第2話 折れた剣(前編)
気づけば──どうやら小さな舟に乗っている。
薄いもやに包まれて、周囲の様子はうかがい知れぬのであるが──それでも、水上を進んでいることだけは、感覚でわかる。もしや、すでに死していて、あの世への河を渡っているところではあるまいか、と想像したところで。
「気づきなすったか」
と──もやの向こうから声が届いて、思わず曲刀の柄を握る。
「そんな物騒なもん、握らんでくだせえ」
どうやら、そのもやは朝もやのようで──風に吹かれて、船頭であろう、老爺の姿があらわになる。
「──何者か?」
「あっしは、ただの船頭でさあ」
俺の詰問に、船頭は舟を漕ぐ手を止めて、のんきにそう返す。俺は毒気を抜かれて──ひとまず曲刀の柄から手を離す。
そうして、いくらか緊張がほぐれたからであろうか、俺は身体中に痛みを感じて、思わず顔をしかめる。ほとんどは浅い切傷であるが、トーラスに斬られた左目は深手である。俺は、左手で傷口を押さえて、その痛みをこらえる。
「流れてきた旦那方を、たまたまみつけて、舟に引っ張りあげたんでさあ」
旦那方──そう言われて、慌てて振り向いて──寝息を立てるルシオンの姿を認めて、安堵の胸をなでおろす。
「旦那方、リメルスの──ベラトールからの落人でしょう」
何があったかは聞き及んでおります、と船頭は俺の境遇を憐れむように続ける。
「でも、ご安心くだせえ。ここはリメルスではございませんから」
「大河──ドランか」
船頭の、リメルスではないという言葉と、眼前に広がる海のような大河の様に──自らが、国境を越えて流れるドラン河にいることを悟る。
「あの世に渡るという河かと思うたぞ」
状況を把握して──少なくともトーラス軍からは逃げ切ることができたという安堵からか、そんな軽口が口をついて出る。
「さすがにあの世までは漕げませぬが、ブロンダルまでなら、お送りすることもできます」
ブロンダル──それはリメルスの北方に位置する隣国である──が、間に山脈を挟んでおり、それほど国交が盛んなわけでもない。ひとまず落ち延びるにあたっては、まずまずの立地であると言えよう。
俺は懐から財布を取り出して、船頭に銀貨を手渡す。
「渡し賃は──これで足りるか?」
手持ちに余裕があるわけではないが、命の恩人に礼もしないのでは、騎士道に反する。
「十分でごぜえます」
船頭は銀貨を懐に収めて──再び舟を漕ぎ出す。
船頭の語るところによると、トーラス軍による辺境都市ベラトールの襲撃から、すでに一昼夜が過ぎているのだという。リメルス王は、襲撃から逃げ延びたものを捕らえるよう、触れを出しているとのことで──ベラトールを根絶やしにするがごときその所業に、俺は心底からの怒りを覚える。
「俺たちを売らぬのか?」
俺は船頭に問う。俺たちを売れば、おそらく先の渡し賃よりも、多くの懸賞金をもらえるであろうに。
「あっしは、ベラトールと商売をしてたんでさあ。リメルスとじゃあ、ござんせん」
船頭は振り向くことなく、舟を漕ぎながら答える。
「皆、気のいい連中ばかりでした」
船頭は、悼むようにそう言って──俺は、若様、若様、と呼びかける、市場の民の姿を思い起こす。ベラトール領主の嫡男として、彼らの無念を晴らさねばならぬ、と決意を新たにする。
「それ、もう着きますよ」
舟は、ゆるりと速度を落として──対岸との渡し場であろう、船着き場に鼻先を寄せる。俺は、船頭にうながされるまま、いまだ目を覚まさぬルシオンを背負って、舟から降りる。
「道を行けば、一日もせず、ブロンダルの都にたどりつけましょう」
言って、船頭は自らの糧食を、いくらかわけてくれる。
「──かたじけない」
「なあに──お代はしかともらっておりますので」
俺の礼に、船頭はからりと返す。先の渡し賃では、とても糧食分までは賄えぬであろうに、小気味のよい老爺である。思わぬ出会いに感謝する。
俺は、船頭に別れを告げて──ルシオンを背負ったまま、道を歩き出す。道は、渡し場に続くだけのもので、さほど整備もされておらず、歩きづらい。その揺れで目を覚ましたものか、俺の背でルシオンがもぞもぞと動き出す。
「──若様?」
ルシオンは、後ろから俺の顔をのぞき込んで──誰に背負われているやら気づいたようで、慌てて背から降りようとするのであるが。
「このままでよい。まだ歩けまい」
その力のあまりの弱々しさに、俺は彼女を背負い直す。
「ルシオン──何が起こったか、覚えているか?」
俺の問いに、ルシオンは脅えるように首を振る。
「俺は嘘がつけぬ。ゆえに、正直に言う。ベラトールは──おそらく滅んだ。お前の父も母も、死んだであろう」
その言に、ルシオンは俺の背に額を押し当てる。おそらく、彼女はすべてを覚えている──覚えていて、それでも夢であってくれれば、と願うような心持ちだったのであろう、と思う。彼女は嗚咽を漏らして、俺の背を濡らす。
「他にも生き残りがいることを願うが──今は俺とお前の二人しかおらぬ」
俺は、ルシオンの嗚咽に気づかぬ振りをして、そう続ける。
しばらくの間、ルシオンは黙りこくる。やがて、泣き疲れて、嗚咽もやんだ頃──彼女は、俺の耳もとで、ささやくように呼びかける。
「──若様」
「若様はやめろ。今や俺たちは追われる身。俺のことは──気軽にラガンと呼べ」
俺は、首だけで振り向いて、できるかぎりやわらかく笑ってみせる。
「ラガン──様?」
「呼び捨てでよい。俺もお前のことをルシオンと呼ぶ。兄妹ということにしておこう」
俺はとっさにそう決める。
「ルシオン」
「──ラガン」
彼女の名を呼ぶ俺に、ルシオンはおずおずと返して。
「よし!」
俺は彼女の頭をなでて──目指すブロンダルの方角に向き直る。
「とりあえずは──生き延びるところから、だな」




