第149話 :「練習漬けの美月が、己の壁を打ち破る」
あれから、俺たちはずっと(霊素)の練習と(聖典)の読解を繰り返していた。もう二週間近く経つが……残念ながら、三人の進み具合はあまり良くなかった。ようやく最近になって、自分の中に(霊素)があることに気づけたくらいだ。
「おめでとう、みんな。やっと第一段階の訓練を突破できたのね。よく頑張りました、えらいわ。でも――ご褒美がほしいなら、(霊素)の操り方を覚えた子だけがキャンディをもらえるのよ? さあ、もう一度輪の中に戻って練習を続けましょうね~」
ルリエ先生は優しく祝福の言葉をかけながらも、容赦なく現実を突きつけた。その瞬間、みんなの肩が一斉に落ちる。無理もない。あれだけ嫌いな宗教っぽい(聖典)を必死で読んで、《霊素結晶糖》――いや、キャンディのために頑張ってたんだからな。
……ん? 美月が輪の中で寝転がってる。白銀色の尻尾をくるくると巻きながら、片手でちょいちょいと弄んでいる。耳もぴくぴく動いてて、完全に遊びモードだ。
「……はあ」俺はため息をつきつつ近寄り、しばらくその様子を眺めた。彼女は気づかず、小さく呟いた。
「今日の尻尾ちゃん、特にふわふわしてますねぇ……ふにゃ……」……やっぱり変わったよな、美月。俺は苦笑いを浮かべながらそう思った。
日本にいた頃の美月はこんなんじゃなかった。明るくて、誰とでも話せるタイプで、クラスの人気者だった。でも、ひとたびペンを持てば、三時間は黙々と課題をやり続ける集中力の塊でもあった。
正直、彼女のノートがなかったら、俺なんてとっくに落ちこぼれ組に送られてたはずだ。うちの学校、成績主義だったからな。下のクラスは本当に地獄だった。
それが今はどうだ。すっかり猫そのものだ。気まぐれで、感情に正直で、思いついたままに行動する。
……きっと、キャンディをもらえないってわかって、あっさり諦めたんだろうな。さっきまであんなにスイーツを楽しみにしてたくせに。
そんなことを考えていると、胸の奥でひとつの思いが芽生える。
――美月を助けたい。
だって、ここまで来られたのは、美月の支えがあったからだ。もし本気でキャンディが欲しいなら、俺が力になってやりたい。
「……美月」小さく名前を呼びながら、俺は手を伸ばす。美月の耳がぴくりと動いたが、返事はない。まだ尻尾を頬にすりすりして遊んでる。仕方なく、俺はそっとその頭を撫でた。
「ん……んん? どうかしましたか、瑛太さん?」
ようやく振り向いた美月の目は、とろんとして眠たげだった。それでも、嬉しそうに俺の手に頬をすり寄せてくる。
「なにしてんだよ。今は(霊素)の練習の時間だろ」
「……自分の尻尾を触ってました」少し考えたあと、堂々とした声で答える。
「なんで自分の尻尾で遊んでんだよ。こんなんじゃ、いつまで経ってもここから出られねぇぞ」俺が注意すると、美月は一瞬目を泳がせて、申し訳なさそうに呟いた。
「でも……この力の使い方、全然わからないんですもの。「正霊素」とか言われても、なんかこう……ふわっとしていて、つかめないというか~。聖典も内容がほとんど説教みたいですし。まあ、道徳教育の教科書だと思えばいい話ばかりなのですが、さすがに飽きましたにゃ~」
そう言って、彼女は体をくるりとひっくり返し、輪の中にごろんと寝転がった。ちょっと躊躇した俺の頭に、ふとルリエ先生の言葉がよみがえった。
「瑛太君、あなたは(正霊素)と(負霊素)を同時に持っているのよ」
「瑛太君の(神聖魔法)は本来、(正霊素)を前提にプリセットされているの」
「(神聖魔法)は“魔法”という言葉だけで括れるものじゃない。もっと自由なのよ」
――そんなことを思い出して、俺は小さく息を吐いた。
「……よし、やってみるか」俺は呟き、迷いながらも美月の頭を撫で続け、そっと手を彼女の胸、心臓のあたりに当てた。心臓は霊素を最も感知しやすい場所だ。
その瞬間、俺は(神聖魔法)を起動した。今回はいつもの“元素っぽい”やり方でもなければ、スキルとしてガチガチに発動するやり方でもない。物語の中の聖女のように、詠唱も型もなく、自分の思考と霊素に沿わせて世界を変えていく――そんな、柔らかい魔法だった。
美月が小さく震え、耳をぴんと立てる。抵抗はしない。呼吸がゆっくりになり、彼女は目を閉じて自分の中の霊素を感じ始めた。どうやら、俺の霊素に包まれたことで、彼女の(正霊素)がゆっくりと応答し始めたらしい。
それは磁石が反発し合うようなものではなく、風が交差して舞うような感覚だった。見えない波動が空気を撹拌して、まるで交響曲のように空間の中で鳴り始める。その“風”が美月の体内で旋律を作り始めたのを、俺ははっきりと感じ取った――導けている、導けているぞ。
彼女の(正霊素)は、ようやく道を見つけたかのように、混乱から落ち着きを取り戻して循環し始める。しかも、ただ俺が引っ張っているだけじゃない。美月自身も、霊素の流れに少しずつ馴染んでいるのがわかった。
「……え、何これ?」美月が目を見開き、小さな驚きの声を漏らす。
俺は低く囁いた。「感じるだろ? それが君の中にある(霊素)だ」
「……なんだか、体の中が光っているみたいです。朝の太陽のような光が、体の内側からじんわりと外に広がっていく感じで……温かいのです。」美月はぽつりとそう言った。丁寧で、でも幼い驚きが混じった声だ。
背後から優しい声が降ってきた。「瑛太君の才能、開花してきたわね」振り向くと、ルリエ先生がいつの間にかそこに立っていた。
「そうよ、スキルがすべてじゃないの。練習すれば、自分のやりたいことは自分でできるようになる。この、他者の霊素を導く力――それが瑛太君がここ最近積み上げてきた訓練の成果なのよ」先生は俺を誉めてくれて、俺はちょっと照れてしまった。
「えっと、あ、ありがとう、先生」
「それから、美月ちゃん。人の手を借りるのは恥ずかしいことじゃないわ。瑛太君の導きをしっかり感じてごらんなさい。そうすればきっと、あなたは突破できるはずよ。頑張ってね」
美月は目を閉じ、俺の導きを悪戦苦闘しながらも必死に学ぼうとした。俺たちは一時間ほど集中して取り組んだ。やがて、そっと俺が手を離す。
補助がなくなっても、美月は自力で霊素を導き続けた。彼女の前方に白い光の渦がふわりと現れる。神聖属性の香りは強くはないが、それが確かに(正霊素)であることは疑いようがなかった。
「やった……成功しました、ありがとう、瑛太さん」
俺の胸には静かな喜びが満ちた。美月も目を開けて、満面の笑みを浮かべている。
――ついに、美月は自分の霊素を使えるようになったのだ。