第133話 :「《勇者編》危機を抜けたら、より大きな危機が待っていた」
私たちは後退を続けていましたが、それでも後ろから不死者たちがじわじわと取り囲むように迫ってきていました。
皆の顔色はみるみる悪くなり、私自身も呼吸が苦しくなってきて、頭が重く痛み始めていました。
このままでは――全員がこんな状態で、群れをなした敵と戦うことなどできません。しかも、今は「倒してはいけない」という制約があるのです。そんな条件で戦えば、私たちは本当に詰みます。
頭痛のせいか、思考がどんどん鈍っていきました。こんなに何も考えられなくなるのは、異世界に来て以来初めてかもしれません。
いや、違うかもしれない。あのとき、王国で貴族たちに押さえつけられたときも、私は無力さを感じた――でも、そのときは違った。あのときは、仲間を守るために私の言葉を聞いてくれるはずの人たちが声を上げてくれなかったから、無力だった。
今回は違う――私には力があるのに、守れない。自分の力を発揮して仲間を救えない、そんな状況に追い詰められているのです。
どうすればいいのか。思考が同じところをぐるぐる回って、目の前の景色がぐらつき始めました。怖い。誰にも頼れないという不安が、私を動けなくさせるのです。
ああ、もう駄目かもしれない。頭の痛みがどんどん増して、判断力が奪われていく。重要な局面なのに、何もできない。息苦しさが胸を締めつけて、涙が勝手にこぼれてしまいました。
「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな」
私は心の中で何度も謝りました。こんな時に、私一人で決断して皆を救うことができなくて、本当に申し訳ないと。
――そのとき、背後でかすかな声が聞こえました。誰かが私を呼ぶように、触れるように。振り向く余力もなかったけれど、その声は私の耳元で囁きました。
「澪……倒してはいけない……ということは……戦うなということ……ではないのよ。正確に言えば……敵を殺さない……ということなの――」
エミリアさんの声でした。彼女は弱々しく、かろうじて意識を取り戻していたのだと思います。朦朧としながらそう囁くその声に、私はハッとしました。
「倒さない……?」
その言葉がぽんと胸に当たり、ぱっと視界が晴れるような感覚がありました。まるで天啓のように、頭の中でギアがカチッと噛み合ったのです。
そうだ、倒す必要はない。ここで敵を無理に殲滅しようとすれば、かえって大地のバランスをさらに乱し、負化を促進してしまうかもしれない。けれど――戦うこと自体を放棄するわけではない。敵を制圧し、動きを止め、私たちを襲わせない方法があればいいのだ。
その瞬間、私は使える魔法を思い巡らしました。上級の水魔法――これならば、殺傷力は高くなく、むしろ拘束や制圧に向く術があるはず。たとえ一見して威力が弱くても、水の力で敵の動きを鈍らせることができれば、時間を稼げる。しかも、水源が豊かな場所であれば、消費魔力も抑えられる可能性があると記憶が告げました。
私は深く息を吸い、意識を魔力へと集中しました。頭痛はまだ残っているけれど、今は思考の淀みが少し晴れてきた気がします。エミリアさんの言葉が、私の中で確かな灯火になったのです。
「水の精霊さま……どうか私の願いをお聞きください。この枯れ果てた大地に命の源を注ぎ、水が私の意志に従って流れ、世界を再び潤わせてくださいませ――!(オーシャニック・タイド)!」
詠唱を終えた瞬間、私たちの周囲に水流が生まれ、それはみるみるうちに波となって広がり、不死者たちをまとめて巻き込みました。
突如足元をさらう奔流に、不死者たちは次々と体勢を崩し、転げるように遠くへ押し流されていきます。
「……っ、よかった……!」
敵が押しやられたことで、胸の奥にようやくわずかな余裕が生まれました。これで、冷静に次の行動を考えられます。第一段階――水による地形の創造は完了しました。
しかし、不死者たちは転倒しても立ち上がり、再びこちらへとじわじわ近づいてきます。そこで、上級水魔法の第二段階を発動しました。
私たちを中心に高く巻き上がった水が、外側へと奔流となって流れ、不死者たちへ襲いかかります。
多くのスケルトンは体重が軽く、あっけなく波に吹き飛ばされていきました。飛ばされたスケルトンが仲間に激突し、肉体を持つゾンビたちも次々と体勢を崩していきます。
私はさらに波を操って、背後にいた不死者たちを前方へとまとめて押し流し、退路を確保しました。その瞬間、私は後方の水を切り開き、細い「水の回廊」を作り出しました。
「皆!今です!この隙に退きましょう!早く!」
声を張り上げると、皆は残された力を振り絞り、後方へと必死に走り出しました。私は真白さんや梨花さんを支えながら、ひたすら新たな波を生み出し、不死者たちが立ち上がる隙を与えません。
けれど――簡単には終わってくれませんでした。境界まで、まだ一キロ。
けれど、私の魔力はすでに限界に近づいていました。これほどの規模の水を創造するだけで莫大な消耗を強いられ、さらに波を生み出すたびに魔力が削られていきます。
十秒ごとに波を作らなければ持ちこたえられず……あと二度放てば、私の魔力は完全に枯渇してしまうでしょう。
――そのとき。
「な、何ですか……あれは……!」
前方に、三メートルはあろうかという巨人型の不死者が現れました。その巨体はあまりに重く、波の力ではびくともしません。
私は必死に魔力を絞り出し、通常の倍の高さの波を生み出してぶつけました。巨人はようやく押し流されたものの――その代償に、私の魔力は空っぽに近づいてしまいました。
「……だめ……これ以上は……!」
唇を噛みしめる。もし波を作れなくなれば、この「水の領域」そのものが消え去ってしまいます。
あと八百メートル……。なのに、もう一歩も維持できそうにありません。
「どうすれば……どうすればいいのですか……!」
私は必死に足を動かしながら、心の中で泣きそうな声をあげました。胸を締めつける焦燥感が、涙と共にあふれ出しそうでした。