少年が使うには早すぎた。
海は視線を雫の手元に向けて、目を覆いたくなった。
(俺は女か!)
そこにあったのはピンクで、猫のキャラクターが描かれている、可愛らしいマグカップ。
もちろん、海が気に入るわけはない。
「どっちもいやだ」
海が素直に告げると、二人は首を捻った。
「そう……?可愛いのに……」
「あんたがそう思っても、俺はそうは思わない」
雫に冷めた視線を送りながらそう言うも、彼女は気にするそぶりすら見せなかった。彼女は海に笑顔を向ける。
「じゃあ他のを選ぶわね」
そう言い、海の手を引きながら本当に他のマグカップを物色しだす雫。一方の輝も、雫達とは反対方向の棚で、一つ一つ真剣に吟味していて。
(本当、なんなんだこいつらは?)
今日何度目になるのかわからない疑問を、海は再び抱く。
なぜこんなにも真剣になれるのか。
なぜ自分なんかに意見を求めるのか。
海は全く理解出来ない。
今まで海が過ごしてきた家々では食器を与えられるだけマシだった。
ある家では空気として扱われ、食事も食器も与えられず、余りものや、深夜ゴミ箱を漁ったこともあった。
そんな日常を過ごした海にとって、この二人の行動は異常だった。
『無償の愛』というものが存在することを想像すら出来ない海は、絶対なにか企んでいると、警戒心を増す。
そんな海の胸中を敏感に感じ取った雫は、より一層、海を愛そうと心に強く誓った。
そう意気込み、雫は視線の先に止まったマグカップを手に取り海に見せる。
「海。これはどう?」
「――だから!あんたの趣味で選ぶな!俺は男だ!」
海の怒りは、ある意味当然といえた。
なぜなら、雫が手にしたのは、またもや可愛らしいイラストが描かれた黄色のマグカップだったのだから。
いつの間にか海達の背後に来た輝は言う。
「そうだよ雫。海は男の子なんだ。そんな女の子らしいものを選んだらかわいそうだよ」
海は輝の声がした方へと振り向いた。
無意識のうちに、味方が出来たと安心したのかもしれない。
しかし……。
「男の子の海には、こういうものが似合うと……」
「俺はおっさんじゃない!」
輝が手にしていた、またもや渋い色合いのマグカップを見て、輝の言葉を遮り海は声をあげた。
今までの家で、海は意見を言ったことはなかった。
初めの家に引き取られた時こそ、わがままを言ったり泣いたり、怒ったりしたこともあった。
しかしその度に怒鳴られ、殴られ。
そういう日常を過ごしているうちに、海は自分の感情を表に出すことはやめた。出す時はたいてい最初だ。
そうやって海は、暴力や無視といった、自分の馴染んだ歪んだ日常を、一人きりの日常を作り出すようにしてきたのだ。
児童養護施設でも、輝達に引き取られることになった今日も。
海は意図的に皮肉を言ったり、暴言を吐いたり。
そうやって自分の慣れ親しんだ環境を作り出そうとしていた。
今までの家でも、児童養護施設でも、それは上手くいっていた。海は常に一人きりだった。
しかし、今回は違った。
言われているうちに覚えてしまった暴言を吐いても、どんなに突き放すような、呆れるようなことを言っても、この二人は決して海を引き離すようなことはしなかった。それどころか進んで関わろうとしていた。
海の予定をことごとく裏切る二人に、海は戸惑いと一緒に、相当なストレスを溜めていた。
キレた、といってもいいだろう。海は今まで言ったことがないわがままを、ついに口にした。
「お前らが選んだら最悪なものになる!もういい!自分で選ぶ!」
海は知らない。この言葉を、海が自分の意見を言うのを輝達が待っていたことを。そのために二人は、わざと海が気に入らなさそうなものを選んでいたのだということを。
輝は微笑みながら言う。
「そうか。わかった。じゃあ海。肩に乗りなさい」
海に背を向けしゃがみ込んだ輝。それを見て、海は慌てた。
「なっ!?なに言ってるんだお前は!?」
狼狽する海に、輝は首だけを後ろに回し、海の顔を見る。
「なに、って肩車だよ。海の身長じゃあ、マグカップが見えないだろう?」
「それは……」
海はマグカップが置いてある棚を見上げた。
一番下の列のものがかろうじて見えるくらいで、海はそれ以上上を窺い知ることも出来ない。
輝の言葉は正論だった。
事実だけに、悔しそうに輝を睨み付ける海。
しかしそんなことをしても海の身長が伸びるわけでも、棚が縮むわけでもない。
輝は言う。
「しないのかい、海?しないのなら、また僕達が選ぶことになるけど?」
「――っ!」
輝を睨む海の瞳に迷いが浮かぶ。またああいう、自分の趣味ではないものを何度も見せられるのは、流石に彼も嫌なようだ。
逡巡ののち、彼は心を決めた。不機嫌な表情のまま言う。
「……肩車って、どうすればいいんだ?」
輝と雫は驚いた。この年齢であれば、誰もが一度はやってもらった経験のあるものを、彼は知りすらもしないのだ。
輝は怒りに沸いた。海を今まで引き取り育ててきた、名も顔も知らない人物達に対して。
(彼らはこの子になにをしてきたんだ!?自分の子供でなければ、どうでもいいというのか……!?)
