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『ダークナイト・ライジング』:映画

ネタバレ有り。




















 ダークナイト・ライジングを見に行った。面白かったのは面白かった。ただ、前作『ダークナイト』には遥かに及ばなかった。

 前作『ダークナイト』の内容は、見たのがかなり前であるのであまり詳しくは覚えてないが、善と悪の葛藤、ジョーカーの策略など、エンターテイメントとテーマ性を完全融合させた傑作であったと思う。

 今作『ダークナイト・ライジング』にもそれと同じことを期待していた。3部作の最終章ということで、当然そうくるだろうと思っていたのだ。

 ところが、実際に見てみると『ダークナイト』でA級だったのが『ライジング』ではB級アクション映画に成り下がってしまっている。先ほど述べたように、B級アクション映画でもしっかりとした作り込みだし、二時間半以上に渡って二転三転し続け観客の目を離さない物語構成も見事だったし、だから面白かった。

 だが、一番期待していた「テーマ性」が完全になくなっていたのは、少しガッカリしたと言わざるを得ない。

 『ライジング』では、前作『ダークナイト』で死んだ(ことになっている)デントの作った「デント法」によって警察権力が強化され、ゴッサムシティには久方振りの平和が訪れていた。そしてこの警察権力を強化したデント法の結果、町の貧富の格差が広がったという。

 ここでデント法についてだが、具体的にこの法律の中身について、詳しいことは全く語られていない。ただ、作中人物の断片的な説明と、私の映画を見た解釈から「デント法によって警察権力が強化された」と推測して話を進めていきたい。

 そして上記のデント法の説明で、大半の人は疑問に思ったはずだ。「なぜ警察権力の強化が貧富の格差につながるのか?」と。

 「デント法のせいで貧富の格差が広がった」は私の想像でも推理でもなく、映画の中で述べられている「真実」である。

 ただ、この真実を聞いても、大半の人はそれをすんなり受け入れられないはずだ。なぜ、治安維持のための警察権力の強化が貧富の差を広げることになるのか。それに対する説明なしに物語が進んでいくことが、結局はテーマ性を失う原因になってしまったのではないだろうか。

 これがたとえば「警察権力の強化」→「警察が強化された権力を濫用して汚職する」→「警察権力とそれに群がる新たな既得権益層は肥太るが、それ以外は貧しいまま」→「結果貧富の格差増大」ならまだ話は分かる。しかし、作中でも特に警察が腐っているとか、汚職で儲けているとかいう描写は全くなかった。むしろ最後の方では市民のために命懸けでヴェイン軍に立ち向かっていく、高潔な戦士として描かれている。

 もし描くなら、先のような「権力の強化によって腐敗した警察」を描けばもっと「善と悪の混沌とした状況」を描けたのではないだろうか。そしてその混沌状態から、バットマンが自身の正義を信じてもう一度「ライジング」するからこその『ダークナイト・ライジング』なのではないだろうか。今作のバットマンは、今までの戦いで無理をしすぎたせいか、体がボロボロになっている、という設定だ。だから、最初に登場したときは杖をついて歩いているほどだ。そんなバットマンも、最後で体を治療してゴッサムのために立ち上がるのだが、この「立ち上がる様」は、ただ単に「肉体的なライジング」であり、「精神的なライジング」は全くなかったというのが最大の問題だと思う。

 創作をする人ならわかると思うが、作中で登場人物が病気になるのは、大抵精神的な問題があるからだ。その精神的な病気を肉体的な病気に置き換えることで、より直接的に表現できる。つまり、病気が治る=精神の病気も治ったということで、人物は精神的にもより強くなって復活することができる。

 バットマンは前作『ダークナイト』で、最終的に「悪の象徴」を自ら引き受けることで、事件に幕を下ろしゴッサムを平和へと導いた。悪の象徴だけではない。彼は自らの婚約者も『ダークナイト』で失った。それに対して、「ひょっとしたら助けられたのでは」という自責の念もあったはずだ。

 そういったもろもろの精神的な負担が、最初に提示された「杖をついたバットマン」に集約して表現されている。自分のやってきたことが悪として葬り去られることにも、徒労感があっただろう。

 だからこそ、バットマンの「ライジング」は「肉体的なライジング」と同時に「精神的なライジング」もなされねばならない。「自らの正義」をもう一度取り戻さなくてならない。

 結局のところ、それができずにライジングは「肉体的なライジング」に終わった。そして今作の悪役ヴェインも、「思想や道理のある悪」ではなく「ただの悪役」に成り下がってしまった。

 念のために言うと、ヴェインの悪にも動機や理由、大義名分はある。ただ、それらは全て取って付けたようなものであって、本質は「ゴッサム破壊してえ!」だけなのである。ここで私は「全ての悪役には大義名分や思想が必要だ」と言いたいわけではない。フリーザはただの征服欲で動かされている悪だし、『ジョジョの奇妙な冒険』のディオだって元々は社会の貧困が生み出した悪だが、ディオ自身はただ単に自分が成り上がるために悪を実行してきた。そこに「社会に対する自分の考え」=大義名分は限りなく薄い。

 つまり両者とも「純粋な悪」だが、それゆえに両者は魅力を放っているのである。創作物の悪役には必ずしも「思想」は必要でない。

 ただし、である。バットマンにはそれが必要なのではないだろうか。いや、私はバットマンについては全く知らないので、少なくともこのバットマン三部作に置いては、と言い直そう。特にその最後の「ライジング」には、絶対に必要な要素だったのはないかと思っている。

 結局のところ、警察があまりにもしっかりしすぎているせいなのと、それに対抗するヴェインの思想のなさも手伝って、「善悪二元論」の単純な話になってしまっている。

 「善悪混沌」だからこそ「秩序の中に組み込まれない力」(警察のように法律で統制されていない力)=「バットマン」が必要になるのであって、「善悪二元論」の中でバットマンが活躍できる場所が一体どこにあるというのだろう。

 これからすれば、『ジョジョの奇妙な冒険第5部』は非常によくできていると言えるだろう(ステマ)。ジョルノは「黄金の精神」を持っているがゆえに、腐敗した正義である警察を潔しとせず、「ギャングスターに憧れる」。もう一人の登場人物、アバッキオはモロに元・汚職警官。社会的に悪とされるギャングの世界にいるからこそ、彼らの「黄金の精神」はますます輝きを増す。

 そういう意味では、この『ダークナイト・ライジング』は明るい昼間に線香花火をやるような輝きしかなかったと言える。むしろこう言う意味で一番輝いていたのはヒロインのキャットウーマンだろう。貧富の格差という闇の中で、「金持ちからしか盗まない」というのは一種の「ロビンフッド」的な、彼女なりの正義だろう。勿体ないことに、そういう正義はキャットウーマンで止まってしまってバットマンにまで飛び火しないところも残念だ。

 散々貶めたようなレビューを書いたが、それもこの作品の根本が非常に良くできたものだからだ。それゆえ最後の詰めが足りなかったのは、すごく惜しい。

 心底のクソ映画ならこれだけの量のレビューも書かないだろう。

 傑作になりうる可能性は十分あったのに、惜しくも佳作で終わってしまった。

 そういう映画だと思う。


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