第141話 :「命がけでキャンディを取り合うなんて、まるで子供か!」
俺たちは進展が遅すぎて、何日も連続で霊素の授業を続けていた……だが、この日は少しだけ違った。
美月たちのいつもの騒がしい声を意識の外に追いやり、ひたすら座禅を組んで自分の内側を探る。すると――俺の掌に、淡い灰色の光がじんわりとにじみ出ていた。
それは(負霊素)の輝き。まだ消えかけの微かな光だったけど、俺はようやく“制御”じゃなく“感受”でそれと触れ合えるようになってきていた。
「いい子ね、瑛太君。ここで落ち着けたなら、大事なことを一つ覚えていきましょう」
ルリエ先生が俺のそばに歩み寄り、膝を折って、肩にそっと手を置いてくる。……ちょ、ちょっと待て! 本当に肩に触られたぞ!?
「それは、自分ひとりで霊素の存在を察知できるようになること」一瞬の成功と、先生の柔らかな手の感触に舞い上がって、俺は大事なことを聞き逃すところだった。
「……先生、それって、この施設に頼らず、自分で霊素を見つけろってことですか?」
「そうよ。星からは霊素が溢れているけれど、あなたの魂の奥底にもちゃんと流れているの。使いこなしたいなら、まず日常の中でそれを知覚できなきゃダメ。外部の補助ばかりに頼っていたら、いつまで経っても本当の意味では扱えないものよ」
ルリエ先生は笑みを浮かべて優しくそう言った。
「……なるほど。じゃあ、俺も自分の力でやってみます」
小さくそう返して、俺は輪の外に出て再び座を組み、自分の内側を見つめることにした。
……正直、ちゃんと理解できたわけじゃない。手探りでやるしかない。感覚としては、子供の頃に水泳を覚えたときみたいだ。体を強張らせるとすぐ沈む。けど力を抜いて水に委ねれば、自然と浮かんで泳げる――そんな感じだ。
俺が少しずつ手応えを掴み始めていたのに対して――
「なんで霊素は無視するのですか……もう跪いて拝んでいるのに、にゃあ……」
「うぅ……さっきは光ってたのに、なんで消えるんだよ……!」
「ちょ、ちょっとで掴めそうだったのに! 絶対さっきの瑛太の負霊素が邪魔したんだ!」
美月、凛、梓の三人は、半分崩壊しかけていた。
机に突っ伏して耳だけぴくぴく動いてる美月、尻尾を痙攣させてる凛、そして興奮しすぎて尾をぶんぶん振りながら責任転嫁してくる梓……もう顔つきなんて、今にも宣戦布告する兵士みたいだ。
「ふむ……どうやら学習のペースが、ちょっと噛み合っていないようですね」
ルリエ先生が一通り様子を眺めてから、なにか決めたように顔を上げた。
そして懐から取り出したのは、三冊の薄い絵本。
表紙には、森の中央に立つ月の女神らしき存在と、手を繋ぐ天使と不死者の姿が描かれていた。
《ルナリア聖典(児童図解版)》
「これは霊素の初心者には必読の本よ~。ルナリア様が自ら記した物語と霊素の基本が描かれているの。ちゃんと読んでね」美月が受け取って数ページめくると、表情がみるみる変わっていく。
「……これ、ただの宗教の絵本にゃ」
「……こういうの、瑛太が好きなアニメにもあった。洗脳組織が配るやつだろ」
「三ページ飛ばし読みしただけで分かったわ。どう考えても実用じゃなくて宣伝用の冊子」
ルリエ先生はぱちくりと瞬きをして、まるで予想外の反応だったかのように黙り込んでしまった。
ルリエ先生はゆっくりと、ゆっくりとポケットから何かを取り出した。
それは――一粒の飴だった。
半透明で琥珀色に光るそれは、まるで陽の光を浴びた蜂蜜の雫みたいに見えた。
「はい、瑛太君。よく頑張ったご褒美よ~。これは《霊素結晶糖》。霊素の導きを初めて成功させた子だけにあげる特別なお菓子。今日の分は、瑛太君だけね」先生はわざと「成功した子のご褒美」を強調して言った。
……いや、ちょっと待て。先生、あんたただのホログラムだろ?なんで普通に俺の肩に触れたり、物を取り出せたりしてんだよ……まあ、その疑問は一旦横に置いとくか。
「え、俺……ほんとに食っていいのか?正直、俺は味がわからねぇんだ。匂いも鈍いし、食感はあっても味は一切感じられねぇ。だからいつも美月たちに味付け任せてるんだよ。俺が料理すると、濃すぎてアウトだからさ」
進化して肉体はあるけど、食事はただ口に入れるだけの作業。噛んでも噛んでも、無味のガムを延々と噛まされてるような気持ち悪さ。だから俺は、ずっと避けてきた。
「もちろん大丈夫。特製の飴だからね。口に入れればすぐわかるわ~。アンデッドだってちゃんと味わうことができるのよ。先生を信じて、一度試してごらんなさい?」
ルリエ先生の笑顔に押されて、俺は恐る恐る飴を受け取った。思考より先に、口の中へ放り込む。
――瞬間。
飴は舌に触れたとたん、ふわりと溶けて消えた。
べたつきは一切なく、代わりに甘みが脳内にふわっと花開くように広がる。
そして、その味と同時に、胸の奥に懐かしくて温かい気配が静かに満ちていく。
甘い。うまい。ただそれだけじゃない。
心の底がじんわりと満たされていく――そんな、幸福の味だった。
「……あぁ。普通にうまい……ほんと、うまいじゃねぇか」
「瑛太、今……めちゃくちゃいやらしい声出したにゃ……」美月が目を丸くして俺を見てる。
「ちょっと……高貴ぶった顔で味わいやがって……許せん……!」凛なんか、尻尾の鱗をバキッと握り潰してた。
「今の顔……完全に幸せそうだったよね!?ずるすぎるでしょ!!」梓まで目を細めて俺を睨んでくる。
「いや、俺のせいじゃねぇだろ!! 二ヶ月ぶりに味を感じたんだぞ!?そりゃ顔にも出るだろ!」俺は必死に抗議する。
ルリエ先生は咳払いひとつして、にっこり笑った。
「さあ、みんなも頑張りましょうね~。聖典をちゃんと読んだ子には……もしかしたら飴の秘密が見つかるかも?あるいは、先生のポケットから普通の飴が出てくるかもしれないわよ~」
その言葉が終わるや否や――三人の反応は爆速だった。三十秒も経たないうちに、美月も凛も梓も、机に顔を突っ込む勢いで聖典を読みふけっている。
「ね、美月!第六ページ見た!?霊素の構成について載ってる!ここ、絶対ヒントだよ!」
「な、なぜ先に進んでいるのですか!? 私はまだ五ページなのに! 凛、ページを飛ばしたのではないですか!? 反則でしょう!」
「(感情による負の波動は自律的に同調する……? 調整できなければ霊素の不均衡を招く……?)……これ、文語すぎない?誰が子供向けって言ったんだよ!」
……うん。飴のためには必死すぎるだろう。飴ひとつで、全力を出す姿なんて……まるで幼稚園児そのものだろ。
「……はぁ。ほんと、君たちは……」
俺はそうぼやいて、壁にもたれながらため息をついた。目の前には、丸テーブルにかじりついて本を読む三匹――猫と、狐と、トカゲ。その必死すぎる姿を見ながら、俺はただ苦笑するしかなかった。