輝がなにに対して怒っているのか、正確に把握している雫は、誇らしくなった。自分の伴侶に、彼を選んでよかったと、心から思った。
雫は、海の脇の間に手を入れ、優しく彼を抱き上げる。
「な、なにする……」
「これが肩車」
慌てふためく海を輝の肩に乗せ、雫は優しく笑った。
「海。きちんとつかまっているんだよ」
「は?……うわ!?」
理解を示さない海をよそに、輝は海の両足をしっかりと押さえ、立ち上がる。
突然の事態に、海は取り乱した。足が地面から離れる経験など、したこたがなかったのだ。
落ちないように、輝の頭を思い切り抱きしめる。
輝は顔に苦笑いを浮かべながら言う。
「海。もう少し力を弱めてくれないか?流石にちょっと頭が痛いよ」
いくら線の細い体とはいえ、七歳の男の子。力はそれなりに強い。それに火事場の馬鹿力というものもある。海にとって、地から足が離れる初めてのこの経験は、命の危機をを感じるのに充分なものだった。
「だって……!こんな!足……!」
海が初めて見せた年相応な反応が嬉しくて、雫は小さく笑った。
口元に微笑みを浮かべたまま、彼らに歩み寄り、雫は海の背を押さえながら言う。
「大丈夫よ、海。輝さんはあなたを絶対に落としたりしないわ。心配だったら私が落ちないように背中を押さえていてあげるから。だから、ゆっくりと手から力を抜いてみて」
雫の顔を不安そうに見る海に、雫は優しく笑いかける。
「大丈夫よ。私達は絶対にあなたを落とさない。信じて」
「……」
海は考えた。本当に信じていいのかどうか。
これまでの言動を見ていると、この二人は海が知っている大人達とはだいぶ違う。
しかしそれでも、と海は考えてしまうのだ。それほど、海の他人に対する猜疑心の根は深い。
いきなりこんなことをされれば、海は絶対に信じなかっただろう。
しかし、この数時間の積み重ねが、二人の無償の愛が、少しだけ、ほんのわずかではあるが、海の心を開いた。
恐る恐る、しかしゆっくりと、海は輝の頭を抱く腕の力を緩める。
「うん。まだちょっと痛いけど、怖いならそれくらいでも大丈夫だよ」
「怖がってなんか……」
「じゃあ、背中を支える手を離しても大丈夫かしら?」
「――っ!」
笑いを含んだ雫の言葉に、海は再び輝の頭を強く抱いた。
「海……痛い……」
再び訪れた痛みに輝が声をあげるが、それが海に届くことはなかった。
海は首を回し、雫を睨みつける。
しかし、雫は平然と笑顔を浮かべていた。
「嘘よ。離したりしないから」
「信じられるかっ!」
ほえた海に、雫は「あらあら、どうしましょう」と笑っていて。
「輝さん。我慢出来る?」
「……なんとかね」
雫の質問の意図を正確に理解した輝は、頭痛に耐えながらも頷く。
雫は海の背中を押さえながら、輝に向かい言う。
「じゃあこのまま選びましょうか。海が信じてくれるまで、我慢してね」
「了解。じゃあ端から見て行こう」
そう言って歩き出す二人。
輝が一歩踏み出す度に彼の肩の上にいる海は怖がり、目を閉じいっそう輝の頭にしがみついたが、輝は無理矢理痛みに耐え歩き続けた。
マグカップが並ぶ棚の一番端まで歩き、輝は歩みを止める。
「さあ、海。好きなものを選んで」
輝の言葉に、海はつぶっていた目をおっかなびっくりと開く。
首を回し、雫の顔と背中の手を確認してから、海はゆっくりと視線を棚へと向ける。
並ぶ、様々な色と形のマグカップ。
海は言われるがまま、視界に映るマグカップを一つ一つ見やる。
しかし、海は戸惑った。
今まで彼に選択肢などは存在せず、ただ与えられたものを使っていたにすぎない。
彼は、自分で選ぶ、という行為に慣れていなかった。というより、輝達に引き取られ、彼は初めてその権利を与えられたのだ。
それゆえに、彼は選ぶという行為が、とても苦手だった。
輝達に引き取られることを決めたのは、どこにいても変わらないと思ったからだし、昼食の時彼がハンバーグを選んだのは、単に目についたからにすぎない。
自分で言い出したことではあるのだが、海はとても困っていた。なにを選んだらいいのかわからないのだ。
輝が選んだような年配向けなものと、雫が選んだような少女向けなものは除外するとしても、それでもまだ種類はある。
(でも、どれでもいいとか言うと、こいつらはまた変なものを持ってくるし……)
どうするべきか、海はとても頭を悩ませた。本人は自覚していないが、海が悩むなど、実に数年ぶりのことだ。
それと、これも海の意識の外のことだが、彼が悩むことによって輝を抱きしめる力が弱められ、輝は胸を撫で下ろしていた。
もう一度この棚を見やるが、やはり『これ』というものはなく。
海はため息を吐いてから、輝に告げた。
「……向こう、見たい」
「わかったよ」
頷き、隣の棚に歩き出す輝。
その時、海が再び彼の頭を強く抱いたのは、言うまでもない。
先ほどまで見ていた隣の棚の前で輝は足を止める。
彼に促され、揺れが治まったのを確認した海はゆっくりと目を開け、先ほどと同じように一つ一つ見ていく。
しかしそこでも海はなにを選んだらいいのかわからず。
(この際、適当に選べばいいか)
そう思った時だった。海の目に、あるマグカップが留まったのは。
それはいたってシンプルなマグカップだった。
飾り気もイラストもない、全体が水色のマグカップ。
自分でもなんでそれが気になったのか全くわからない。
しかし、それを見た瞬間、それにしようと決めていた。それ以外目に入らなくなってしまった。
「……あれがいい」
輝の頭に抱きつきながら、海はそれを指差す。
海の指先を追い、輝は腰をかがめ一つのマグカップを指差した。
「これかい?」
輝が指差したのは、あるキャラクターが描かれたマグカップ。
まさか海のような少年が、飾り気のないものを選ぶとは思わなかったのだろう。
「……その隣」
海はきちんとそれを否定し、自分の意見を述べた。
――彼は気づかない。
流されるでもなく、ただ受け入れるでもなく、今、きちんと自分の意見を言ったことに。
海の指示に従い、輝は隣の、海が選んだ水色のマグカップを手に取った。
「これ?」
首を捻り、横目で海の顔を見ながら輝は聞いた。それに対し、海は無言で、小さく頷く。
海は、急に怖くなった。
今彼は、初めて選択肢を与えられ、そして自分の意思で選択をした。
……だからこそ怖くなったのだ。
もしもそれを否定されたら、そう考えて、海は怖くなった。
確証があるわけではないが、今、海の意見が少しでも否定されたなら、彼は二度と自分の意思を持つことは出来ないだろう。
しかし……。
「なるほど。海はこういうシンプルなものが好きなのか。いい趣味をしているね」
「え……?」
輝はマグカップを見ながら海のことを褒め。
「いい色ね。海の名前と同じ、海の色。綺麗な水色」
雫も輝と同じように、少しも海の意見を否定しなかった。それどころか認め、優しい笑顔を海に向けているのだ。
この時海は、自分の胸に暖かい『なにか』が生まれたのを感じた。
その暖かい『なにか』が胸にあると、なぜか笑いたくなって、そして、無性に泣きたくなって。
知らないもの。経験したことのないもの。
……けど、不思議と怖くはなかった。
「それじゃあ海。次はお箸を選ぼう」
輝の言葉に、海は静かに頷く。
海は自覚していない。
胸に暖かい『なにか』が生まれてから、輝の頭に抱きつく力が弱まっていることに。目を、閉じなくなっていることに。
海は知らない。
その『なにか』が自分を変えることになることに。
海は、気づいていない。
自分が今、小さい笑顔を浮かべていることに……。




